その先の物語 chapter B : 018

目覚めの夜
どこか遠くで、何かの音が鳴っているような気がする。真っ暗な中で、誰かに呼ばれているような気がする。まるで海底から身体が浮上するような感覚を覚えて、ゆっくりと目を開けた。

「…………」

夢から醒めたファイツがまず最初に感じたのは、薄暗いということだった。視界一面に、灰色の天井が広がっている。どちらかといえば黒寄りの濃い灰色だ。灰色は特別嫌いではない色だったのだけれど、何となく不安を煽る灰色だとファイツは思った。首を傾げながら、目だけを軽く動かしてみる。見覚えのない天井だった。自分が今の今まで横になっていたベッドにも、やっぱり見覚えがない……。

(ここって、どこなんだろう……?)

ここがどこなのかは分からなかったが、少なくとも自分の家ではなさそうだ。どうして寝ていたんだろうと首を更に傾けたファイツは、ゆっくりと起き上がった。今度は首を動かして辺りをきょろきょろと見回してみると、閉められたカーテンの隙間から黒色の空が見えた。今は夜なんだと、ぼんやりとした頭で思った。何だか頭が痛むような気がするのは、今まで眠っていた所為なのだろうか?

「……あたし、何でこんなところにいるの……?」

唇から勝手に漏れた弱々しい呟きが、静かな部屋に響き渡る。ファイツは震える二の腕を両腕で抱き締めた。ダケちゃんが傍にいない今、知らない部屋にひとりぼっちでいるのはとにかく不安で仕方がなかった。何度か深呼吸をして不安から高鳴る心臓を必死に宥めたファイツは、まずは状況を整理しようと上手く働かない頭を懸命に働かせてみた。確か、自分は町の中を歩いていたはずだ。そこで男友達であるヒュウとペタシに偶然会って、2人と一緒にご飯を食べることになって、注文したメニューが運ばれて来る前に手持ちのお金が足りなかったことを思い出して、お金を下ろそうと慌てて銀行に向かおうとして……。

「あ……っ!」

記憶の道をたどったファイツは、肩を大きく跳ね上げさせると同時にか細い悲鳴を上げた。そうだった、ようやく思い出した。確か、自分はひったくりに遭ったはずだ。ハンカチやら財布やら仕事で使っている手帳が入った鞄ごと、後ろからぶつかって来た男の人に奪われたのだ。お金を下ろす途中でひったくられたのだから財布にはほとんどお金が入っていなかったのだが、そこは大した問題ではなかった。家の鍵だって入っていたから、今度は同じひったくり犯が泥棒に入るかもしれない。それどころか、自分が今いるここがひったくり犯の家だという可能性もある。そう思うと背中から否応なしに汗が流れ落ちた。ファイツは必死に部屋中を見回したが、お気に入りの鞄はどこにも見当たらなかった。そしてもちろん、ラクツの姿もなかった。どうしてか気を失う寸前で彼の顔を見たような気がしたのだけれど、やっぱりあれは自分の願望が見せた幻でしかなかったのだろう。

「どうしよう……」

心に思い浮かんだ言葉を呟く。まさに、どうすればいいのかが分からなかった。鍵の型を取られたかもしれないことだってものすごく困るが、何よりあの鞄は国際警察官である男友達からの誕生日プレゼントなのだ。月が9で、日付けが16。律儀にも自分が産まれた当日に届くように、可愛いプレゼントを小包みで贈ってくれる。絶対に忙しいだろうに、グラシデアの押し花と手紙を添えたプレゼントを、毎年欠かさず贈ってくれる。一昨々年は蒼い石で出来たペンダントで、一昨年が花をモチーフにした髪留めだった。そして、去年の誕生日にもらったのがあの鞄なのだ。落ち着いた青色の可愛い可愛い鞄は、ひと目でファイツのお気に入りになった。あまりに可愛かったから、ポケウッドに行く時もスーパーに買いに行く時にも、どこへでも持ち歩いた。その思い出が詰まった大事な鞄がないことに不安感を抱いたファイツは、無意識に胸の前に手をやった。

「……え?」

いつものように気を落ち着かせようとペンダントを握ろうとしたファイツは、唇から呆然と音を漏らした。あるはずの固い感触がないのだ。この時点で察してはいたけれど、それでも信じたくなかったファイツはおそるおそる着ていた服を引っ張ってみた。目を逸らしたくても逸らせない現実が、しっかりと両目に映った。首にかかっていたはずのペンダントが、そこにあるはずの宝物が、影も形もなくなっていたのだ。

「……っ!」

自然と顔が引き攣った。ただでさえ薄暗かった視界が、みるみるうちに涙でぼやけた。鞄を奪われたこともショックだったが、ペンダントを失くしたと分かった時の衝撃はそれ以上だった。自分がどうして知らない場所で寝ていたのだろうという事態は最早大した問題ではないのかと思えるくらいだった。ペンダントを失くすのは、これで二度目だ。

