その先の物語 chapter B : 013
こらえる
3人の男子が、楽しそうにお喋りしている。3人共が声を弾ませて、それは楽しそうにお喋りを続けている。ファイツはそんな彼らの声をBGMにして、草むらをゆっくりと歩いていた。間違っても長く伸びた草むらに足を取られて転ばないようにと、一歩一歩、慎重に歩く。彼と過ごした日々に想いを馳せながら、草むらを踏み締めて歩く。とうとうこの日がやって来た。そう、彼とお別れする日がやって来たのだ。「……でさあ、あいつはああ言ってたけど、オレは絶対違うと思うんだよな。絶対犯人は別のやつだって!」
「あ、オラもそう思ったっぺな!」
「だろ?絶対間違えてるって!あいつ、マジでポンコツだよなー」
推理物のドラマについて話しているのだろうか。2人の会話が、どこか遠くで聞こえるような気がする。元々歩くのは遅い方だが、慎重に歩いたおかげで3人との距離が更に開いてしまったらしい。だけど、ファイツは走って追いつこうとは特に思わなかった。両端にいる男子に挟まれている彼を見つめて、そっと溜息をつく。その彼の背が両端の2人よりちょっとだけ高いことに、ファイツは今になって気が付いた。彼とお別れする当日になって気付くなんて、本当に今更だ。
「……はあ……」
ファイツは背筋を伸ばして歩く彼を遠目から眺めながら、またしても深い溜息をついた。いったい何度吐息を漏らしたのか自分でも分からなかった。明日からは彼と会えなくなるのだと思うと、唇からは自然と溜息が零れ落ちてしまうのだ。1ヶ月前はまだ先の話だなんて思っていたのに、終わってみれば早かった。本当に、あっという間だった。
「毎度のことだけど、いいところで次週に続くんだよな。……なあ、ラクツはどう思う?お前も観てるんだろ?」
「ううん、ボクは見てないんだ」
「え、マジで?今超流行りのドラマなんだぜ?……マジで観たことねえの?」
「うん」
「へー。何か意外だな、お前が観てねえとは思わなかったぜ。流行り物には真っ先に食いつきそうなのによ」
「あはは……」
「あ、じゃあこれなら分かるだすか?今大ブレイク中の……」
”洪水みたい”。耳を澄ませばどうにか聞こえる3人のお喋りを耳にしながら、ファイツはぼんやりとそう思った。何しろ次から次へと、本当に目まぐるしく話題が変わるのだ。TV番組の話をしていたかと思えば次の瞬間にはアイドルの話に変わっていた。ちなみにTV番組の1つ前の話題はゲームだった。こんなにも話題がころころと変わるなんて、まるで渦巻く海の中を泳いでいるかのようではないか。ファイツはそんなことを思いながら、とあるアイドルを名指しして可愛い可愛いと連呼している彼を遠巻きから眺めていた。確かちょっと前のTVや雑誌によく出ていた、綺麗というよりかは可愛らしさが売りのアイドルだったように思う。頭の後ろで腕を組んでいる彼は、「また始まったぜ」とぼやいていた。
(知らなかった……。ペタシくんって、ああいう子が好みなんだ。ヒュウくんは……うん、全然興味なさそうだよね)
話しかけられている方の彼はどうなのだろうと、視線を移す。真ん中にいる彼はうんうんと相槌を打っていた。そんな彼にヒュウが「相変わらずだな」と言っているのが聞こえたから、ファイツはついつい苦笑いを浮かべてしまった。この2人に明かすチャンスは何度もあっただろうに、彼は最後まで仮面をつけたままだった。本人がそうしたいのだから口を挟むつもりはないけれど、やっぱり”もったいない”と思ってしまうのは否めない。
(……2人共、絶対受け入れてくれると思うんだけどな……。もちろん、すごくびっくりするだろうけど)
そんなことを思いながら、ファイツは姿勢がいい彼を見つめた。呆れているヒュウとは違って傍目からすれば熱心に聞いていますと言わんばかりに頷いている彼だが、本当に興味があるかは疑問だった。”多分話を合わせているだけで、本当は興味がないんだろうな”。何となくだけど、ファイツはそう思った。
「……だからよ、そういう時はこれを使うんだって!」
「はえ~。ヒュウはそっち派だすか。ラクツはどう思うだすか?」
「……ボク?そうだなあ、ボクだったら……」
