その先の物語 chapter B : 017

それは夢か幻か
よく晴れた日のことだった。お昼ご飯は何を食べようか、だけどその前にお金を下ろさなきゃなんて考えながら町の中を歩いていたファイツは、前へと進めていた足をぴたりと止めた。何だか自分の名前を呼ばれたような気がしてならなかったのだ。反射的に全身を小刻みに震わせたファイツは、呆然とその場に立ち尽くした。お昼ご飯やお金のことなどは一瞬で頭から吹っ飛んでしまった。それに、両足が凍り付いたように動かなかった。”誰かに名前を呼ばれたかもしれない”。ただそれだけのことで、だけどファイツの心臓はどきどきどきと痛いくらいに高鳴った。せっかく、ここ最近の中では一番とも言えるくらいに明るい気持ちになっていたのに……。

「…………っ」

人々で出来た波の中で突っ立っていたファイツは、声にならない声を上げた。頭の中に響き渡る心臓の鼓動に混じって、道行く人々の話し声が聞こえたからだ。だけど、その全てが自分への嘲笑にしか聞こえなかった。耳にこびりついて消えないくすくすという音は、果たして現実のものなのだろうか?とうとう堪らなくなったファイツは、右手を胸の中心に押し当てた。いつものように、首から下げているペンダントを服の上からぎゅうと握り締める。蒼い石で出来たそれは、ファイツの宝物だった。例えば、今のように怖くて堪らなくなった時。そして例えば、どうしようもなく不安になった時。そんな時にペンダントを握ると、どういうわけか不思議と気分が落ち着くのだ。現在進行形で恐怖と不安に捕らわれたファイツは、お守り代わりにしているペンダントに、必死に祈りを捧げた。そして同時に、いつも身に着けているペンダントを贈ってくれた”彼”に、心の中で必死に助けを求める……。

「おい、さっきから何やってんだよ」
「ひい……っ!」

右肩をポンと叩かれたファイツは、悲痛な声を上げた。今聞こえた音と肩に感じた感触は、絶対に夢や幻のものではあり得なかった。それに、どこか聞き覚えのある声に違いないと、そう思えたから。だからファイツは意を決して、おそるおそる振り返った。振り返ろうと決めるまでにはかなりの時間がかかった。振り返った途端に、見覚えのある人物の姿が視界に映り込んだ。自分の大事な男友達だ。

「……ヒュウ、くん?」
「おう」

眉間に皺を寄せている彼の名前を掠れ声で口にしたファイツは、ホッと胸を撫で下ろした。ここにいたのが彼で良かったと強く思った、心の底から安堵した。さっき自分の名前を呼んだのも、きっとヒュウだったのだろう。得体の知れない誰かなどではないのだと、そう何度も言い聞かせる。凍り付いていたはずの足は、いつの間にか動くようになっていた。

「……何だよ、人の顔じろじろ見やがって」
「あ、ごめんね。ヒュウくんで良かったって思っただけ」
「はあ?……意味分かんねえよ」

そう告げると、ヒュウはがしがしと頭を掻いた。ついでにそっぽを向いた彼の顔が少しだけ赤いように見えるのは、多分気の所為ではないだろう。ヒュウが照れ屋な性格なのだと知っているファイツは、「何でもないよ」と微笑んでみせた。

「それで、あたしに何か用でもあったの?」
「あー、どうせなら一緒に食わねえかと思って声かけたんだよ。ペタシも一緒だ」
「えっと……。じゃあ、一緒に食べてもいい?」
「おう、店はあっちだ。ペタシが席を取ってくれてる」

ファイツはこくんと頷いた。ヒュウの申し出は素直に嬉しかったし、はっきり言ってありがたかった。仕方ないと分かっているけれど、夏バテの所為か体調を崩したダケちゃんがポケモンセンターに身を寄せている今、たった1人でご飯を食べるというのはどうにも不安だったのだ。それを知っているからこそ、ヒュウも声をかけてくれたのだろう。友達と一緒ならきっと、いや絶対に楽しいに決まっている。

