その先の物語 chapter W : 004

血の代償
「……い、おい!」
「…………」
「おい、ラクツ!」

どこからか聞こえて来た声で、何もない床の一点を見つめていたラクツは顔を上げた。そのまま何をするでもなく前方を見つめ続けていると、更に大きな声で名を呼ばれた。流石に気になって、緩慢な動作で目線を横に動かしてみる。すぐ傍に見知った人物が立っているということをようやく認識したラクツは、固く閉じていた口を開いた。

「……ヒュウくん」

彼の名を呼ぶと、ヒュウははあっと溜息をついた。彼はどうして盛大な溜息をついたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら彼の顔を眺めていたラクツは、頬の一部分が突如として熱を持ったことを感じ取った。ヒュウによって缶コーヒーを頬に押し当てられたのだと理解した時には、優に10秒が過ぎていて。先程のことといい今といい、やはり自分の思考力と状況判断力は平時とは比べようがない程に低下しているらしい。その事実を改めて突き付けられたラクツは、けれど眉1つ動かさなかった。警察官失格だと、内心で舌打ちする気すら起こらなかった。視界に映ったヒュウではなく脳内に焼き付いたあの光景をぼんやりと見つめ続けていたラクツは、わずかに眉を動かした。依然として缶コーヒーを押し付けられていた頬が、更なる熱を帯びていたからだ。

「……何をする」

熱さ自体は余裕で耐えられる温度だ。しかし熱を帯びた物体を物理的に、それもかなりの強さで押し付けられるというのは流石に不快だ。不快感をわずかに滲ませた声で苦情を入れると、缶の固い感触はすぐに消え去った。こちらの求めに素直に応じたヒュウは、しかしここから立ち去る素振りを見せなかった。彼の手には依然として缶コーヒーが握られたままだ。

「何だ」

ラクツは相も変わらず彼ではない何かを見つめながら、淡々と言葉を紡いだ。黒と白、そして緑と青。大別して4色で構成された視界には、ここにはないはずの色が浮かんでいる。

「……ペタシくんは?先程までここにいたはずだが」
「あいつなら、ファイツのタマゲタケと一緒に売店に行ったぜ。つーか、お前にそう言ってたじゃねえか」
「そう、だったか……?」
「お前、本当に大丈夫なのかよ。人のこと言えねえけどよ、顔色すげえ悪いぞ」
「…………」
「お前、ここに着いてから座りっぱなしだろ?オレ達とは違って、お前は何も食ってねえじゃねえか」
「…………」

わざわざ肯定しようとも思わなかったが、実際ヒュウの指摘は的を得ていた。ホテルに帰ったはいいが、得体のしれない感情に襲われることとなったラクツはとても食事をする気にはなれなかったのだ。言うまでもなく、あの娘を捜そうと決意してからは飲食のことなど頭から完全に消え失せていたわけで。最後に摂った栄養らしい栄養と言えば、あのチーズケーキくらいではないだろうか。

「せめてこれでも飲んどけよな。……あー、心配すんな。オレの奢りだからよ」

もちろん、ラクツは缶コーヒー1本飲むのを躊躇する程金に困ってはいなかった。むしろ使う暇がないのに増える一方である貯金をどうするかという問題の方が、自分にとってはずっと身近な問題だと言っても過言ではないだろう。しかし何を勘違いしたのか、ヒュウは後半部分を慌てて付け加えると、ぶっきらぼうな口調で手に持ったそれを眼前に差し出して来る始末で。めげずに缶コーヒーを突き付けて来る彼のことを無駄な努力を重ねる人間だと評して、ラクツは缶コーヒーに視線を留めた。すると、下部に砂糖たっぷりという文字が印字されているのが目に留まる。砂糖たっぷりということはつまり、このコーヒーはかなり甘いのだろう。十中八九、砂糖の甘さが舌に残るはずだ。しかし、甘い味付けの飲食物を好んでいたあの娘なら喜んで飲むのではないだろうか。そんな考えに至ってしまった後で、ラクツは目を伏せた。