相変わらずゆっくりと歩きながら、ファイツはぼんやりと3人のお喋りに耳を傾けていた。いつの間にやらアイドルの話題は終わっていたらしく、今やポケモンバトルでの戦術について花を咲かせている最中だった。これなら自分でも充分に理解出来るとファイツは思ったが、絶え間なく話している3人に割って入るつもりはまるでなかった。何やら白熱し始めた議論に加わるのは気が引けたというのが主な理由だが、それだけではなかった。単に、楽しそうな3人の邪魔をしたくなかったのだ。特に右端にいるペタシと、左端にいるヒュウは、本当に楽しそうにお喋りをしている。そうファイツは思った。真ん中にいる彼だけは表情が見えないけれど、多分にこにことした笑顔を浮かべているんだろうな、と1人思う。それが表面上のものなのかはたまた心からのものなのかは、自分には分からないけれど。だけどそれでも、両端にいる2人に関しては少なくとも心から楽しんでいるのだろうと、そう思えたから。だからファイツは、ゆっくりと歩き続けた。楽しそうな2人を邪魔するわけにはいかない。だけど、2人がいるとちょっとだけ困ると思ったのも事実だった。いや、ちょっとどころではなくだいぶ困る。2人の前では頑なに仮面を被っている彼と、ちゃんと話が出来ないのは大いに困る。
(こんなことなら、もっと早く来れば良かった……)
ファイツは誰にも見られていないのをいいことに、がっくりと肩を落とした。確かに、彼が出立する日をヒュウとペタシに話したのは他でもないファイツ自身だ。だけど今日でお別れする彼と待ち合わせをして、いざ歩き出そうとした途端に、2人が現れるなんて夢にも思わなかった。「見送りに来ただす」と言ったペタシは、言葉通り本当に見送る為だけに家を出て来たのだろう。それに対してそっぽを向いたヒュウは用事があるついでだなんて言っていたけれど、果たしてそれは本当なのだろうか。
(ヒュウくんって素直じゃないし、多分照れて言えなかっただけだよね……。うーん、どうしよう……。これ、ちゃんと渡せるかなあ……)
真新しい鞄を一瞥したファイツは懲りずに溜息をついた。鞄の中にはいつかのように早起きして作ったひと口サイズのサンドイッチがたくさん入っているのだが、それが原因であの2人に怪しまれたらどうしようとファイツは思った。事実、自分はヒュウに疑われたばかりなのだ。「何でここにいるんだよ」と問いかけられて、ファイツはとっさに「ポケウッドでお世話になったから見送りに来たの」と答えた。さっきはどうにか納得してくれたようだったが、今度もそう言えば納得してくれるだろうか?
(うう……。もしかしたら、変に誤解されちゃうかも……。無理やり作らせたとか思われたらどうしよう……っ)
彼が悪く思われるのは嫌だった。自分が原因なら尚更だ。ファイツははあっと息を吐くと、足元に転がっていた小石を蹴飛ばした。それなりに勢いをつけて転がった小石が真ん中にいる彼の踵に当たったことで、ファイツは「あ」と声を上げた。真ん中にいる彼、つまりラクツがゆっくりと振り返ったのだ。目が合ってから数秒後に聞き慣れない呼称が耳に飛び込んで来て、ぐぐっと眉間を寄せる。かつてはそう呼ばれていたとはいえ、”ファイツちゃん”という呼ばれ方を彼にされるのは慣れない。本当に本当に、やっぱり慣れない。
「あ、あの……。あたし……っ」
深く考えずに蹴飛ばした小石がラクツの踵に当たったのは事実なのだ。彼だって靴を履いているとはいえ、その事実が覆ることはないわけで。離れたところからラクツにじっと見つめられて、ファイツはどうしようと焦った。ごめんなさいと謝りたいのに、どうしてもその言葉が出て来ないのだ。気付けば彼を挟んでお喋りしていたヒュウとペタシも、ラクツ同様足を止めているではないか。
「ご、ごめ……。……きゃあ!」