(……もしかしたらペンダントに願ったおかげ、だったりして)

ヒュウと一緒に歩きながらそう心の中で独りごちて、ペンダントに服の上から触れる。そんな魔法がかかっていないことは知っているけれど、それでもこれは普通のペンダントではないのだ。もしかしたら、願いを叶える効果もあるのかもしれない。

「……お前、具合でも悪いのかよ?息苦しいのか?」
「あ、えっと……。違うよ、そうじゃないんだけど……」

自分が紛らわしい動作をした所為で、息苦しくて胸を押さえたのだと思われたらしい。ヒュウの問いかけを曖昧に否定したファイツは、どうしようと思い悩んだ。ペンダントが贈られた経緯を正直に話したいのはやまやまだが、それはそれで自分が困るし、何より”彼”との約束を破ることになる。何とも濁した言い方をした自分を斜め上から見下ろしていたヒュウが、はあっと深い溜息をついた。

「……マジで顔色悪いぜ、お前。よく見りゃ隈も出来てるし」
「そ、そうかなあ?」
「おい、ファイツ。お前、あまり寝てねえだろ。……大丈夫か?」

ファイツは一瞬言葉に詰まった。このところあまり寝ていないのは事実だったが、だからといってその理由を正直に話すわけにもいかない。自分を心配してくれている優しい男友達に嘘をつくのは良心が咎めたが、ファイツは結局「推理ドラマにハマっちゃったの」と笑ってごまかすことにした。大丈夫だ、ごまかしきれる。演技をするのは仕事柄慣れている。だけどそれでも納得しきれていないのか、「大丈夫かよ」となおも訝しんだヒュウに向けて、ひらひらと片手を振ってみせた。自分はまだ大丈夫だ。演技でも何でも、にっこりと笑えているのだから。

「あ、ペタシくん!」
「ファイツちゃん!」

ヒュウの追及を躱したかったわけではないけれど、もう1人の男友達を認めたファイツは努めて明るく笑いかけた。こじんまりとしたカフェの席で頬杖をついていたペタシが、こちらに気付いてぶんぶんと片手を振ってくれている。

「ヒュウくんとそこで偶然会ったの。あたしも一緒に食べてもいい?」
「もちろんいいっぺよ。ダケちゃんは、まだポケモンセンターにいるだすか?」
「そうなの、まだ治ってなくて……」
「心配だすな……。だども、ここのパフェは絶品だべな!ファイツちゃんも、これを食べて元気を……」

頬を紅潮させたペタシは、そこで口を噤んだ。目を見開いて、まじまじと自分の顔を見下ろしている。高さという意味で随分と差がついてしまった彼の顔をじっと見上げながら、ファイツはその場に立ち尽くした。ペタシもヒュウと同じく、自分の大事な男友達だ。だけどそれでも、誰かにじろじろと見つめられるのは怖い。それがペタシからのものと分かってはいても、視線をじっと向けられるのはやっぱり怖い。

「ど、どうしたの?」

唇を震わせながら尋ねると、ペタシは我に返ったように「じろじろ見てごめんだす」と答えた。そのすぐ後で実に心配そうに「寝てないんだすか」と口にした男友達に向けて、ファイツはヒュウに告げたものとまったく同じ言葉を送った。ペタシは文句なしに優しい。ヒュウだって、ちょっとぶっきらぼうだけど優しい。その優しい2人の男友達に嘘をついたという罪悪感で胸がずきんと痛んだが、それには気付かない振りをした。

