その先の物語 chapter B : 009
クッキング・レクチャー
”どうしよう、すっごくどきどきする”。汗ばんだ手をぎゅっと握り締めたファイツは、そう心の中で呟いた。目線の先にあるのはラクツその人だ。真面目な性格の彼が、それは真面目な顔付きでレタスを手でちぎっている。真剣そのものの姿勢で料理をしているラクツの背中を見つめながら、ファイツは夜遅くに交わしたライブキャスターでのやり取りを思い返していた。気の毒なことに、ラクツはダケちゃんによって家から追い立てられてしまったわけで。そんな彼に後で謝罪も兼ねて連絡しようと決めたはいいものの、怒りが収まらないダケちゃんを寝かしつけるのにかなりの時間がかかってしまったのだ。おまけに、ダケちゃんが粉を撒き散らしたことで汚れた床も綺麗にしなくてはいけなかった。そんなこんなでファイツがようやくライブキャスターの通話ボタンを押せた時には、既に夜中の0時が過ぎていた。ラクツが起きていてくれたことにホッとしたのも束の間、ファイツは開口一番ごめんねと謝った。だって、あれは無理やり追い出されたようなものではないか。更には真夜中の連絡だ。二重の意味で彼の気を悪くさせたかもしれないことは理解しているけれど、それでも謝らずにはいられなかった。そしてこんな時間に連絡をした以上、要点だけを伝えて早めに切り上げるべきなのだろう。自分の謝罪から始まったそんな会話は、だけど思いの他長く続いた。それはファイツが話を終わりにするタイミングを逃した所為でもあるけれど、「気にするな」と言ってくれたラクツが次々と話題を変えたことが大きい。どちらかと言えば要点だけを話し終えたらすぐに通話を切りそうな彼にしては、かなり珍しいことなのではないだろうか。内心で首を傾げつつもファイツは良かったと思った。要点を伝え終えたからとすぐに通話を切ってしまうのは、すごく淋しいような気がしたのだ。その気持ちは、帰ろうとしたラクツを引き留めた時に感じたものと酷く似ていた。
(だって……。ラクツくんはあたしの友達なんだもんね。淋しいって思っても不思議じゃないよね)
花びらが舞っていた夜に感じた、ラクツともっと一緒にいたいという気持ち。記憶に新しいそれを、ファイツは彼と友達になりたいという自分の願望から来るものだと解釈していた。その願望が叶うなんて思わなかったと、真夜中の通話中に心の中で独り言ちた言葉をまたしても呟いて。そしてファイツは、ラクツが今現在こちらに背を向けているのをいいことに、思いのままに口角を上げた。自分が友達になりたいと言ってしまったことについて、ラクツは迷惑じゃないと言ってくれた。もしかしたら「ごめんね」と何度も謝る自分を見かねただけかもしれないけれど、「キミとボクは友人だから気にしなくていい」と、はっきりと言ってくれた。ライブキャスター越しに耳に届いたその言葉を繰り返し呟くだけで、嬉しさと感動が込み上げて来る。何だか涙が出そうになって、ファイツはそっと目頭を押さえた。同時に彼が振り向きませんようにとも願った。だって泣きそうになりながらにやけているなんて、まさに百面相ではないか。
(頑張って、ラクツくん……っ!)
