その先の物語 chapter B : 016

絡めた小指
(……どうしたものか)

そう胸中で呟いたラクツは、「ごめんね」を幾度となく繰り返している娘を見つめた。サンドイッチをほとんど食べてしまったことで酷く落ち込んでいる様子のファイツは、自分自身が赦せないのかそれはそれは眉根を寄せていた。最早直ることはないのではないかと思える程にぐぐっと寄せられていたから、ラクツは思わず苦笑してしまった。何にでも一生懸命な彼女らしいと言うか、何と言うか。心に湧き上がる”これ”の正体は相も変わらず理解出来なかったが、不快感は欠片も存在しないことは理解出来た。

(おそらくはこの娘限定なのだろうが……。ボクも変わったものだな)

かつての自分なら、絶対にこうは思わなかったと言い切れる。たかがサンドイッチ1つで何故こうも真剣になれるのかと、盛大に呆れていたに違いない。呆れるどころかむしろ彼女の一挙手一投足が気になって仕方ないのだから、人間変われば変わるものだと改めて驚嘆する。そんなことを考えていると、ファイツがまたしても「ごめんね」と謝った。日光に照らされているというのにその表情はこれ以上になく曇っていたから、ラクツは閉じていた口を開いた。もしも彼女に泣かれたとしたら、大いに困る。他の誰かなら別に気にならないが、ファイツが泣くのだけは困る。

「あの、本当に……」
「謝罪はそこまでにしてくれ。何もそこまで気にせずともいいだろう」

それは心からの言葉だった。サンドイッチをまったく口にしていなかったわけでもないし、そもそも「一緒に食べないか」と告げたのはこちらの方なのだ。それでも彼女にとっては相当に気に病む事柄であるらしく、表情は依然として暗いままだった。

「でも……。あたしったら、フタチマルくんの分まで食べちゃったし……。あの、フタチマルくんは?」
「ボール内に閉じ篭ったままだ。……おそらくは気を遣ってくれているのだろうな」
「そんな!フタチマルくんも気にしなくていいのに……っ。あたしは全然気にしてないんだから……」

大いに誤解している娘の言葉で、またしても苦笑いが漏れる。彼はこの娘を好いている自分を慮って、自らの意思で出て来ないだけなのだ。それを指して”気遣ってくれている”と言ったのだが、ファイツは”自分に悪戯をしたことをフタチマルが気にしているのだ”と解釈したらしい。

「……フタチマル。ファイツくんはこう言っているが、どうする?外に出るか?」

モンスターボールの中に入った相棒に問いかけてみたら、首をゆっくりと横に振られた。あれ程彼女に懐いていたというのに、ボールの中で別れを済ませるつもりでいるらしい。自分としてはフタチマルがこの場にいても別に良かったのだが、どうやら彼の意思は固いようだ。フタチマルが自分の意思でそう決めたのなら、こちらが無理強いするわけにもいかない。”まあいいか”とおとなしく引き下がったラクツだったが、ファイツの方はそうはいかなかった。一緒に鞄の中を覗き込んでいたファイツは、現実を受け入れられないのか悲壮感溢れる表情をしている。

「あたし、もしかして嫌われちゃったのかな……」
「いや、それはない。むしろ真逆だ」

唇を震わせて「どうしよう」と狼狽える彼女に、ラクツは柔らかく微笑んでみせた。流石に彼の真意を明かすことは出来ないが、だからといって何もしないでいるのは嫌だった。

「フタチマルは、キミを好いていると思うぞ」
「……本当?」
「ああ。少なくとも、ボクはそう思うが。何ならフタチマルに訊いてみるか?」

閉じていた鞄を再び開く。わざわざ尋ねるまでもなく、結果は誰の目にも一目瞭然だった。会話にきちんと耳を傾けていたらしいフタチマルが、落ち込んでいるファイツに向けて全力で頷いているのが見えた為だ。

