その先の物語 chapter B : 008
乙女の直感
(……ラクツくんだ。何を読んでるのかしら?)商店街を歩いていたホワイトは、見覚えのある姿を認めて歩みを止めた。何人かの客に紛れて、後輩であるラクツが何かを読み耽っている。そう、彼が今いる場所は本屋だった。背筋が伸びている所為なのか、それとも別の要因なのか。物怖じしない、はっきりした物言いをする子で。ちょっととっつきにくいところがある自分の後輩は、特に背が高いわけでもないのに客の中で一際存在感を放っているようにホワイトには思えてならなかった。そういうオーラが滲み出ているとでも言えばいいのだろうか。はっとさせられるというか、とにかく目を引かれるのだ。
(うーん……。本当、俳優向きの子よねえ……。あれで警察官だっていうのが、本っ当もったいないわ……!)
立ち尽くしている自分を追い越す人々が、何事かと奇異の視線を向けて来ることを肌で感じ取る。だけどじろじろと見られていることなど構わずに、ホワイトはぐぐっと拳を握り締めた。だって本当に、つくづくもったいないと心の底から思っているのだから。数多くの人間をプロデュースして来た自分だから太鼓判を押せる、ラクツは絶対に俳優として大成出来る子だ。軽視出来ない顔立ちだって整っている方だと思うし、姿勢含めた堂々とした立ち振る舞いも文句のつけようがない。運動神経が優れていることについてももう1人の後輩をあわや大惨事の事故から救ったことで既に証明済みだ。俳優として一番大切な演技力についても申し分ないと言い切れる。トレーナーズスクールの元クラスメイトと接しているラクツを見た瞬間に、ぞわりと鳥肌が立ったことは記憶に新しい。任務遂行の為にキャラクターを作っているとは聞いていたが、あれは演技のレベルを超えていた。だからこそそんな彼をポケウッドにスカウト出来ないという事実が、ホワイトとしては残念でならなかった。方向性は違うけれど、もう1人の後輩であるファイツもまた女優として大成出来るとホワイトは信じている。そんなあの子と彼がコンビを組んだとしたら、絶対に大ブレイクするに決まっているのに。
(……そうよね、ラクツくんって確かにかっこいいわよね。あーもう、もったいないにも程があるわ!!)
しつこいようだが、ラクツの顔立ちはかなり整っているとホワイトは思っている。あくまで個人的な意見だけど、多分世間一般的にも美形だと思われているのだろう。現に今だって、道行く通行人達がひそひそと噂話をしているではないか。かっこいいだの何だという女の子達の黄色い声が、わざわざ耳を澄ますまでもなく耳に飛び込んで来る。その対象が自分の後輩であると根拠もなく確信したホワイトは、歯痒さからはあっと溜息をついた。もちろん、誰にだって職業選択の自由があることは分かっている。ラクツは幼い頃から警察官として働いていたそうだから、今更警察官以外の職に目を向けさせることは多分不可能に近いであろうことも理解している。芸能事務所の社長になるという”夢”を幼い頃から志した身としては、彼の職に対するまっすぐな姿勢には頷くしかないのだと思わざるを得ないのだけれど。だけどどうしてもこう感じてしまうのだ。本当に、どうしてあの子は俳優ではなく警察官なのだろう?