「…………」

ファイツはかつて、大切にしていたペンダントを失くしたことがある。自分がこうしている今この瞬間も世界のどこかを旅しているであろう、大事な人の写真が入ったペンダントだ。そして一昨々年の誕生日にラクツからペンダントを贈られた時、ファイツは今度こそは失くさないようにしなきゃと心に固く誓ったのだ。何でも”リフレクター”と”ひかりのかべ”を合わせた効果を持つ、特注のペンダントなのだとか。技術の粋を結集させた、それこそこの世に1つしかないペンダントなのだ。恐れ多いとか申し訳ないなどと思いつつも、自分を心配してくれたラクツの気持ちが嬉しかったファイツは、大事に大事にペンダントを扱ったものだ。それなのに、どうして失くしてしまったのだろう?ファイツは虚ろな目で薄暗い空間を見つめた。あんなに大切にしていたのに、大事な友達からの気持ちがこもった大切な贈り物だったのに……。

「行か、なきゃ……。探しに行かなきゃ……っ」

何もない空間を見つめて、どれくらいの時間が経ったことだろうか。”いつまでもここでこうしてはいられない”、そう思ったファイツはよろよろと立ち上がった。もちろん場所の当てなどない。もしかしたら落としたのかもしれないし、ひったくり犯に盗られたのかもしれない。だけど、だからといって何もせずに諦めるわけにはいかない。何と言ってもあれは、大切な大切な宝物なのだから。ファイツはうわ言のように探さなきゃと呟いた。それでも絶望感に苛まれていた所為か、一歩歩く毎に足がふらついた。

「……!」

上手く動かない足を必死に動かしていたファイツは、ぴたりと足を止めた。規則正しいノックの音が聞こえたのだ。辛うじてそんな事態にはならなかったが、何かが違っていればきっと悲鳴を上げていたことだろう。ペンダントを探すことに捕われていたファイツの頭の中に、遥か彼方に吹っ飛んでいた疑念が戻って来た。それはつまり、ここはいったいどこなのかという問題だった。そして町の中にいたはずなのに気が付いたらここで寝ていたということは、ここまで運んで来た誰かがいるということなのだ。その考えに今更至ったファイツは扉を睨んだ。ご丁寧にもノックをしたということは、少なくとも扉の向こうにいる人間はひったくり犯ではないということなのだろうか……。一瞬安堵したファイツだったが、次の瞬間にぞくりと背筋が震えた。仮にひったくり犯ではないにしても、板を隔てた向こう側にいるのが善人であるという保証はないのだ。もしかしたら、善人を装った誘拐犯が今にもこの部屋に入って来るのかもしれない。その考えに至ったファイツはぎゅうっと目を瞑った。ここ最近自分の身に降りかかった様々なことが、頭の中に鮮明に蘇った。消し去りたくても消えない記憶だ。

「嫌あ……っ!」

最初は気の所為だと思った。だけど、日が経つにつれて気の所為ではないのかもしれないと思わざるを得なくなった。何をするにしても頭の片隅を常に占めていたことが、恐れていたことが、とうとう現実になったのだろうか。耐え切れなくなったファイツは悲鳴を上げた。悲鳴を上げるのと、閉じていた扉が開くのは、ほとんど同時だった。

「ファイツくん!?」

どこか遠くで懐かしい声が聞こえたような気がして、思わず息を止める。一瞬、ファイツは自分の耳を疑った。また幻に捕らわれたのかと、自分自身を疑った。だけど”ファイツくん”と呼ぶのは、自分が知る限り1人しかいないことも知っている。まさかと思いながら、ファイツはゆっくりと目を開けてみた。そこにいたのは3人目の男友達だった。国際警察官であるラクツが、何事かという顔付きで自分を見下ろしているのが見える……。

「ラクツ、くん……?」
「ああ、ボクだ。久し振りだな、ファイツくん」

震え声で彼の名前を呼んだら、頷きと共に言葉を返された。今出した声と同じくらい小刻みに震える手を伸ばして、彼の腕にそっと触れる。その途端に温かな体温が指先から伝わった。ああ、夢や幻ではなかった。この3年間、特にここ最近は助けて欲しいと何度願っても現れなかったラクツその人が、自分の目の前に存在していて。そして自分を見つめ返してくれて、おまけに返事もしてくれているのだ。ファイツにはそれだけで充分だった。誘拐犯でもひったくり犯でもなかった。男友達であるラクツが来てくれて、そして自分の名前を呼んでくれた……。湧き上がった安堵感で、ファイツは冷たいフローリングの床に崩れるようにへたり込んだ。ぽろぽろと勢いよく滴り落ちた雫が、両頬を伝って床へと落ちた。

「どうした、いったい何が……っ」
「ラクツくん!」
「……!?」
「ラクツくん、ラクツくん……っ!」

屈んだラクツの言葉を途中で遮ったファイツは、目の前にいる友達にぎゅうっとしがみついた。身体を硬直させた男友達には構わずに、ただただ彼の名前を呟いた。会えなかった日々を埋めるかのように、そしてあの日交わした約束通りを果たすかのように、ファイツは”ラクツくん”と繰り返し呟いた。大切な友達である彼の名前を、何度も何度も口にした。