「ほら、ボクの言った通りだろう?」
「うん……」
「だから、もう気に病むな。サンドイッチについてもだ」
「……うん」

余程不安だったのか、ファイツは息を深く吐き出した後に押し黙ってしまった。彼女の真似をしたわけではないけれど、ラクツもまた唇を引き結ぶ。本当はファイツだけを見つめていたかったのだが、それを実行するのは何となく気が咎めて。だからラクツは、真正面に目線を留めた。風の動きに合わせて、伸び放題の草むらが揺れていた。

「…………」
「…………」

沈黙がこの場に満ちる。どこか重苦しい沈黙だった。元来饒舌ではないラクツにとって、沈黙はむしろ歓迎すべき事象のはずだった。それでも手放しで歓迎する気になれないのは、この娘と別れる時が迫っているからなのだろうか。無意識に眉間に皺を寄せたラクツはライブキャスターを一瞥した。

(現在の時刻は午後2時15分か。予想以上に話し込んだな)

ヒュウとペタシとの会話とは違って、ファイツとのそれは大層実りのある時間だったと言える。”もう少しここで彼女と話していたい”。それが、自分の偽りならざる本音だった。しかし、その本音を心の奥に沈めたラクツは意識を切り替えた。自分はやはり、どこまで行っても警察官なのだ。その矜持が、そろそろ出立しなければまずいと告げていた。もちろん一刻を争うわけではない、けれどこれ以上ここに留まっていると国際警察本部への帰還が遅れかねない。何と言っても、この地から本部へはかなりの距離があるのだ。流石に長期休暇を取っておいて遅刻するわけにはいかない。いや、そもそも遅刻すること自体に強い忌避感を覚えるのだけれど。

「…………」

そろそろ出立しないと遅刻する危険性がある。そのことを充分に理解していながら、ラクツはこの場に留まっていた。彼女と話したいというのが本音なのに、何をするでもなく風にそよぐ草むらを見つめていた。草むらの緑に混じって、赤と黄色の花が揺れているのが目に留まる。無意識に口角が上がった。小さな花々や草木に目が留まるようになったのも、隣にいる彼女のおかげだ。ファイツから教わったものは自然に対する情緒だけでは終わらなかった。例えば、料理の詳しい手順やポケモンへの接し方だ。そして、他人を慈しんだり妬んだり愛するという感情も当然含まれる。特に一番最後に関しては、この娘に再会しなければ絶対に産まれなかった感情だと思う。色々なことを教えてくれた娘としばらくは会えなくなる。突き付けられた現実を思うと、心臓に痛みが奔った。”後ろ髪を引かれる”とは、まさに今の自分を指すのだろう。

(……行くか)

痛みを覚えながら小さな花々を見つめていたラクツだったが、とうとうベンチに落ち着けていた腰を浮かせた。押し黙っていた娘に名を呼ばれたのは、足を踏み出した直後だった。

「ラクツくん……っ」

こちらの名を表す単語を口にした娘が、更に言葉を紡ぐ。耳に飛び込んで来た音を認識したラクツは、その求めに応じて足を止めた。ゆっくりと振り返ると、待って欲しいと訴えたファイツと目が合った。海を思わせるかのような蒼い瞳が、草花に負けず劣らずゆらゆらと揺れているのが見える……。

「…………」

遅刻するかもしれないからと、この娘と話さずに別れるのは簡単だ。だけどそれを実行する気にはどうしてもなれなくて、ラクツは閉じていた唇をゆっくりと開いた。

「…………キミには、色々と世話になったな。……本当に、感謝している」

音を出す寸前になって言葉に詰まったラクツはほんの数瞬沈黙した。結局唇から飛び出したのは、感謝の言葉だった。告げた瞬間、視線が顔に突き刺さるのを感じ取った。ファイツが向けているものとは別の、それはそれは鋭い視線だ。

「……?」

ダケちゃんのことを最初に疑ったラクツは、ファイツの肩に視線を移した。目と目が合った瞬間にそっぽを向かれたことで、内心で苦笑する。結局、ダケちゃんには最後まで嫌われたままだった。それでも、顔のみならず身体に突き刺さる鋭い視線は消えないままだ。

