その先の物語 chapter W : 002

砕け散った仮面
ヒュウとフライゴンの存在を認めたラクツは、内心で舌打ちをした。多少は距離が開いていたとはいえ、彼らがいたことに微塵も気付かなかった。ヒュウに声をかけられて、初めて彼らの存在を認識した。それはすなわち、周囲の状況が理解出来ない程に焦っていたということなのだ。これがもし任務中であったとしたならば、間違いなく致命的な醜態だ。
これではあの娘に助けられた時とまるで同じではないか。警察官としてあるまじき失態を犯したあの頃と何も変わっていない。一度はそう思ったラクツは、しかしすぐにその考えを否定した。ファイツと再会したばかりの自分だったら、そもそもこれ程必死になって彼女を捜さなかったはずなのだ。延々とあの娘のことを考え始めた自分を現実に引き戻したのは、困惑しきったヒュウの声だった。

「おい、黙ってねえで何とか言えよ。お前、何でここにいるんだよ?」
「キミこそ、どうしてここに?」
「何でって……。そりゃ、オレの家だからな」

わけの分からない、と言わんばかりの表情を浮かべているヒュウの問いかけを綺麗に無視して、頭に浮かんだ疑問を口にする。困惑しているのはヒュウだけではなかった。指示を待っているのにいつまでもそれが飛んで来ないことで、フライゴンが困ったような表情で”おや”であるヒュウを見つめていた。そんなフライゴンの表情が何故だかあの娘と重なって見えて、ラクツは右手を強く握り締めた。そうだ、今はこんなくだらない問答で時間を浪費している場合ではない。ただでさえ深く刻んでいた眉間の皺を更に深くさせると、何かを勘違いしたらしいヒュウがぼそりと悪態をついた。

「……んだよ、その顔は!オレが自分の家にいちゃいけねえっつーのかよ!」
「ボクは何も言ってない。それよりヒュウ、ファイツく……ファイツちゃんの居場所を知らないか?」
「はあ!?そんなの、オレの方が知りてえよ。っていうかお前、ファイツと一緒に帰ってたんじゃねえのかよ?」
「うん……。一緒に帰ってた、けど……」

ラクツはそこで言い淀んで、唇を噛んだ。脳裏に蘇ったのは夕方の出来事だ。「迷惑だ」と告げた瞬間に、あの娘は瞳から大粒の涙を流して。そして、逃げるようにして走り去ってしまったのだ。その光景がこうして脳裏に蘇るのも、これでいったい何度目のことだろうか。

「途中で、別れて……。その後のことは、知らないんだ。家にもいなかったし、ライブキャスターに何度かけても連絡がつかないし……」
「何だよ、それ……。まさかお前、あいつに何かしやがったんじゃねえだろうな!?」

ヒュウによって胸倉を掴まれたラクツは、その状態のまま思案する。その気になれば簡単に解ける拘束を何故だか解く気にはなれなかったし、肩から転がり落ちたダケちゃんに気を回す余裕も今の自分にはなかった。わざわざ問い詰められるまでもなく、ラクツがあの娘に迷惑だと言い放ったのは事実だ。そして多分、”あれ”は世間一般的に言って悪いことに分類されるのだろう。そうでなければファイツはあのような反応を見せなかったはずだし、何よりラクツ自身がここまで気に病むこともなかったはずだ。誰がどう見ても怒っているヒュウに対して、ラクツは静かに頷いた。

「……うん、した」
「ラクツ、てめえ……!」
「だから、あの娘に謝りたいんだ。ダケちゃんと一緒に捜してるんだけど、全然見つからなくて……」
「…………」

互いに無言で見つめ合って、どれだけの時間が経ったことだろう。それは険しい顔をしていたヒュウが、はあっと大きな溜息をついた。それと同時に、彼によって拘束されていた身体が自由になる。

「分かった。オレも一緒に捜してやるよ。元々、オレもあいつのことは気にしてたしな」
「キミが?」
「そうだよ、捜すんなら人手が多い方がいいだろ。どうせならペタシも呼ぼうぜ。この時間なら余裕で起きてるだろうし、あいつのことだから理由を話せばすっ飛んで来るはずだ。うるせえ3人娘は……夜だから止めとくか。一応あいつらも女だしな。それに、お前がいるとあいつらは騒ぎそうだしよ」
「…………」