「…………」

集中治療室にいるあの娘は、現在進行形で生死の境を彷徨っているのだ。こうしている間にも、生命の灯がかき消えてしまうかもしれない。あの娘はコーヒーを飲むどころではない状況に置かれているというのに、水分を口にしてもいいのだろうか。言うまでもなく答は否だとラクツは思った。自由に手足を動かすことも、知り合いとの何気ない会話も今のあの娘には出来ないのだ。その事実を思うと、自分がここに存在していることが赦されないような気がしてならなかった。

「……いらない」

眉間にそれは深く皺を刻み付けて、言葉を絞り出す。それでもなお缶コーヒーを差し出し続けているヒュウに向けて、「キミが飲めばいい」と告げた。その途端に視界には再び赤色が浮かび上がって、ラクツは拳を震える程強く握り締めた。おそらくは電気代を節約でもしているのだろう。やけに薄暗い病院の廊下に、その赤が色鮮やかに浮かび上がる。脳裏に焼き付いて消えてくれない強烈な赤色を見つめながら、更に強く拳を握り締めた。

「あ、おい!お前、血が出てんじゃねえか!」

慌てたヒュウの声で海に沈んでいた意識が浮上するが、ラクツは平然としていた。当然だ、警察官である自分にとって流血を見るのは日常茶飯事なのだから。防御スーツを身にまとっているのをいいことに、ポケモンのわざをまともに受けたことも一度や二度のことではなかった。そう、自分は血を見ることに慣れているのだ。それなのに、ヒュウがあんなにも慌てていることがラクツは解せなかった。こんなもの、怪我のうちには入らないのに。
左腕を伝って座椅子に流れ落ちた赤色を、ラクツは焦点の定まらない目で見つめた。やはりそうだ、自分は血に慣れている。上手く働かない頭でそう思った。腕から流れ出ている血をいくら眺めたところで、何の感情も湧いて来ないことがその証拠だ。ラクツはそう結論付けたが、どうあっても消えてくれないあの赤色を認めて顔を歪めた。執拗に浮かび上がるあの赤の正体は、あの娘の身体から流れ出た鮮血の色だった。

(……ファイツくん)

もしかしたら二度と目を覚まさないかもしれない娘の名を、心の中で口にする。とてもじゃないけれど、直接声に出しては呼べなかった。ずっと捜していた彼女をようやく見つけた時、ラクツは眼前が真っ暗になる感覚に襲われた。一目見た瞬間にあの娘が一刻を争う状況に置かれていることは理解出来たのに、何故だか足が凍り付いたように動かなかった。つい数時間前までは血色が良かったはずの彼女の頬は、蝋のように蒼白く染まっていて。それとは対照的に服と身体の一部を赤く染め上げた彼女は、辛うじて息をしていたもののぐったりとした状態で崖の下に横たわっていた。あの赤を、あの光景を、きっと一生忘れることはないのだろう。ラクツはそんな確信を抱いた。

「おいラクツ!お前、何やってんだよ!?」

一向に飲んではもらえない缶コーヒーを無造作に鞄に突っ込んだヒュウが、慌てて鞄からよれてしまったポケットティッシュを取り出した。力を入れ過ぎた結果として、腕を伝う速度が増した血と。そして座面に到達した血を、焦った様子のヒュウが乱雑に拭い取っている。その光景をどこか他人事のように眺めていたラクツは、頭では別のことを考えていた。応急処置を済ませて病院へと運んだはいいが、対応した医者からは助かる見込みは五分五分だと告げられた。今にもあの娘が死ぬかもしれない、そう思うと寒気が止まらなかった。一筋の汗が、頬を伝って音もなく床に落ちる。

(……ああ、そうか)

きっと、これが”怖い”と呼ぶものなのだろう。そしてそう感じるということはつまり、自分はあの娘のことを大切な存在だと思っているのだろう。”怖い”ということがどういうことなのかも、そして自分があの娘を大切だと認識しているのだろうということも。それらについての理解が深まったことは、多分いいことなのだろうとは思う。しかし、それと引き換えに失われたのがあの娘の血なのだと思うと、何ともやるせない気分だった。そして、ともすれば命までもが失われるかもしれないというのは、大き過ぎる代償ではないだろうか。そもそも自分がもっと早く彼女の家に行っていれば、あの娘はこんな目に遭わなかったかもしれないのだ。そう思うと、ラクツはどうしようない程の後悔に襲われた。