(……フタチマルか)

気を取り直して、気配を辿る。視線の出所はすぐに分かった。彼女でもダケちゃんでもないのなら、残りは1択しかないわけで。案の定、ボール内の相棒がこちらを見つめているのが視界に映った。”この流れで告白しないでいいのか”と、つぶらな瞳が言っていた。もちろん、ラクツはポケモンの想いを読み取れる特殊能力が自分にないことは理解している。しかし、どうしてかそう思えてならなかった。

「…………」

ラクツは改めて、ファイツの顔を斜め上から見つめた。この娘のことは好きだし、言うまでもなく特別な存在ではあると理解している。けれどそれでも、この場で”好きだ”と告げるつもりはなかった。あくまで友人関係でしかないのだと、彼女自身によって思い知らされた所為かもしれない。あるいは、ただ単に困らせたくないだけかもしれない。どうしてそう思うのかは自分でも分からなかったが、とにかく告白する気はなかった。それだけは確かだ。将来的にどうするかは、現時点では決めていないけれど。

「あの、ラクツくん……。えっと、だからね……っ」

”待って”と言いながら中々続きを発しなかった娘が、言葉を紡いだ。両膝の上で握った手を小刻みに震わせながら、言葉になっていない言葉を懸命に紡いでいる。その様子を、ラクツはただ黙って見つめていた。

「次に会えたら、ご飯を作るから……。だから、だから、その……っ。……やだ、もう……っ。泣かないつもりだったのに……っ」

泣きそうな顔をしていたファイツが、とうとう瞳から涙を零した。零れ落ちる涙を止めようとごしごしと何度も擦った所為で、目の下がものの見事に赤くなっている。

「”次に会ったら”、か」
「も……。……もしかして、もう会えないの……?もう二度と、ラクツくんって呼べないの……?」

心の中で呟いたつもりが、声に出ていたらしい。縋るような目でこちらを見上げるファイツは、絶望そのものの顔をしていた。どこまでも一生懸命で、素直で、まっすぐな娘に向けて、ラクツはしっかりと首を横に振ってみせた。

「……いや」
「ほ、本当……っ?」
「ああ。いつになるかは分からないが、ボクはまたこの地方に戻って来る。この姿で、この名前で。ファイツくんに会いに、イッシュ地方に戻って来る。……必ずだ」

いつかのように、ファイツを突き放そうとはもう思わなかった。彼女にきちんと伝わるように、一言一言を力強く告げる。

「……だから。その時はまた、ボクに手料理を振る舞ってくれないか。キミさえ良ければの話だが」
「うん、うん……っ!あたし、これからもラクツくんって呼ぶから……っ!それに、ご飯だってたくさん作るから……っ!」
「ありがとう。ボクも、まともに食べられる物を作れるようにはなっておきたいものだ」

「ラクツくんが作ってくれたご飯だって美味しかったのに」と言って、微笑んだファイツを見降ろしていたラクツは、彼女から目を逸らした。このままここに留まると、”別れがたい”という気持ちが本気で生まれそうだ。国際警察官として、任務に従事しないわけにはいかない。踵を返しかけたラクツの背中に、彼女の声が降りかかる。小指を立てた左手を上げているファイツは、涙を零しながら笑っていた。

「ラクツくん、絶対にまた会おうね。……約束だよ!」
「……ああ。また会おう、ファイツくん」

ラクツは腰を屈めて、ファイツと目線を合わせた。自分の小指を、ファイツの細いそれと絡める。触れ合わせた小指をゆっくりと離して、彼女からも離れて、背筋を伸ばしたラクツは前へと歩き出した。背中に突き刺さった彼女の声と視線を感じたものの、ラクツは振り返らなかった。目的地である国際警察本部に向かって、未来に向かって、ラクツはどこまでもまっすぐに歩み続けた。