言うが早いが、ヒュウはライブキャスターでペタシに連絡を取り始めた。そんな彼を、ラクツは半ば呆気に取られながら見つめていた。トレーナーズスクールにいた頃の彼は、こんなに面倒見がいい人間ではなかったのに。

「思った通りだ、ペタシはすぐ来るってよ。……んだよ。気軽に連絡出来るダチが少ねえとか言うなよな!それとも、オレとペタシがいちゃ迷惑だってのかよ」

”迷惑”。ヒュウが何気なく言ったであろうその言葉は、ラクツの身に深く突き刺さった。自分があの時、あの娘に「キミといると迷惑だ」と言ったことに相違はない。しかし、あれは本心からのものではなかった。あの発言は突如として湧き上がった、正体の分からない何かをどうにかしたいという一心から来たもので、平たく言ってしまえば単なるやつ当たりだ。
ファイツのことを迷惑だなんて決して思っていないというのに、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうか。あの娘を捜し始めてからというもの、幾度となく繰り返して来た問いかけを胸中で呟いたラクツは、ふと我に返った。憮然とした表情をしたヒュウが、まっすぐにこちらを見つめていたからだ。ヒュウだけではなかった。依然として困った顔をしたヒュウのフライゴンも、そして”おや”を案じるあまり、嫌いであるはずの自分を頼るしかなかったダケちゃんも。三者三様の視線に気付いたラクツは意識を切り替えた。自らを省みるのは後回しだ。今はとにかく、あの娘を見つけることが最優先事項ではないか。

「いや、助かる。ありがとう、ヒュウ。一緒にあの娘を捜そう」
「……あ、ああ」

かつてはヒュウのことを内心で”邪魔”だとまで評したことがあるラクツだが、今となってはとてもそうは思えなかった。仮に、この場に3人娘がいたとしても同じことを思ったことだろう。何かを捜すとなれば、人海戦術は有効な手段の1つだ。素直に礼を言って前へと走り出す。ここから先は森だった。更に言うならレベルの高い野生ポケモンが多数生息している、まさに危険だとしか言えない森だったが、ラクツは構わなかった。言うまでもなく全力疾走だ。再び肩に乗ったダケちゃんを落とさない程度に、だが。

(ボクに対して嫌悪感を抱いているダケちゃんが、自分からボクの肩に乗るとは思わなかった。それ程までにファイツくんを案じているということか)

ラクツがダケちゃんと出会ったのは偶然だ。脳内で繰り返し再生されるあの映像にとうとう耐え切れなくなったラクツが、彼女にきちんと謝ろうと決意したのは、宿泊しているホテルに帰ってから数時間後のことだった。ダケちゃんとは彼女の家に向かう途中で出くわしたのだが、その瞬間に妙だとラクツは思った。こちらに対して何の威嚇もしないなんておかしいし、そもそもダケちゃんが1匹で外を出歩いていること自体が異常事態だ。
「あの娘は在宅しているのか」と尋ねたら、ダケちゃんはふるふると首を横に振った。「どこにいるのか知らないか」と尋ねたら、困り果てた表情を向けられた。湧き上がった焦燥感に突き動かされて、ダケちゃんと共に様々な場所を当てもなく走った。しかし、依然としてあの娘の行方は分からないままだ。

(ファイツくん……。キミは、いったいどこにいるんだ……)

ファイツに会いたいと、強く思った。もちろん、例えあの娘を見つけて謝ったところで、謝罪が受け入れられないのではないかという懸念はある。またしても逃げられるかもしれないけれど、またしても怖いと拒絶されるかもしれないけれど、あの娘の瞳を見て直接謝りたかった。「すまなかった」と、面と向かって言いたかった。「迷惑じゃない」と、はっきりと告げたかった。