(……ま、それはさておき……。お礼、言わなきゃね)
見なかったとか、気付かなかったことにするのは簡単だ。だけどホワイトは、正直言ってちょっと苦手なあの後輩に話しかけるべく、止めていた足を動かした。何かを勘違いしたのか周りで様子を窺っているらしい女の子達の悲痛な声が聞こえたような気がしたが、そんなものは無視だ。心なしか激しくなった人の波もやっぱり聞こえた悲鳴も何のその、ずんずんと一直線に突き進む。どうやら余程集中しているようで、割と近くに来たというのにラクツが本から目線を移すことはなかった。いや、もしかしたら気付かない振りをされているだけかもしれないけれど。
「ラクツくん」
「ホワイトさん……」
意を決したホワイトは、軽く深呼吸すると後輩に小声で話しかけた。何と言ってもここは店内なのだ、大声を出すわけにはいかない。声に応じた彼が目を見開いたことで、ホワイトは自分が気付かない振りをされているかもしれないという考えが違えていたことを悟った。何のことはない、ラクツはただ単に立ち読みに熱中していただけだったのだ。ホワイトの中で、後輩を変に邪推してしまったという罪悪感が一気に膨れ上がる。
「ごめんね、急に話しかけて。ラクツくんを偶然見かけたから、つい……」
そこまで言いかけて、ホワイトは口を噤んだ。今の言葉に嘘偽りなど決してないけれど、これではまるでナンパではないか。ともすれば通報されているかもしれない。しっかりと両手を合わせたポーズで固まったホワイトは、心の中でどうしようと呟いた。訝しげな顔をした後輩の眉間の皺が、時間の経過と共に深くなっていくのが見える……。
「えっと……。今、大丈夫?」
「……まあ、多少なら」
迷った末にホワイトは結局話を進めることにした。後半部分がぼそぼそとした物言いになったのは、意図的にそうしたわけではなかった。単に後輩から放たれるプレッシャーに耐えられなくなっただけのことだ。
(自分で話しかけておいてなんだけど、気まずいったらありゃしないわ……。ファイツちゃんはどんな風にラクツくんと接してるのかしら……?……っていうか、普通に話せる気が全然しないんだけど……)
そんなことを考えていたホワイトは、後輩の溜息によって一気に現実に引き戻された。冷や汗がたらりと背中を伝う。彼は何も言わなかったけれど、その目は明らかに”早く話せ”と言っている……。
「う……。えっと、ごめんなさい」
「ホワイトさん。……それで、用件は何ですか?」
再び放たれるプレッシャーに負けたホワイトは、またしてもごめんねと謝った。今度は敬語になったのは彼が怖いと感じたからなのだが、先を促されたことでその恐怖感は更に高まった。”やっぱりアタシは、この子が苦手かも”。絶対に口には出来ないそんな言葉を、ぼそりと呟く。きっと悪い子ではないのだろうし、嫌っているわけでもないのだけれど。だけどホワイトは、ラクツのことをやっぱり怖いと思った。目の前の後輩が俳優として金の卵ともいうべき逸材であることは疑いようのない事実であるわけなのだが、それとこれとは別の話なのだ。
「……その。アタシ、ラクツくんにお礼が言いたくて。ファイツちゃんを助けてくれたでしょう?」
再度話を促されてはならないと、ホワイトは一気に用件を言い切った。やったと思ったのも束の間、盛大な溜息が返って来たことで身を縮める。
「またですか。それについての礼なら既に告げられましたが。……それも、何度も」
「わ、分かってるけど!……でも、何度だってありがとうって言いたいんだもの……っ。だって、落ち着いてお礼が言えなかったし……」
それは紛れもなくホワイトの本心でしかなかった。本来ならこのようなついでなどではなくて、菓子折り持参で頭を下げるべきなのだろう。だけどラクツはホテルに泊まっているとファイツから聞いている。単にお礼を言いたいからという理由だけでしかなかったとはいっても、ホテルまで押しかけるというのはいくら何でも気が引けた。だからと言ってどこかに呼び出すというのも、それはそれで彼に悪いような気がしてならなくて。「ついでみたいで本当に悪いんだけど」と付け加えると、間髪入れずに「構いません」と返って来た。彼は本当にそう思っているのか、「何を言っているのか」とでも言わんばかりの無表情をしている。
「むしろ、余計な時間を取られないだけありがたいです」
「……そ、そう?それなら良かったわ……」
こめかみに青筋を浮かべながら、ホワイトは引き攣った笑みを浮かべた。口でこそ良かったなどと言ったが、心の中では全然良くないと盛大に文句を言ってみたりなんかして。同時にホワイトの中で大いなる疑問がまたしても湧いた、あの可愛い後輩はどうやってラクツとコミュニケーションを取っているのだろうか。どうあがいても、心をへし折られるような気がしてならないのだけれど。
「それにそもそも、ファイツくん本人から何度も礼は告げられました。……用件はそれだけですか?」
「あ、うん……」
