その先の物語 chapter B : 010
素直な娘
「すっごく美味しそう……っ!いただきます!」律儀にも両手を合わせてから料理に手をつけた娘を、ラクツはまっすぐに見つめていた。顔が熱い、おまけに心臓の音がうるさい。更には息苦しくて堪らなくて、無駄だと分かりつつも眉間に思い切り皺を寄せた。はっきり言ってこの状況は困る。困るのはそれだけではなかった。にこにこと微笑みながら、にんじんのグラッセを咀嚼している彼女にばかり目線がいくのも困る……。
「……ラクツくん、食べないの?」
目敏くもそんな言葉を口にした娘に向けて、ゆっくりと首を横に振ってやる。怪訝そうな顔をしたファイツの大きい瞳が、ゆらゆらと揺れていた。
「……いや。ちょうど今、手をつけようと思っていたところだ」
「あ、もしかして心配だった?大丈夫だよ、ちゃんと美味しいもん!」
にっこりと笑うファイツを見た瞬間に、心臓が大きく跳ねる。深い海色をした彼女の瞳を縁取るまつ毛がかなり長いことに、ラクツはようやく気が付いた。今まで幾度となく顔を合わせておいて今更気付くなんてどうかしていると、内心で自らを自嘲する。
「……どうしたの?」
「……いや、何でもない。それよりファイツくん、ボクに過度な気を遣う必要は……」
「別に気遣ってないよ!だって、本当に失敗してないもん。……もうっ、ラクツくんって疑り深いんだから……っ」
「まあそれは否定しないな。しかしボクに言わせれば、ファイツくんが素直過ぎるんだと思うが。前回ボクが作った料理の出来栄えを忘れたのか?よく躊躇せずに口の中に入れられたものだな」
「……またそんなこと言って!ほらほら、いいから食べてみなよ!」
不満そうに頬を膨らませたファイツに曖昧に頷き返して、ラクツはフォークを手に取った。一番最初に目についたウインナーにフォークを突き刺して、口内に放り込む。
「……どう?美味しいでしょう?」
自分が作ったわけでもないのに何故か得意げな顔付きをしているファイツは、実にまっすぐな目線を向けて来るばかりで。どう考えてもこちらが何かを言うのを待っているであろう彼女に、ラクツは盛大な溜息を吐いてみせた。
「”美味しいでしょう?”と言われてもな……。ウインナーの味がする、としか言えないが」
「そ、それはそうなんだけど……!でも……っ」
「でも、何だ?」
「い、一緒にお焦げの味もするでしょう?……したよね!?」
「ああ……。そういえばそうだったな。で、それがどうしたんだ?」
「え?あ、あの……。ちょうどいい感じに焦げ目がついて、あたしはすっごく美味しいと思うんだけど……っ」
最初こそ語気が強かったはずのファイツの声は、応酬するにつれて段々と勢いが失われていった。最後には消え入るように小さいそれをどうにか聞き取って、ラクツはまたも溜息をついた。別に悪いことをしているわけでもないのだから、堂々としていればいいだろうに。
「……まあ、”ちょうどいい”という言葉には同意だな。むしろ焦げた味しかしなかった前回に比べると、多少なりともマシな出来だと言えるか」
「……でしょうっ!?マシな出来じゃなくて、ちゃんと美味しい……!」
告げた瞬間、ファイツは弾かれたように立ち上がった。その拍子に彼女が座っていた椅子が、音を立てて後ろに倒れる。
「あ!……ああもう、何であたしってドジなんだろう……。驚かせてごめんね、ダケちゃん……」
慌てて椅子の位置を戻したファイツは、口いっぱいに頬張っているダケちゃんの頭を優しく撫でた。そんな彼女の姿を、ラクツはじっと眺めていた。
「と、とにかくね……。あたしにとっては、本当に美味しいご飯だもん……っ」
椅子に座り直したファイツは、ぼそぼそと独り言ちた。椅子を倒したのが余程恥ずかしかったようで、その顔は明らかに赤みを帯びている。忙しなく身体を動かす所為で、艶のある髪の毛がさらりと揺れていた。口の中の物を飲み込んだダケちゃんが、そんな彼女の手をもっと撫でて欲しいとばかりに繰り返しつついていた。
「本当に、あたしはそう思ってるからね……っ」