「おいラクツ!ファイツを捜すって言ったってよ、当てはあるのかよ!?」
「ない!ダケちゃんのおかげで、家にいないことだけは分かってる!だから、ファイツちゃんが行きそうなところを手当たり次第に回ってるんだ!」
「あいつが行きそうなところって言われてもオレには分かんねえよ!……っていうか、何でそんなことをお前が知ってるんだよ!?」
「何で、って言われても……。女の子に人気のある店はだいたい把握してるから、としか言えないけど……」

当然の疑問を、ラクツは周辺を注意深く見回しながら適当にはぐらかした。嘘ではない、本当のことだった。大分後ろを走っているヒュウがぶつぶつ言っているのが辛うじて聞こえたが、全力で走っているのをいいことにラクツはまたもや無視することにした。上空から声が降って来たのはその時だ。夜空を見上げると、サザンドラに乗ったペタシがぶんぶんと片手を振っているのが目に入った。

「ラクツ、ヒュウ!オラもファイツちゃんを捜すだすよ!だども、空からじゃあファイツちゃんは見当たらなかったけど……!」
「ありがとう、ペタシ。キミは引き続き上空から捜してくれ!」
「わ、分かっただす!」
「ラクツ、オレもフライゴンに乗って空から捜すか?トレーナーと一緒の方が指示もしやすいしよ」
「いや、それはペタシとサザンドラに任せよう。……それで、フタチマル。成果は?」

背後から駆け寄って来たフタチマルに、振り向かずに問いかける。「何で分かるんだよ」というヒュウの指摘は、言うまでもなく無視だ。目の前までやって来て、そして静かに首を横に振った相棒を労ったラクツは、走りながらどうしたものかと思案した。フタチマルにはあの娘が好みそうな店だけでなく、自宅周辺の道路もくまなく捜してもらっていたのだ。
ダケちゃんを常日頃から大切にしているあの娘が、理由もなくダケちゃんを長時間置いていくとも思えない。そうなると、やはり何かの事故か事件に巻き込まれている可能性が高いのだろう。「あまり考えたくないけど」と前置きしてからその考えをヒュウに告げると、彼は「そうか」と苦々しい声で返した。おそらくは、ヒュウも考えていたことなのだろう。

(何か……。何かないのか?この状況を打破する、ファイツくんを見つける糸口になる何かが……)

無意識に鞄の中に手をやったラクツは、思わず立ち止まった。鞄にしまい込んである、とある物の存在に今になって気付いたのだ。今の今まで忘れていたが、”これ”は自分とあの娘の数少ない共通項ではないか。ラクツは鞄の中からとある物を取り出した。正しい所有者が所持していて、図鑑同士の距離が近い時にのみ発せられる、ポケモン図鑑の共鳴音。正直なところ望みは薄いのかもしれないが、八方塞がりの自分にはもうこれしかないように思えた。

「反応した!すぐ近くにいる!」

微かに寄せた期待は裏切られることはなかった。どこかから聞こえる規則正しい電子音を、その鍛えられた耳で聞き取ったラクツはヒュウを置き去りにして走り出した。あれは、間違いなくポケモン図鑑の共鳴音だ。聞いたのはこれが初めてだというのに、そんな確信を抱いたラクツはただひたすら走った。どれくらいの距離を全力で走ったことだろうか。ここだ、とラクツは思った。図鑑の共鳴音は、この険しい崖の下から間違いなく聞こえて来る。

「ファイツくん!」

迷いは微塵もなかった。ヒュウとペタシの前では絶対に使わないと決めていた呼称を叫んで、ダケちゃんを地面に下ろす。この子はファイツのポケモンなのだ、怪我を負わせるわけにはいかない。やっとのことで追いついたヒュウが何かを叫んでいるのにも構わず、ラクツは切り立った崖から飛び降りた。そうすることこそが、あの娘の元にたどり着く為の最短ルートだったからだ。しっかりと受け身を取ったラクツは、しかしその体勢のまま身動ぎ1つ取れなかった。

「ファイツ、くん……」

自分がずっと捜していたあの娘は、確かにそこにいた。しかし、とても無事とは言えない姿だった。裾が破れた、所々が血に染まった薄い青色のワンピースを身にまとったファイツは、ぐったりとした状態で地面に横たわっていた。震え声で名を呼んだラクツの耳に、彼女の声が届くことはなかった。