ごめんなさいと謝ろうとした途端に、草むらががさりと揺れる。思わず悲鳴を上げたファイツはその場にへたり込んだ、頭の中に蘇るのは1ヶ月くらい前の出来事だ。今は仮面を被っているラクツのおかげで肉体的には無傷で帰れたものの、代わりにラクツが買ってくれたペンダントが犠牲になった。更には心には深い爪痕が残ることとなった。あの一件で森を見ると足が竦むようになった上に、虫ポケモン全般に苦手意識を抱くようになってしまったのだ。何を隠そう、今日だって夢の中で襲われて悲鳴を上げたわけで。自分が森ではなく自分の部屋にいることが分かった瞬間は、心の底からホッとした。そんなわけで、ファイツは現在進行形で目を瞑っていた。あの毒々しい色が長く伸びた草むらの隙間から見えたような気がして、どうしようもなく身体が震えた。情けないにも程があると自分でも思うが、こればかりは仕方なかった。誰が何と言おうと怖いものは怖いのだ。頭の中に勝手に浮かんで来るメガムカデポケモン・ペンドラーの姿を消し去ろうと、必死に頭を振り払う。
「……ファイツちゃん、大丈夫だよ。あっちに行ったみたいだから。……それに、あのポケモンでもなかったし」
頭上から降って来た声で、おそるおそる目を開ける。ゆっくりと顔の向きを上げると、ラクツが手を差し伸べてくれているのが見えた。へたり込んでいる間に傍に来てくれたのだろう。
「ほ、本当……っ?」
「うん、本当。……だから、ほら。早く掴まって」
「あ、ありがとう……」
ファイツは素直に彼の手を握って、立ち上がろうと下半身に力を込めた。だけど、どうしても立てなかった。情けないことに腰が抜けてしまったらしい。
「きゃあ!」
どうしようとただただ焦っていたファイツだったが、次の瞬間口からはまたしても悲鳴が飛び出した。今度のそれは恐怖からではなくて、単純に驚きから出た悲鳴だった。
「な、何してるの……っ!?」
「ん?何って、お姫様抱っこだよ。だってファイツちゃん、腰が抜けちゃったんでしょ?」
”お姫様抱っこ”という彼にはほとほと似合わない言葉を口にしたラクツは、人を抱えているというのに実に平然としていた。もちろん、ファイツに抵抗する気は一切なかった。彼に苦手意識を抱いていた頃の自分とは違うのだ。情けないと思いながらもありがたいと感じていたファイツはおとなしくしていたが、心臓はおとなしくなるどころかかなり激しく高鳴っていた。嫌な予感は当たった。眉間に皺を寄せたヒュウが、盛大に息を吐き出したからだ。
「……おいラクツ。お前、本当変わんねえな。そんなこと言って、お前がただ女子に触りたいってだけじゃねえか」
「あはは……」
「否定しないのかよ!……おいファイツ、嫌なら嫌ってはっきり言えよな。腰が抜けたわけじゃねえんだろ?」
「あ、ううん……。情けないんだけど、本当に腰が抜けちゃったの……。野生ポケモンに襲われるかもって思って……」
「げ、マジか。……つーか、オレ達が早く歩き過ぎた所為だよな。お前がいることをすっかり忘れてたぜ。悪かったな、ファイツ」
「オラも話に夢中になり過ぎただべな……。ごめんだす、ファイツちゃん」
「そんな、2人が謝ることないよ!あたしがぼけっと歩いてたのが悪いんだもん!それよりせっかくお喋りしてたのに、邪魔しちゃってごめんね……。……ラクツくんも、迷惑かけちゃって本当にごめんなさい……っ」
ラクツに向けて頭を下げた瞬間だった。胸の奥に針の先でつつかれたような痛みを覚えて、ファイツはそっと目を伏せた。分かっている、この痛みの正体は淋しさだ。約3ヶ月間毎日会っていた相手と会えなくなるのだ、淋しくないわけがないではないか。
「おいおい、迷惑かけられてんのはファイツの方だろ?ちょっと恥ずいけど、何ならオレがお前を……」
「ううん、いいの。もう運んでもらっちゃってるし……。それに、ラクツくんはそこまで悪い人ってわけじゃ……」
「何言ってるんだよ。お前、散々ラクツから逃げ回ってたじゃねえか。今だって、すげえ困った顔してるしよ」
「……そ、それは……っ!」
ファイツはもごもごと言葉にならない言葉を紡いだ。確かに眉根を寄せていたが、それはただ単にラクツとお別れするのが淋しかったからなのだ。だけどそれを正直に告げるわけにもいかず、ファイツはどうしようと内心で慌てた。自分が過去に逃げ回っていた所為で、ラクツが悪く言われるのはやっぱり嫌だった。本当の彼は、軽さとは程遠い性格をしているというのに。
「ヒュウ、ペタシ。ここまでで充分だよ。後はこの道をまっすぐ歩くだけだし、ファイツちゃんもいつ回復するか分からないし」