「ほら、ペタシもこう言ってんだろ。食うより寝た方がいいんじゃねえの?」
「大丈夫だよ。今日は休みだし、帰ったらちゃんと寝るもん」
「本当かよ……」

実に疑わしげな視線を突き刺して来る友達に、ファイツは「ちゃんと寝るから」と重ねて告げた。嘘に嘘を塗り重ねている事実で、胸の痛みは更に強くなった。その胸の痛みからはっきりと目を逸らしたファイツは、椅子に座るとテーブルに立ててあったメニューを手繰り寄せた。様々な食べ物の写真が並んでいるメニューをパラパラと捲る。トマトがふんだんに使われているスパゲッティの写真が、ファイツの目を惹いた。

「じゃあ、この”季節の冷製パスタ”にしようかなあ……」
「あ、オラもそれにしようだべなって思っただす。今日はやけに暑いだすからね」
「そんなこと言って、結局肉にしたんだろ?オレは元から肉にするつもりだけどな」

メニューをざっと見ただけで呼び出しボタンを押したヒュウが、やって来た店員に対して選んだメニューをてきぱきと言い連ねている。その様子をぼんやりと眺めていたファイツは、頭上に広がっている青空を見上げた。雲1つない、澄み切った青空だ。今この瞬間見ている空が”彼”とお別れした日のそれと重なって、ファイツは無意識にペンダントを押さえた。”彼”とお別れしたあの日から、早くも3年の月日が流れていた。これを贈ってくれた”彼”は、今どこで何をしているのだろうか……。

「ラクツは今どこで何をしてるんだべなあ……」
「……っ!」

奇しくもまったく同じタイミングで彼のことを考えていたとは思わなかった。ついつい息を飲んだファイツは、”彼”の名前を口にしたペタシにさっと目線を向けた。だけど、間の悪いことにペタシとばっちり目が合ってしまった。テーブルの上で頬杖をついたペタシは、何とも不思議そうな顔をしている。

「……どうしただべな?」
「あ……。ううん。ラクツくん、どこで何やってるんだろうね……」

勢いよく目が合ってしまった以上はもう仕方がないので、ファイツは正直に心に浮かんだ言葉を吐露することにした。その呟きを受けてか、ヒュウが「どっかで遊び歩いてるんだろ」と鼻を鳴らしながら答えたが、ファイツはそれに対しては何も言わなかった。ラクツが遊び歩いているのだとヒュウは思っているらしいが、ファイツはそうは思わなかった。ラクツに限って、それだけは絶対にないだろう。

「まったく薄情なやつだよな。あいつ、オレが連絡しても全然返事を寄越さねえんだぜ」
「そうなの?」
「ああ。あいつからライブキャスターで連絡して来たのは1回きりだ。ペタシもそうらしいぜ」
「そうなんだすよ!いくらかけても全然繋がらないだべな……」
「そう、なんだ……」

店員が運んで来た水に口をつけたファイツは誰にともなく呟いた。氷の冷たさが心地いいと思いながら、話し込んでいるヒュウとペタシを見つめる。ラクツとはライブキャスターで連絡を取り合っていないのだが、それは2人共同じだったらしい。

(やっぱりラクツくん、忙しくしてるんだ……。画面越しでも会えないのはちょっと淋しいけど、迷惑かけちゃうよりずっといいもんね……)

ファイツだって、ラクツのライブキャスターの番号はもちろん知っている。だけど、この3年間は一度たりとも彼を呼び出したことはなかった。この呼び出しが彼の任務の、そして睡眠の邪魔をするかもしれないと思うと、どうしてもかける気になれなかったのだ。

「あ、もしかしてお前……。ラクツにしつこく言い寄られてるとかじゃねえだろうな」
「ち、違うよ!」

ずいっと詰め寄って来たヒュウに対して、ファイツは力いっぱい首を横に振ってみせた。今度の”違うよ”は、心からのものだった。どこをどう探しても、自分がラクツにしつこく言い寄られているという事実は存在しないのだから。それでもとある事実は、つまりはラクツと手紙で連絡を取り合っているという事実は口にしなかった。そう、時々だけれどラクツは手紙をくれるのだ。自室の机の引き出しの中に眠っている、綺麗な字で書かれた何通もの手紙を思い浮かべて、ファイツは目を細めた。ヒュウとペタシには申し訳ないけれど、その事実は胸の内に秘めたまま内緒にしておいた方がいいだろう。