拳をぎゅっと握り締めて、ちぎったレタスをざるに放り込んでいるラクツの背中に向けて言葉を投げかける。ライブキャスターを介して話し合った結果、今日のメニューはトーストとレタスのサラダににんじんのグラッセ、そしてウインナーを焼くだけというお手軽なものに決まった。何と言ってもラクツは料理の初心者なのだ。前回失敗してしまったことを考えると、変に凝ったものより簡単に出来るメニューの方がいいに決まっている。今のラクツに必要なのは、上手く出来たという成功体験なのだ。既にちぎり終えているレタスは盛り付けるだけだし、食パンはトースターにセットしてあるわけで。つまり残る作業はにんじんを切って茹でることとウインナーを焼くだけなのだが、だけどラクツは悪戦苦闘しているようだった。申し訳ないけれど、包丁を手にするラクツの手付きはやっぱりかなり危なっかしく見えて。だからファイツは、思わずごくんと唾液を飲み込んだ。にんじんを切った拍子に添えた右手まで切ってしまうのではないかと、そんな不安感が頭から消えてくれない。手だけでなく背中まで汗ばんでいるように感じるのは、今日が蒸し暑いからという理由だけでは決してないのだろう。
「……きゃあ!」
悲鳴を上げたのは、半分に切られたにんじんがこちらに向かって飛んで来たからだ。かなりの勢いで飛んで来たそれを、反射的にしゃがんで避ける。多分にんじんが固かった弊害で切る時に力を入れ過ぎた所為なのだろう。破格の安さに釣られて衝動買いした自分の行いを、ファイツはちょっとだけ後悔した。
「す、すまない……。平気か?」
「う、うん……っ。ちょっとびっくりしただけだから……」
振り返ったラクツに、手をひらひらと振りながらそう返す。料理中に振り返ること自体は何の問題もない行動だが、包丁を持ったままというのは流石に危ない。向き直った拍子に指を切ってしまいそうで、怖い。
「それよりラクツくん、包丁を持ったまま動くのは危ないよ。指、切っちゃうよ?」
「あ、ああ……」
床に落ちたにんじんを手渡しながら、眉根を寄せて忠告する。あまりにも危なっかしいからと、ポケットにこっそり忍ばせている絆創膏のお世話になって欲しくはない。水洗いしたにんじんを再び真剣な表情で切り始めたラクツを、固唾を飲んで見守る。
(あ、今度は大丈夫そう……。それにしても、ラクツくんって本当真面目な人なんだなあ……)
今日の為にエプロンと料理本を買って来た。ラクツが発したその言葉を聞いた時、ファイツはいたたまれない気持ちになった。彼が今身にまとっているのは、余計な装飾のないシンプルな黒のエプロンだ。もちろんファイツとしては普段使っている物を貸したって良かったのだけれど、フリルがところどころにあしらわれた明らかに女物のエプロンをつけるのは、流石に彼とて抵抗があったのだろう。安物だから気にするなとラクツは言っていたものの、余計なお金を使わせてしまった申し訳なさはいつまでも消えてくれない。そのお詫びというわけではないけれど、ファイツは根切丁寧に教えるつもりでいる。
「……ファイツくん。一応切り終わったが、キミから見てどう思う?正直言って、かなり歪な切り方だが」
今度はちゃんと包丁を置いてから振り返ってくれたラクツの求めに応じたファイツは、まな板の上のにんじんを覗き込んだ。確かにかなり大きさが違うように見えるけれど、それでもにんじんは1つ1つがばらばらになっている。こちらを見下ろしているラクツに向けて、ファイツはにっこりと微笑んだ。
「大丈夫だよ、ちゃんと切れてるもん。それより手は痛くない?すっごく固いにんじんだったんでしょう?」
「…………」
「……ラクツくん?」
「あ、ああ……。別に、痛くはない」
「良かった……!でも、無理だけはしないでね?」
素直に頷いたラクツの顔が赤くなっていることに気付いて、だけどファイツはわざわざ指摘しようとはしなかった。多分、今日が蒸し暑いからなのだろう。その解釈が間違っていることなど夢にも思わずに、にこにこと言葉を続ける。
「じゃあ次は、このお鍋でお湯を沸かしてくれる?」
「分かった。確か、にんじんは水から茹でるんだったな」
「そう!お湯からだと、生煮えになっちゃうみたい」
効率だけを考えるなら、にんじんを切っている間にお湯を沸かしてもらうのがいいのだろう。だけどまだ料理に慣れていない彼に教える以上は、1つの工程を終わらせてから次に進んでもらうのが失敗しにくいと思ったのだ。吹きこぼれるだけならまだいいが、包丁で怪我をしましたなんてことになったら目も当てられない。
「……あ、一緒に砂糖を入れるのも忘れないでね。この量だと、大さじ1杯で充分かな」
「ああ」
にんじん達と水が入った鍋に火をつけるラクツに、そう言いながら計量スプーンを差し出す。すると、ラクツは途端に怪訝な顔付きになった。
「大さじ……?ファイツくん。これは小さじと書いてあるが」
「ふふ、小さじ3杯分で大さじ1杯になるんだよ。だから3回入れてね。……そうそう、山盛りじゃなくて、すりきりで……」
料理の手順を説明するファイツの脳裏に唐突に蘇ったのは、ラクツにポケモン図鑑の使い方を教えてもらった記憶だった。当時の彼に得体の知れない苦手意識を抱いていたことが、今では酷く懐かしい。ラクツとこんな素敵な関係になれるなんて、あの頃は夢にも思わなかった。”友達”とか、”友人”だとか。たった4文字の音の響きで表せる彼との関係を、知り合い以上友達未満ではなくなったこの関係を。そしてともすれば切れてしまうかもしれなかったこの関係を、大切にしたいと強く思う。他ならないラクツに友達以上の存在であると想われていることにはまるで気付かずに、ファイツは料理に奮闘する彼を優しい目で見守った。