その先の物語 chapter B : 012

きあいパンチ
”随分とのんきなものだ”。ファイツの手を引いて森の中を悠然と歩きながら、ラクツは心中でそう呟いた。決して長いとはいえないつき合いだが、この娘の性格はだいたい把握している。基本的には素直でおとなしくて、他人の意見に流されやすい娘で。しかしそうかと思えば妙に頑固で押しの強い一面も合わせ持つ、色々な意味で危なっかしい娘だ。ラクツは脳内に存在する彼女に対しての印象リストに、”こちらが呆れる程にのんきである”というキーワードをしっかりと刻み付けた。のんきというよりのうてんきと表現した方がより正確だろうか。彼女にそういう一面が多少なりともあることは以前から理解していたが、それでも発せられた言葉で脱力感を覚えた事実は否定出来なかった。
つい今しがたのことだ。「ここがどういう場所か分かるか」と問いかけたら、ファイツは「普通の、立派な森」だと答えた。「差し込んだ木漏れ日が綺麗だ」と続けた彼女は、「森林浴にぴったり」という音で言葉を締め括ったのだ。その瞬間、ラクツは質問の仕方を間違えたと思った。そもそも質問したこと自体が間違っていたのかもしれない。こちらの意図が十中八九伝わっていないであろうことは明らかであるファイツの手を引いて、ラクツは足早に歩き出した。今ならまだ立ち話をしても問題ないだろうと彼女に対して発言を促したのは他ならない自分なのだが、無駄に時間を食ってしまった。周囲一帯がこんなにも敵意や警戒心で満ちているのに、よりにもよって”ピクニックに最適”はないだろう。仮に自分がピクニックに行くとしても、この森だけは絶対に選ばないと言い切れる。つまりこの森はそういう場所なのだ。

(気配が9、いや10……。やけに多いな)

無視しようにも無視出来ない程に増える気配に、内心で嘆息する。”ヒオウギシティの外れに群生しているこの森には、屈強な野生ポケモンが数多く生息しているらしい”。大した面識のない同僚が連れに話しているのを通りすがりに聞いたことがあるが、確かに噂通りだとラクツは思った。単なる民間人であるファイツに自分達警察官のような感覚を求めるのは酷だと理解してはいるが、それでも少しは警戒心を持って欲しい。ラクツはそう思わざるを得なかった。危険に満ちた森を”ピクニックに最適”だと評した彼女は、のんきにも程があると思う。

「ま……。待って、ラクツ、くん……っ」

かなりの早歩きをしている自覚はある。苦しいと言わんばかりに途切れ途切れの言葉を発したファイツに一瞬だけ振り向いてみせたラクツは、しかし何も言わずに歩き続けた。何を言われても歩みを止める気はない、それにこの手を放す気も更々ない。手を放したら最期、野生ポケモン達は彼女を襲うことだろう。片手が塞がれているのが懸念材料ではあるが、それでももう片方は自由である以上はどうにかなるだろう。傍にはフタチマルもいることだし、何ならダケちゃんの手を借りればいい。彼女の身に危険が迫っているとなれば、流石のダケちゃんでも素直に指示を聞いてくれるに違いない。

「あ……。あの、も……っ。もうちょっと、ゆっくり……っ」
「悪いが我慢してくれ。急いだ方がいい、と言っただろう」

か細い声で紡がれたファイツの嘆願は言うまでもなく却下だ。明らかに息を切らしている娘には悪いが、これも彼女の為だ。

(目当てのきのみを採取次第、速やかにこの森から出なければな。問題は、そのきのみが見当たらないことだが)

もちろんいざとなれば諦めて帰ることも想定に入れているが、せっかくここまで来たのだ。やはり、出来ることなら入手して帰りたかった。事前に色々と調べていたらしいファイツは、ブリーのみが欲しいと言っていた。ラクツでさえも数える程しか見たことのない、実に珍しいきのみだ。確か、小さな青い粒が連なって生っているきのみだったように思う。特徴的な見た目をしていたから記憶に強く残っていたのだ。しかしいくら辺りを見回しても見つからないのは困るとラクツは思った。何しろ森の奥地へ進むにつれて野生ポケモン達の気配が続々と増えているのだ。警戒しているだけで終わるならいいが、何かのきっかけで攻撃されかねない。

「ど、どうして……?」

依然として周囲を注意深く見回しながら歩くラクツの耳に、ファイツの声が届く。彼女の顔には軽い疲労と戸惑いの色が見えた。そんな彼女の肩に乗っているダケちゃんは、つぶらな瞳を鋭く細めて忙しなく周囲を見回していた。そんなダケちゃんと視線がかち合ったが、こちらに対して敵意を抱いている様子がまるで見受けられなかった。やはり、ダケちゃんもこの森に漂う雰囲気と気配を察したらしい。フタチマルは言わずもがな、自分達の中で気付いていないのはファイツだけだ。