「…………」
時折ダケちゃんに応じながら、しかし同時にこちらをちらちらと見やるファイツはまず気付いていないだろうが、自分からすると完璧な上目遣いになっている。ついでに瞳は潤んでいる始末で、思わずラクツは三度目の溜息をついた。
(止めて欲しいんだが……)
上目遣いは止めて欲しいと、ラクツは思った。心の底から、切実にそう思った。出来ることなら頭を抱えたい気分だった。何せ、今のこの娘は……。
(可愛い……)
そう、今のファイツは可愛いのだ。熱弁していたホワイトではないけれど、ラクツもまたそう思った。認めざるを得ない程に彼女は可愛かったのだ。熱に浮かされたような頭で思考しながら、この娘に対してこんな感情を向けるようになるとは夢にも思わなかったなと思う。いや、自分はこの娘が好きなのだから当然だと言えばそうなのだが。
「ん……。……ああ、お前もか」
自分の横で黙々と食事しているフタチマルが物欲しそうな視線をこちらに向けていることに気付いて。ラクツは右手を伸ばした。”この娘が好きだ”という事実から目を背けるわけではないけれど、相棒でもあり”おや”でもある身としては、彼の望みを叶えるのは当然だ。そう思っていたラクツだったが、水色の頭に触れるか触れないかのところで身を逸らした彼の反応に思わず苦笑する。あまりにも露骨だった。
「ラクツくん、あたしは本当に……」
「うん、それはもう分かったから。……それよりファイツくん、悪いがフタチマルも撫でてやってくれないか」
「……え?」
「どうやらフタチマルは、ボクよりキミに撫でられる方がいいらしいな。……頼めるか?」
「うん……。ラクツくんが、それでいいなら……」
眉根を寄せたファイツが今度はそっと立ち上がった。こちらをちらりと見やるその瞳が、”ごめんね”と言っていた。どうしてその必要もないのに謝るのかと内心で嘆息しながら、それでもしっかりと頷いてみせる。罪悪感でも抱いているのか、普段はフタチマルを撫でることに躊躇しない彼女がおずおずと手を伸ばした。
「ふえっ!?」
回り込んで来たファイツが声を上げた理由は明白だ。おとなしく撫でられるかと思いきや、彼自身を除いたこの場にいた全員が抱いた予想を見事に裏切って、彼女の細い腕をフタチマルが思い切り引いたからだ。必然的に体勢を崩した娘に向けて、ラクツは反射的に手を伸ばした。”いったい何をやっているんだ”という相棒に対しての疑念と、”この娘が怪我をするかもしれない”という言いようのない緊張感と。心には、2つの感情が大いに湧き上がる。
「……っ」
結果的に、ファイツが怪我をすることはなかった。彼女に向けて伸ばした手がどうにか間に合ったからだ。勢いが強過ぎた所為で代わりに自身が背中を床に打ちつけることになったが、ラクツは”良かった”と思った。本当に良かった、彼女が怪我をするよりずっといい結果ではないか。その感情をぶつけるかのように、ファイツを抱き止めた手にぐっと力を込める。
「あ……っ」
自分の腕の中にいるファイツが戸惑ったような声を上げたが、ラクツはそんな彼女を放そうとは露程も思わなかった。いい匂いを髪から漂わせているこの娘にしばらく目を留めた後で、騒動を巻き起こした張本人に鋭い目線を向けてやる。どことなくしおらしくしているところを見ると多少なりとも反省をしている様子だったが、フタチマルの顔には明らかな笑みが浮かんでいる。”余計なことをするな”と、強く言い聞かせておいたにも関わらずこれだ。後で叱ろうと心に誓ったラクツは、眉間にそれは深い皺を刻んだ。
「フタチマル……。お前なあ……っ」
「あ……。い、いいよラクツくん!フタチマルくんだって悪気があったわけじゃないんだし、そんなに責めないであげて……っ!」
「…………」
相も変わらず腕の中にいるファイツが口にした言葉で、ラクツは額に手をやった。今に始まったことではないけれど、この娘はお人好しにも程がある。露程もフタチマルを疑っていない素直過ぎる彼女を見つめたラクツは、はあっと深い溜息をついた。