こんな自分を抱きかかえてくれているラクツが、静かに言葉を紡いだ。同時に心臓がどきんと跳ねる。どうにか反論しようとしていたのに、そのことが頭から吹っ飛んでしまった。ファイツは両手をぎゅっと握った、とうとうラクツとお別れする時がやって来たのだ。お誂え向きに、すぐ近くにはベンチが設置されているのが確認出来る。きっとヒュウとペタシが見えなくなった途端に、彼は自分をベンチの上に下ろすのだろう。そしてこの町から、イッシュ地方から去って行くのだろう。長いようでいて、振り返ってみればあっという間の3ヶ月だった。
「…………」
場所は教えてくれなかったけれど、ここから国際警察の本部まではかなりの距離があると言っていた。もしかしたら、ちゃんとお別れを言える時間すらもないのかもしれない。そう思うと淋しくて堪らなかった。淋しさのあまり泣きそうになりながら、ファイツは”どうして”と思った。どうして昨日のうちに、お別れとお礼を言っておかなかったのだろう?昨日なら、ゆっくり話せる時間がたっぷりあったのに……。
「……おい、ラクツ。お前、ファイツに変なことするんじゃねえだろうな」
「やだなあ、そんなことしないって。ファイツちゃんが良くなるまでの間、ベンチに座ってお喋りするだけだよ。ここにはダケちゃんもいるんだし、ボクにそんな真似が出来るわけないだろ?」
「お前だから心配なんだよ!……まあ、そいつがいるんなら大丈夫か。ラクツが変な真似しやがったら、遠慮なく攻撃しろよな。オレが許す」
「だから、ボクはしないってば」
眉間に皺を寄せたヒュウが、肩に乗ったダケちゃんのぷにぷにした頭を指でつついている。ダケちゃんが、そんな彼に応えて顔を顰めつつもこくんと頷いている。ペタシが、ダケちゃんになおも言い聞かせるヒュウをはらはらと見守っている。そしてラクツが、困ったように微笑んでいる。その様子を、ファイツはぼんやりと眺めていた。自分が関係していることなのに、どこか他人事のように思えるのは何故なのだろう。
「2人共、わざわざ見送りしてくれてありがとう。特にヒュウ、キミは用事があったんだろ?ここまで見送っておいてもらって今更だけど、本当に良かったのか?」
「大したことねえよ。家の大掃除をするだけだからな」
「あ。さてはラクツをダシにして掃除から逃げただすな、ヒュウ」
「うるせえ!とにかくオレが自分で決めたことなんだからいいんだっつーの!お前がこの町にいる間、フタチマルともバトル出来たしな」
「結局、ラクツには一度も勝てなかっただすね、ヒュウ」
「だからうるせえって!ラクツに勝ててねえのはお前もじゃねえか!……そ、それよりたまには連絡入れろよな。せっかくライブキャスターの番号を交換したんだし、お前はオレのダチなんだからよ」
「もちろん、オラもそう思ってるっぺな!」
「うん、ありがとう。落ち着いたら連絡するよ」
「おう」
照れ臭いのか鼻の頭をしきりに掻いたヒュウに、ファイツは心の中で「良かったね」と呟いた。ラクツにポケモンバトルを一番挑んでいたのはヒュウだが、その一方でラクツのことを一番心配していたのもまたヒュウなのだ。彼も自分に負けず劣らず、ラクツが明日からこの地を旅立つことを淋しいと思っているに違いない。だからこそ、お互いのライブキャスターの番号を交換するように頼んだのだろう。もっともラクツの職業を考えれば、本当に連絡が入るかどうかは分からないけれど。何と言っても彼は、世界中を飛び回る国際警察の警視なのだから。
「ファイツちゃん、そんな顔しなくても大丈夫だよ。……何も、しないから」
ベンチの上にゆっくりと下ろしてくれたラクツに何も言わずに、縋るような目を向ける。違うのと言いたいのに、声が出なかった。泣きそうになったのは、ただただ淋しかったからだ。大泣きしてしまいたくなるくらいに、淋しくて堪らなかった。淋しくて堪らなくてどうしようもなくて、どういうわけか彼のことを引き留めたいと強く思って。だけどそれは赦されないことなのだと分かっているファイツは、こくんと頷いた。「淋しい」や「行かないで」と訴えたくなりそうになるのを必死に堪えながら、ファイツは何度も何度も頷いた。