その先の物語 chapter W : 005

拝啓、オレのダチへ。
「ファイツちゃん、ファイツちゃん……っ」

右隣にいるペタシが、ベッドに横たわっている女の子の名前を何度も何度も口にする。ぐすぐすと嗚咽を漏らし、ずびずびと鼻水を啜りながら、ペタシは「ファイツちゃん」を繰り返すばかりだった。友達から発せられる音をBGMに、ヒュウは顔を歪めて目の前の人物を見下ろした。最早数え切れないくらい名前を呼ばれているというのに、彼女の唇がこちらの声に応じて動くことはなかった。

(……ファイツ)

彼女の名前を直接口に出して呼ばなかったのは、現在進行系でわんわんと泣きながら「ファイツちゃん」という単語を連呼しているペタシを反面教師にしたから、という理由からではなかった。正直なところペタシの声はちょっとだけ、いやかなりうるさかったのだけど。けれどそれでもヒュウは、ペタシに対して文句1つ言わなかった。だって、彼女はペタシの友達なのだ。そして改めて認めるのは照れ臭いけれど、ファイツは自分にとっても大事な友達だった。危なっかしくて放っておけない、ともすれば妹のような存在だった。
そのファイツが、変わり果てた姿でベッドに横たわっている。改めて突き付けられた現実を思うと、何も言えなくなってしまったのだ。鼻の奥がツンとする感覚を抱いていることに気付いて、顔を顰める。

(……いけね、オレまで泣きそうだ)

そう声に出さずに呟いたヒュウは、この空間にいる2人に気付かれないように目元を押さえた。泣いたところで特に問題があるとも思えなかったのだが、やっぱり気恥ずかしかった。そうは言っても、もしこの場にいるのが自分1人だけだったとしたら間違いなく泣いていたに違いないとヒュウは思った。それこそペタシのように咽び泣いていたかもしれない。だけど同時に、それは自分のキャラじゃないとも思った。例えば泣くとか大声で騒ぐとか、そういう素直な反応をするのはペタシやファイツの担当だと決まっているのだ。そんなことを考えてしまった所為なのだろうか、元気だった頃の彼女の顔が脳内に浮かんで、右の拳を握り締める。こうなれば意地だ。絶対に泣くまいと気合を入れ直したヒュウは、無言のままのファイツを見据えた。彼女の頭には、幾重もの包帯が巻かれている。

「ひっく……。ぐすっ……。ヒュ、ヒュウ……」

この部屋に入ってから初めて「ファイツちゃん」以外の言葉を発したペタシが、やっぱり涙声のままで名を呼んで来たから。だからヒュウは、名前を口にした友達の方に顔を向けた。だけどペタシは、ぐすぐすと涙を流したままこちらを見つめるばかりで、何も言っては来なかった。ごしごしと目を擦るばかりで中々話を切り出そうとはしない友達に、「何だよ」と続きを促してやる。

「よ、良かっただすね……。ファイツちゃんが、ぶ、無事で……っ!」

相変わらず泣いてばかりの友達が、涙声でそう言った。おそらくは泣き過ぎた所為で目元が腫れてしまったペタシの顔は、涙と鼻水まみれでベタベタだ。そんな友達に呆れの視線を向けたヒュウは、ペタシの言葉に曖昧に頷いた。
そうなのだ。顔色は相変わらずの悪さだけれど、頭だって包帯を巻かれているけれど、見るからに全身傷だらけだけど、こちらの言葉に何も返してはくれないけれど。だけどそれでも、ファイツは確かに生きているのだ。泣くのは気恥ずかしいと思う余裕があるのも、彼女の命が失われなかったこそだ。しかし彼女の置かれた状況を思うと、手放しで賛同する気にはとてもなれなかった。

「……”無事”、って言っていいのかは分からねえけどな」
「だども、だども……っ。い、医者は、五分五分だって言っただすからあ……っ!だからオラ、感激しちまって……」
「五分五分、か……」

脳裏に蘇ったのは、この病院にファイツを運び込んだ時の記憶だ。意識がない彼女と一緒に集中治療室に向かうさながら、険しい顔付きをした医者からは助かる確率が五分五分だと告げられた。その瞬間、ヒュウの目の前は真っ暗になった。五分五分ということは、つまり50%の確率で死ぬということなのだ。もしかしたら自分の身近な人間が死ぬかもしれないと思うと、震えが止まらなかった。
待合室で手術が終わるのを待っている時だって、ヒュウは怖くて堪らなかった。どうしてあいつばかりがこんな目に遭うのかと、何度思ったか知れない。何せ今日の昼だって、彼女は危うく命を落とすような大事故に巻き込まれたばかりだったのだから。これでもしあいつが死んだら、オレは一生神ってやつを恨んでやる。こう決意したのも一度や二度のことではなかった。