(今度は、いつ届くのかな……)

不定期に届く手紙を楽しみにしているファイツだが、返事は書いたことがなかった。宛先を国際警察本部にすれば届きはするらしいが、他ならないラクツに”返事は書かない方がいい”と最初の手紙で忠告されたからだ。何でも国際警察本部に届く郵便物の全てに、検閲が入ってしまうのだとか。第三者に彼とのやり取りを見られるのは居たたまれないというか、とにかく抵抗があって。だからおとなしく忠告に従ったファイツは、3年もの間、彼の顔も見れないし、彼の声も聞けないでいる。だけど、ファイツはそれでも良かった。不定期とはいえ手紙が届くということは、少なくとも無事ではあるということなのだ。顔が見たい、声を聞きたいという気持ちはもちろんあるけれど、ラクツが怪我をしないで日々を過ごしてくれているなら、それでいいではないか。いつかラクツと直接会えた暁には、思う存分話そうと決めている。

「あ……。そうだ!あたし、お金下ろさなきゃいけないんだった!すっかり忘れてた……っ!」

ラクツを想って少しの間目を伏せていたファイツは、彼方に吹っ飛んでいた用事を思い出した。勢いよく立ち上がった結果として後ろに倒れた椅子を、慌てて元に戻す。音を立てた所為で余計な注目を浴びてしまい、胸がちくりと痛んだ。

「マジか、何ならオレが立て替えてやるよ。何なら奢っても……」
「ダメだよ、そんなの!あたし、銀行に行って来る!」

言うが早いが、ファイツはカフェを飛び出した。町の中を歩きながら、早く下ろさなきゃとお金のことについて思いを馳せていたファイツは、突如として感じた衝撃に本日二度目の悲鳴を上げた。

「……え?」

間の抜けた声を上げたファイツは呆然とその場に立ち尽くした。見覚えがない男の人が、見覚えのあり過ぎる鞄を右手に抱えて走り去って行くのを成す術もなく見つめる。鞄をひったくられたという事実をようやく認識したファイツは、人の波を泳ぐ男の人に向かって「返して」と叫んだ。あの鞄も首から下げているペンダント同様、ラクツからの誕生日プレゼントなのだ。思い出が詰まった大事な鞄だ。何としても返してもらいたかったファイツは、声を張り上げた。

「返して……!」

渾身の叫びは、だけどひったくり犯には届かなかったらしい。だけどそれも当然だ、返してと言われて素直に返すひったくり犯などいるわけがない。ファイツは必死に追いかけようとしたが、足を前に踏み出した途端にどうしてかよろめいてしまった。ここ最近の睡眠不足が祟った所為なのだろうか、追いかけたい気持ちはあるというのに身体に力が入らなかった。ぐるぐると回っていた視界が、急速に歪んでいく。

「あ……っ」

ファイツは前へと倒れ込んだが、固い地面にぶつかる感触はなかった。誰かが抱き留めてくれたのだろうか?薄れていく意識の中でどこか懐かしい声が聞こえたような気がして、ファイツは最後の力を振り絞って目を開けてみた。自分を抱き留めてくれている人物がいったい誰なのかを、どうしても知りたかったのだ。

「……ラクツ、くん……?」

彼の名前を、呆然と呟く。目の前の光景が信じられなかった。どうしてラクツがここにいるのだろう?

「…………」

3年振りに会ったラクツは、何も言わなかった。黙ったまま、自分を見下ろしていた。今見ているこれは、彼の顔が見たいという願望が見せた幻なのだろうか。とうとう限界が訪れたファイツは心の中でそう呟いて、ラクツの腕の中で意識を手放した。