「……ダケちゃん?どうしたの……?」

ラクツは不思議そうに小首を傾げたファイツを可愛いと思うどころではなかった。この期に及んでも現状に気付かないとは、まったくもって鈍感にも程がある。正直言って彼女の鈍感さにはほとほと呆れるが、それでも見捨てる気にはなれなかった。自分がそう思えるようになったのも、この娘のおかげなのだろう。そんなことを考えていたラクツは、不吉な声を聞き取って思考を切り替えた。目を閉じて、意識を耳に集中させる。やはり聞き間違いなどではなかった。森のざわめきに混じって、複数のポケモンの鳴き声が確かに聞こえる……。

(……完全に囲まれたな。遅かったか)

ラクツは内心で舌打ちした。経験則で分かる、あれはどう解釈しても仲間を呼ぶ鳴き方だ。それも、敵を攻撃すると決めた時の。こちらとしてはただ森の中を歩いていただけで危害を加える気はまるでなかったのだが、野生ポケモン達はそう見做さなかったらしい。彼らの立場になってみればそれも当然だ、何しろ住処である森に立ち入られたのだから。出来れば何事もなく帰りたかったが、攻撃されるのも仕方ないとラクツは思った。

「ファイツくん、ボクの傍に」
「え……?」
「野生ポケモンに周囲を囲まれている上、今しがた仲間を呼ばれたところだ」
「え……。えええっ!?」
「静かにしてくれ、キミの悲鳴で彼らを刺激しかねない。落ち着いてくれると助かるんだが」

声を上げたファイツは、信じられないとばかりに目を丸くさせていた。この娘にしてみれば寝耳に水だったのだろう。しばらくの間呆然としていた彼女は、ぽつりと言葉を漏らした。森のざわめきと唸り声で周囲がうるさい中でも発せられた音を聞き取ったラクツは、彼女を安心させるように繋いだ手を強く握り締めた。「ごめんなさい」と言ったファイツの震えがこちらにまで伝わって来て、ラクツはどうしたものかと頭の片隅で思案する。しかしどれ程思考したところで、上手い解決策は結局浮かんで来なかった。精々自分に出来ることと言えば、思ったことをありのまま伝えるだけだ。

「キミが謝る必要はない。ファイツくんに同伴したのはボクの意思だ」
「で、でも……。それでラクツくんとフタチマルくんが怪我でもしたら……っ」
「覚悟の上で来たんだ、もう気にするな」
「あたし、知らなかった……っ。こんなに危険な森だったなんて、夢にも思わなかったの……っ!」
「分かっている。それに、諦めるのはまだ早いぞ。ちゃんと勝算はある」
「……え?」

身体を小刻みに震わせているファイツを冷静に諭す。絶望してしまった彼女を元気付けたかったわけではなかった。勝算があると言ったのは歴とした事実だ。

「彼らが一向に襲って来ないのがその証拠だ。わざわざ仲間を呼んだことから推測して、おそらく彼らの長が直々に……。ああ、噂をすれば影だな」

言葉を言い終わるか言い終わらないうちに、何かが草木を掻き分ける音がした。そうして姿を現した1匹のポケモンを、ラクツは油断なく監察した。毒々しい見た目のそのポケモンとは過去に戦ったことがあるが、大きさからしても別個体だろう。こちらを見下ろすメガムカデポケモンのペンドラーを、ラクツはまっすぐに見返した。確かに群れの長に相応しいと言える巨体だが、それでも多勢に無勢というわけでもない以上はどうとでもなるだろう。前に進み出たフタチマルに頭を振ってから、いつでも護れるようにと繋いでいた彼女の手を音もなく放す。

「……フタチマル、お前は手を出すな。ダケちゃんはファイツくんを護ってやってくれ。ペンドラーの相手なら、ボク1人で充分だ。1対1なら尚更な」
「え……。む、無茶だよ……っ!」
「大丈夫だ。勝算はあると言っただろう。……本当に、大丈夫だから」

ラクツ自身が戦いを挑もうと前に進み出たのには理由がある。もちろんファイツの前で格好つけたかったからというわけではなかった。今もこうして自分達を取り囲んでいるポケモン達は、どうやらペンドラーにつき従っているらしい。つまりこのペンドラーを倒せばそれで終わりということだ。ポケモンに埋めようのない実力差を骨の髄まで理解させるには人間である自分が戦った方が一番手っ取り早い、単にそう思ったから戦いを挑んだまでのことだ。ともすれば泣きそうな顔をしたファイツに一度だけ微笑みかけてから、ラクツはペンドラーに向き直った。そして迫り来る巨体の素早い動きに合わせて、彼女を護る為の拳を繰り出した。