もちろん立ち読みしている彼を強引に邪魔した自分が悪いのだけれど、こうも邪険にされるというのはやっぱり気分が良くなかった。だけどホワイトは何も言わないようにしようと思った。ここが本屋である以上舌戦するわけにもいかないし、一応は彼も自分の後輩なのだから。ホワイトはさっさと退散しようと、踵を返そうとした。そんなホワイトの目に入って来たのは、再び立ち読みをし始めたラクツが手にした本のタイトルだった。
「”はじめてのりょうり”……。ラクツくん、料理するんだ。何か意外かも」
捉えようによっては失礼なことを呟いたホワイトは、今の今まで存在を忘れていた本をしげしげと眺めた。ご丁寧にも平仮名で書かれているその本は、表紙だけを見れば絵本かと見間違う程のファンシーなデザインをしている。
「別に習慣があるわけではないですよ。むしろ、ボクの料理の腕は素人以下です」
「……でしょうね。だって、明らかに初心者向けだもの。すっごく可愛い本で……」
その本は、どう考えても初心者向けだった。タイトルに漢字が使われていないことを考えると、むしろ子供向けだと言えるかもしれない。そう胸中で呟いたホワイトは、悪いとは思いつつも本の内容を覗き込んでみた。そこには予想通りの可愛らしい絵が溢れていて、ホワイトは思わず笑みを零した。眉間に皺を刻んでいるラクツが可愛らしい本を熱心に読み込んでいるという事実が、何だかものすごくおかしかったのだ。
「でも、どうして急に料理をしようだなんて思い立ったの?」
好奇心を刺激されたホワイトは、深く考えずに尋ねた。ラクツから滲み出る雰囲気も表情も変わらないというのに、可愛らしい本を読んでいたというだけで、何だかものすごく話しかけやすくなったような気がする。それは果たして、自分の勝手な思い込みでしかないのだろうか。
「ファイツくんを手伝ったら、盛大に失敗したので。流石に改善するべきだと判断しただけです。……それと、料理という行為に興味が湧いたというのもありますね」
「そっか……。料理って、最初は誰でも失敗するものね。ファイツちゃんから聞いたんだけど、ラクツくんに毎日手料理を作ってくれてるんだって?」
「……はい。午後からあの娘と料理をする約束をしているんです。正確に言えば、ボクが教えてもらうわけですが」
「……あ。それで今朝、ファイツちゃんにお茶を断られちゃったんだ。用事があるって言った時のあの子ったら、すごく楽しそうにしてたのよ。誰かの為にあんなに頑張れるだなんて、ファイツちゃんって本当にいい子よね……」
後半部分は、半ば独り言のようなものだった。だけど「そうですね」と返されたことで、ホワイトは彼にずいっと詰め寄った。怖いと感じていたことなど最早どこ吹く風だ。
「あ、やっぱり?ラクツくんもやっぱりそう思う!?」
「何ですか、急に。否定出来る程の材料がないだけです」
「ファイツちゃんっていい子だし、それにすっごく可愛いものね……。ああ、ファイツちゃんがアタシの妹だったらなあ……」
するりと口を突いて出た願望が現実になってくれたらいいのにとホワイトは強く思う。あの娘が後輩で、そして同じ職場で働いているだけでも本当に恵まれていることだと分かってはいるのだけれど。だけど妹のようにあの子を可愛がっている身としては、どうしてもそう思ってしまうのだ。
「……可愛い?」
「そうよ!あの子以上に可愛い子なんて、他にいるのかしら……」
もちろん顔もだけど、何と言ってもちょっとした仕草が可愛いのだ。ホワイトは宣言するように言い切った。ファイツは可愛い、誰が何と言おうと可愛い。
(……あら?)
そんなことを考えていたホワイトは、あることに気が付いた。相変わらず料理本から目を離さないものの、ラクツの眉間の皺がどこにも見当たらないのだ。皺を刻むどころかとてつもなく優しい眼差しをしているではないか。更には、彼の顔が赤くなっているようにしか自分には見えないわけで……。ホワイトはピンと来た。これはもう乙女の勘なんてもんじゃない、確定事項だ。
「ラクツくんって……」
”ファイツちゃんが好きなんだ?”と言いかけて、だけどホワイトは寸でのところでその言葉を飲み込んだ。そんなことを訊くなんて野暮ではないか。その代わりというわけではないけれど、ホワイトは後輩の背中を思い切り叩いた。
「いきなり何をするんですか」
「あ、ごめん。ちょっと強くやり過ぎたかも」
ちょっとどころではない威力の平手打ちをした所為で文句を言って来た後輩に、ごめんねと両手を合わせる。だけどホワイトの中に、先程のような恐怖感が湧き上がることはなかった。ラクツが、自分が可愛がっている後輩に恋をしている。ただそれだけで、取っつきにくいと感じていたはずの後輩が急に微笑ましいと思えて来るから恋とは本当に不思議なものだ。野暮なことを訊いてしまう前に、今度こそお邪魔虫は退散しなければ。自然とそう思ったホワイトは、苦手意識を抱いていたはずの後輩に向けて「頑張ってね」とエールを送った。