その先の物語 chapter W : 003
解放する者は捕らわれる
時は、少し前に遡る。頬に当たる風の冷たさと、何より全身を襲う痛みで、ファイツは薄らと目を開けた。視界に広がるのは、黒一色だった。その黒色の正体が夜空だということに気付くまで、かなりの時間がかかった。「…………」
雲1つない夜空に、燦然と輝く満点の星がいくつも散りばめられている。襲い来る全身の痛みに耐えながら、闇を照らす光をぼんやりと眺める。こんな時なのに、ファイツはその光景を綺麗だと思った。そういえば自分は天体観測が好きだということを、今更ながらに思い出す。そんなどうでもいいことを考えた後で、ファイツはずきずきと痛む頭をどうにか働かせようと奮闘した。だけど痛みの所為なのか、どうしてこんなことになっているのかがさっぱり分からなかった。
そもそも、この激しい痛みはいったい何なのだろうか。そして、ここはいったいどこなのだろうか。ここが外であることと、何故か横たわっていること以外は何も分からなかった。場所を確認しようにも、身体が重くて動かせなかった。それでも何とかしようととりあえず右腕を無理やり動かしてみたら、これ以上ない程の鋭い痛みに襲われた。
「……っ!」
あまりの痛みで、黒一色だった夜空が朧げになる。悲鳴を上げたつもりだったが、どういうわけか声が出なかった。これまでの人生で一番の痛みだったと言っても過言ではないだろう。早々に諦めたファイツは、荒い息を吐きながら涙で滲んだ夜空を眺めた。根性なし、と言った自分の声が頭の片隅で聞こえて、ぐっと顔を歪める。負けたくないと、渾身の力で首を横に動かした。これも叫びたい程痛かったが、その痛みに見合うだけの収穫はあった。少し離れたところにそびえ立つ崖が辛うじて確認出来たことがきっかけとなって、今まで思い出せなかった記憶が鮮明に蘇る。
(そっか……。あたし……)
そうだった。自分の部屋で散々思い悩んだ末に、ファイツは1つの道を選択したのだ。それは、フタチマル用のお菓子に使うきのみを摂る為に今すぐに家を出ることだった。わざわざ夜に摂りに行く必要はないことも、野生のポケモンに襲われる可能性があることも、承知の上での選択だった。
その結果がこれだと、ファイツは愚かな選択肢を選んだ自分自身を嘲った。お菓子作りの本とタウンマップを頼りに森まで出向いて、お目当ての珍しいきのみを手に入れられたまでは良かった。だけど、きっとそこまでの道のりで運を使い果たしてしまったのだろう。いや、むしろきのみを手に入れるまでが幸運過ぎたのだ。迷わずに目的地までたどり着けた上に、野生ポケモンにも出会わなかった。おまけにきのみは今が食べ頃だとでも言わんばかりの熟れ方だったし、更に言うならお菓子作りに使っても余るくらいの量を手に入れられた。
こうして数々の幸運に恵まれたファイツだったが、いざ帰ろうという時になってその反動がやって来た。どうやら野生ポケモンの巣にうっかり足を踏み入れてしまったらしく、大きな百足の姿をしたポケモンに襲われたのだ。野生ポケモンの住処を踏み荒らしたのは他でもない自分だと理解してはいたものの、ファイツは人間の本能に従った。つまりは本能的に、背を向けて逃げ出したのだ。「住処を荒らしてごめんなさい」と謝りながら、必死でわけも分からずにただひたすら走った。だけど、思い出せるのはここまでだった。いくら思い出そうと頑張ってみても、そこからの記憶がまるで浮かんで来なかった。
(あたし、崖から落ちたんだ……。それで、今まで気を失ってたんだ……)
”野生ポケモンから逃げる途中で崖から落ちた”。気付いたら地面に横たわっていて、自分以外の生物がいる気配はなくて、何より全身がものすごく痛いのだから、きっとこれが答なのだろう。自分が置かれた状況をようやく理解したファイツは、静かに現実を受け入れた。受け入れざるを得なかった。その必要性はないというのに、1人できのみを摂りに夜の森に出向いた。これが無謀な選択肢であることは最初から頭のどこかで分かっていたはずなのに、無理やりに実行した。そうしようと決めたのは他でもないファイツなのだが、どうして自分がその道を選択したのかが今となっては理解出来なかった。多分、自暴自棄になっていたのだろう。だからこれは、愚かな自分への罰なのだとファイツは思った。
(良かった……。ダケちゃんを連れて来なくて、良かった……)
そもそもダケちゃんと一緒だったなら、あのポケモンを撃退出来ていたかもしれないけれど。それでもファイツは、連れて来なくて良かったと思った。もしかしたら、ダケちゃんも一緒に崖から落ちていたかもしれないのだ。無理につき合わせた所為でダケちゃんがこんな目に遭うなんて、絶対に嫌だった。想像したくないことを思わず想像したファイツは顔を歪めた。家にいれば、少なくともダケちゃんに危害が及ぶことはないに違いない。そう、だから。だからきっと、これで良かったのだ。ファイツは自分にそう言い聞かせて、横に向けていた首の向きを戻した。途端にずきりとした痛みが襲って来たけれど、仰向けになった分多少は痛みが和らいだ気がした。
(本当、綺麗……)
こんな状況だというのに、やっぱり星が綺麗だとファイツは思った。まるで心が洗われるかのような、それは見事な光景だった。まさしく天然のプラネタリウムだ。まったくもって綺麗だとしか言いようがない星々をぼんやりと眺めていたファイツの視界は、またしてもぼやけた。