「ファイツも頑張ったよな。……すげえよ、お前」

無反応の友達に向かって、今度は手放しで称賛の言葉を送る。その言葉は素直じゃない性格だと自覚しているヒュウの、心からのものだった。何せこの怪我だ。きっと怖かっただろうに、間違いなく痛かっただろうに、ファイツは命の炎を絶やさなかった。自分達が彼女の元にたどり着くまでひとりぼっちで耐えて、8時間以上にも及んだ手術をどうにか乗り越えて、50%の確率にも打ち勝って。そうなのだ。死神に打ち勝ったから、だからファイツは今、この病室で深い眠りに落ちているのだ。何かが違えば、自分達が今見ているこの光景はあり得なかったのかもしれない。そう思ったヒュウの中で、急激に感謝の気持ちが湧き上がった。別に普段は神様なんて信じてはいないのだけれど、もしかしたら本当にいるのかもしれない。そんな考えが込み上げて来たヒュウは、柄にもなく神に感謝した。「ありがとよ」と、声に出さずに呟いてみたりなんかして。

「あ、ありがとだす、神様……っ!ファイツちゃんを助けてくれて、本当にありがとうだす……っ!」

ぼろぼろと涙を零しながら神様へのお礼を述べた友達に、思わず苦笑する。やっぱりそうだ。やっぱりこういう反応をするのはペタシの担当だと決まっているのだ。素直じゃない自分は、心の中で感謝するのが似合っているに決まっている。

「……ヒュウくん。それに、ペタシくんも」

この病室に入ってからというもの、ずっと押し黙っていたラクツが言葉を発したのは、まさにヒュウがそんな結論を出した時だった。ペタシが泣いている間も、そして自分が物思いに耽っている間も。横たわったファイツをひたすら見つめるばかりでただの一言も言葉を発しなかった友達の声で、ヒュウははっと我に返った。そうだった、この部屋にはラクツもいたんだった。声に出さずにそう呟きながら、ヒュウはまじまじと彼の顔を見つめた。

「……ラクツ」

途端に緊張感に襲われたヒュウは、背中から冷や汗を流しながらもう1人の友達の名前を口にする。眠っている友達程ではないにしても、ラクツの顔色はやっぱりものすごく悪いように思えてならなかった。待合室で自分と共に待っていた時の彼から滲み出る雰囲気と来たら、それは暗いものだった。とても口に出しては言えなかったが、もしもファイツが死んだらそのまま後追いするのではないかと密かに危惧したくらいなのだ。ファイツだけでなく、この男までいなくなるなんて絶対に嫌だ。声には出せなかったけれど、薄暗い待合室で何度もそう思った。自分の考えが当たっていたかは分からないし、今となっては訊かないつもりでいるけれど、ラクツは今確かに生きているのだ。今更だけどその事実を改めて認識したヒュウは、ファイツが生きていることに二重の意味で感謝した。

「…………」
「…………」

相変わらずいいとは言えない色をしたラクツの顔を見つめたまま、ヒュウは徹夜したことで上手く働かない頭をどうにか働かせようと奮闘した。自分の中でずっと引っかかっていることがあった。それはもちろん、突如として豹変したラクツ自身のことだった。
自分の知っているラクツは、とにかく軽い男だった。ポケモンバトルの実力はちゃんとあるのに、女と知れば一も二もなくナンパするような軽薄な男。授業中に指されればちゃんと正しい答を言うというのに、しょっちゅう授業に遅刻するような時間にルーズな男。いつも人好きするような笑顔を浮かべていて、どこまでも女好きで、悔しいことにポケモンバトルが自分よりずっとずっと強い男。それが”ラクツ”だった。そう、そのはずなのだ。
しかし今のラクツは、自分が知っているラクツとはかけ離れているように思えてならなかった。”ラクツ”は女を”くん”付けで呼ばなかったし、眉間に深い皺を刻んでなどいなかったし、自分達を呼び捨てで呼んでいたはずだし、どこか近寄りがたい雰囲気を振り巻かなかったはずだし、堅苦しい言葉遣いをしなかったはずなのだ。ファイツを病院に運ぶ時も、待合室で並んで待っている時も、とても訊ける雰囲気ではなかったから尋ねなかっただけで、そういえばずっと気になっていたのだ。ペタシだって訊かなかっただけで、絶対に気になっていたはずだとヒュウは思った。今なら訊いても大丈夫だろうか?緊張感から、ヒュウは思わず唾を飲み込んだ。

「ファイツくんが助かったのは、キミ達がいてくれたおかげだとボクは思っている。キミ達に、心の底から感謝する。……ありがとう」

少しだけ沈黙していたラクツがそう発したのは、ヒュウがまさに彼の名前を呼ぼうとした瞬間だった。被っているサンバイザーを脱いだラクツが、律儀にも自分達にそれぞれ深く頭を下げて、よく通る声ではっきりと礼を述べたのだ。実に礼儀正しい所作だった。
ゆっくりと顔を上げたラクツは口角こそ上げていたけれど、同時にどこか泣きそうな顔をしていたから。それにやっぱり気恥ずかしいから口には出せないものの、ラクツだってペタシと同じく自分の友達なのだ。だから、ヒュウは何なんだよだと尋ねるより先に苦笑した。そして雰囲気がまるっきり変わってしまった友達に向かって、「感謝するって顔してねえよ」と告げた。