その先の物語 chapter B : 007

気付いた答
宿泊しているホテルの一室で、ラクツはただ静かに身を横たえていた。こうして横になってからどれくらいの時間が経ったのだろうか。気にはなったが、わざわざ現在の時刻を確かめようとは思わなかったラクツは、結局何をするわけでもなく天井を見つめていた。

「…………」

多分、それなりには時間が経っているのだとは思う。しかし、肉体的にも精神的にも一向に落ち着いてくれないのは困りものだ。むしろ余計な雑音がない所為なのか、部屋に戻って来た時より悪化しているような気がしてならない。身体が火照っていることを感じ取って顔を顰める。身体中がどこもかしこも熱いわけだが、特に深刻なのは顔の熱さだった。顔から火が出るとはよく言ったものだとラクツは思った。この状況は、まさにその慣用句通りではないか。

「……熱いな」

叶うなら、この熱をどうにかしたかった。しかしどうにもならないことはラクツ自身がよく知っていた。それでも熱くて堪らなかったから、だからラクツは「熱い」と思ったことを口にした。枕元に置いたモンスターボールが小刻みに震え出したのは、常時とは比べ物にならない程の額の熱を左手で確かめていた、そんな時だった。

「……そうか、出たいのか」

大いなる倦怠感を覚えてはいたが、それでも自分は彼の”おや”なのだ。彼がボールから出たいと言うのなら、その意思を尊重してやらないでどうする。ラクツは額に当てていた左手をずらして、モンスターボールを手探りで手に取った。開閉スイッチを押すと、フタチマルが煙に紛れて飛び出した。そんな彼は一目散にバッグの元に駆け寄ると、中身をごそごそと物色し始めた。ラクツは彼の行動を見ても何とも思わなかった。それ自体はいつものことだし、見られて困る物など入っていないからだ。

「フタチマル?」

バッグの中身を平たく言えば漁られても平然としていたラクツだが、困惑から声を上げた。どうやら目当てを探し当てたフタチマルが、自分の予想とはまるで違っていた物を手にしていたからだ。てっきり空腹感から外に出たいと訴えたのだと思っていたのに、彼が持っているのはポケモン用の携帯食ではなくタオルと、念の為に携帯している解熱剤ではないか。何をするのかという疑問はすぐに氷解した。どうやら彼は「熱い」と漏らした自分の言葉を、発熱から来るものだと解釈したらしい。わざわざ”れいとうビーム”で凍らせたタオルを額に乗せてくれたフタチマルの気遣いが、火照った身体に染み渡るようで。だからラクツは、神妙な顔付きをしている相棒の頭を撫でた。彼のその気遣いが、そして相棒の頭を撫でる自分の手付きが。どちらともが、まるであの娘を写し取ったようだとラクツは思った。そう感じた瞬間に、ただでさえ熱かった顔が上昇する。今もこれ以上熱くなりようがないと思える程熱いのに、この身体はどこまで熱を持つのだろう。眉根を寄せたラクツは苦笑すると、ベッドに横たえていた身を起こした。途端にフタチマルが珍しくも焦りを見せたことで、更に笑みを深める。額から落ちたタオルを受け止めてくれた相棒は、こんな自分を心配してくれているのだ。

「すまないな。だが、そう案じずとも大丈夫だ。ボクは別に、体調不良というわけでは……」

そう言いかけて、ふと口を噤む。”これ”はある意味体調不良に当てはまるのではないだろうか。しかしベッドの傍に佇むフタチマルが自分をつぶらな瞳で見上げていることに気付いて、ラクツは馬鹿正直に言葉を発するのを止めることにした。その代わりというわけではないけれど、閉じていた唇をゆっくりと開く。先程胃に収めた言葉と違って、これは正直に言わなければならないことだと思うから。改めて名を呼ぶと、フタチマルが首を傾げた。彼は何事かという目付きをして、自分を見上げている。

「どうやらボクは、ファイツくんを好いているらしくてな」

あの娘の家でも、ホテルまでの帰路でも、そして今の今までも。決して声に出そうなどとは思わなかった言葉を、ラクツはとうとう口にした。その途端に心なしか気が楽になったように思えたのは、果たして気の所為なのだろうか。そんなどうでもいいことを考えながら、ラクツはまたしても苦く笑う。ファイツに友達になりたいと言われるその瞬間まで、彼女に好意を抱いていたという事実にまるで気付かなかった。百歩譲って逆はあっても、自分が他人に恋愛感情を抱くなんて天地がひっくり返ってもあり得ないと思っていたのに。むしろそう思い込んでいた所為で、自覚するのがこんなにも遅れたのかもしれない。そう声に出さずに呟いて、フタチマルの反応を窺う。まじまじとこちらを見上げていた彼は、指で何かを形作った。それは俗に言うハートマークだった。不思議そうな顔をしていたものの、言わんとしていたことはどうやらちゃんと伝わったらしい。