「…………」
瞳から溢れた一筋の涙が、頬を伝って地面に落ちた。吹きつける風の音に混じって、その音がはっきりと耳に届いたのはどうしてなのだろうか。どうでもいいことを考えながら、ファイツは1人静かに涙を流した。そう、きっと。自分はきっと、もう助からないのだろう。そう遠くないうちに、ここで人生を終えるのだろう。近いうちに訪れるであろう現実を、ファイツは自然と受け入れていた。だって、助けを呼ぼうにも声が出ないのだ。痛みに耐えて無理に出したとしても、か細い声になるのが関の山だろう。いや、例え叫べたところでどの道結果は同じだとすぐに思い直す。何せここは崖下なのだ。それも、かなり高い崖なのではないだろうか。どれくらいの高さから落ちたのかは分からないけれど、意識があっただけでも奇跡に近いのではないかと冗談抜きでファイツは思った。まさに断崖絶壁としか言えない険しい崖下で横たわっている自分の声が、いったいどこの誰に届くというのだろうか。
声が出せないなら這ってでも動くということも一度は考えたが、ファイツはその方法を採ろうとは思わなかった。だって、首の向きを変えただけでもこんなにも痛みが走るのだ。右腕を動かしただけで叫びたくなる程に痛かったことを思うと、もしかしたら骨が折れているのかもしれない。その痛みに抗って前に進もうと思える程自分が強くないことは、ファイツ自身がよく知っていた。仮に無傷だったとしても、身体1つでそびえ立つ崖を登れるわけがない。おまけに崖の上には野生ポケモンが生息している森が群生しているのだ。奇跡が起きて崖の上までたどり着けたとしても、野生ポケモンに襲われるであろうことは目に見えている。それに、そもそもファイツは自分がここにいることを誰にも言っていないのだ。ぐっすりと寝入っていたダケちゃんには言わなかったし、書き置きすら残していかなかった。
そう。助けが来ないことなんて、そもそもこんな自分を助ける人がいないことなんて、最初から分かっていたことではないか。それなのに未練がましく泣いている自分のことが、心の底から嫌だとファイツは思った。
(どうせ、死んじゃうなら……。ラクツくんに、何が何でも謝れば良かったな……)
もうすぐ死ぬのだと思った所為なのか、頭の中には様々な人物の顔が浮かんだ。これがいわゆる走馬灯という物なのだろうかと、薄くなり始めた意識の中でぼんやりと思う。叶うなら、死ぬ前にダケちゃんを一目見たかった。それに、フタチマルにも会いたかった。優しくて頼れるホワイトにも会いたいし、やっぱり優しくて頼れる母親にだって会いたかった。今は地方を旅しているらしいNにももう一度会いたいと思ったし、ヒュウやペタシを始めとしたトレーナーズスクールのクラスメイト達にも会いたかった。だけど、一番会いたいと強く思ったのはラクツその人だった。
真面目なのにちょっとだけずるくて、少なくとも1ヶ月間は毎日顔を合わせていたというのに、最後までやっぱりよく分からなかった男の人。そのラクツに、謝っておけば良かったとファイツは強く思った。自分がいる所為で迷惑をかけてごめんなさいと、ちゃんとラクツに伝えれば良かった。
(ごめんね、ラクツくん……)
届かないとは分かっているけれど、ファイツは「ごめんね」と心の中で謝った。そして、目線だけを思い切り下まで動かす。首の向きはもう動かせそうもなかった。ああ、やっぱりだ。そうじゃないかとは思っていたけれど、やっぱりぼろぼろになっていた。ラクツがこんな自分の為に買ってくれた薄い青色のワンピースは、ファイツの一番のお気に入りだった。だけど、せっかくの可愛いワンピースは所々が酷く破れていて、とてもじゃないがもう着られそうもなかった。自分が着たことで他の誰かがこの可愛いワンピースを着られなくなったのだと思うと、ファイツは顔も知らない誰かに「ごめんなさい」と土下座して謝りたい気分だった。
「ごめんなさい」を言わなければいけないのは、ポケモン図鑑を作った博士にもだろう。視界に映ったとある物体に目を留めたファイツは、またしても心の中で謝罪した。鞄の中身が散乱していることに今の今まで気付かなかったのだ。落ちた拍子に壊れてしまったのか、所々にひびが入ってしまっている。結局はほとんど使うことのなかったポケモン図鑑を、ファイツは無意識に手に取った。痛みに襲われると分かっているのに、どうして手に取ったのかは自分でもよく分からなかった。
(結局……。結局あたしは……。色んな人に、迷惑をかけるばかりだったなあ……)
自己嫌悪と申し訳なさに捕らわれたファイツは、色々な人に向けて「ごめんなさい」と呟いた。この世からいなくなった後で、ここに横たわった物言わぬ自分を見つける人にも謝った。きっと、いや絶対に、嫌な思いをさせてしまうはずだから。謝り続けていくうちに、視界が急速に暗くなっていくことをぼんやりと感じ取る。とうとうその時がやって来たのだろう。いよいよ意識を手放そうとした時、誰かが何かを叫んでいるのが辛うじて聞こえた。
誰かが助けに来てくれたんだ。思わずそう考えたファイツは、だけどすぐに気の所為だと思い直した。こんな場所にいる自分を、いったいどこの誰が助けてくれるというのだろう?そんな人がいるわけないし、そもそも迷惑ばかりかける自分にそんな価値があるとも思えなかった。自分がずっと謝りたかった人が来てくれた事実に気付かないまま、最後まで自己嫌悪と申し訳なさと絶望感に捕らわれたファイツは完全に意識を手放した。