「……うん、そうだ。つまりは、愛だとか恋だとか、他には……。……そうだな、惚れたとか……。とにかく、そういう類のものだ」

”自分が彼女を異性として好いている”。ラクツがその事実を認めてから、まだ1日も経っていなかった。1日どころか半日も経っていない。それは、突然やって来た。あの時、ファイツは自分と友達になりたいのだと言った。その瞬間、ラクツの心に急速に湧き上がったのはすさまじい程の違和感だった。その違和感が、自分が本当は友達以上の関係を望んでいた為に湧き上がったのだと分かるまでにはそれ程時間はかからなくて。1ヶ月間以上も自分を蝕んでいたものの正体は、まさしく愛だとか恋だとか、大多数の人間がそう呼称するものだったのだ。ちなみに相手がフタチマルだからなのか、何度連呼しても気まずさや居たたまれなさといったものは一切湧き上がらなかった。

「……だから。凍らせたタオルはともかく、これはボクには必要ない。もちろんお前の気持ちだけは受け取るが」

そう諭して、フタチマルが持って来てくれた解熱剤を突き返す。素直に頷いたフタチマルは踵を返した。解熱剤をいそいそとバッグに戻す彼の姿を、ラクツはぼんやりと眺めていた。せっかく出て来てくれたのだ。話せない上にテレパシー能力もないけれど、言葉を理解している彼に相談するのも1つの手かもしれない。何と言ってもフタチマルは自分の相棒で、おまけに”まじめ”な性格をしているのだから。

「フタチマル。……ボクはどうすればいいと思う?」

相棒が動作で答を示したのは、ラクツが尋ねてからしばらく経った頃だった。実際に抱き付くことこそしなかったけれど、彼の仕草は抱擁そのもので。その性格を表したかのように瞬き1つせず、こちらをじっと見上げるフタチマルを、ラクツもまた無言で見つめ返した。しつこいようだが、フタチマルは”まじめ”な性格をしているのだ。だからこそラクツは、彼が提案して来た事柄の内容が俄かには信じられなかった。

「……まさか、お前……。あの娘に、これをしろとでも?」

まさかと思いながら尋ねたら、やはりこくんと頷かれた。ラクツは眉根を寄せると左のこめかみを押さえた。自分があの娘を抱擁している光景を不覚にも想像してしまい、はあっと溜息をつく。いや、したくないかそうでないかと問われたら、多分前者なのだろうとは思うのだけれど。しかし、それが赦されるはずもないことは分かっていた。

「お前が示したそれは、歴とした犯罪だろう。到底赦されるはずがない。……あの娘とボクは、そういう関係ではないんだぞ」

もう1ヶ月以上も前のことだ。ラクツは、自分がファイツに好かれているのだと誤解したことがあった。あの日のことは誤解が完全に解けた今でもよく憶えているが、彼女は「そういう好きじゃない」とはっきり言っていた。更には別の記憶が鮮明に蘇る。恥ずかしそうにはにかんだファイツは、それでもはっきりとした口調で「ラクツくんと友達になりたい」のだと言っていた。友人はあくまで友人であって、それ以上でも以下でもないのだ。つまり自分は、彼女にとってその程度の関係でしかないということなのだ。

「……念の為に言っておく。フタチマル、くれぐれも余計なことはするな」

きっと明日もこれまで通り、ファイツの家に向かうだろう。それはいいが、大真面目に抱擁しろなどと提案して来たフタチマルのことだ。ないとは思うが、もしかしたら無理やりにでも抱擁させる方向に持って行くかもしれない。……ないとは思うが、仮にそうなったとしたらファイツに拒絶されることは目に見えている。それに加えて、間違いなくダケちゃんの怒りを買う羽目になるに決まっている。

「ダケちゃんの強さはお前も理解しているだろう。間違いなくお前はひんしになるぞ」

ダケちゃんに追い立てられたラクツだったが、それ自体は別に気にしていなかった。むしろあんな時間に男が女の家にいたのだから、あのような応対をするのは極自然だと言えるだろう。しかしそれでも、出来れば粉を周囲に撒き散らされるのは勘弁して欲しいというのが本音だった。実際に浴びなかったからいいようなものの、もし浴びていたら、と思う。何せあの小さなボディーガードは”あまいかおり”や”しびれごな”を含めた複数の粉を同時に撒き散らしていたのだから、まず間違いなくホテルではなく彼女の家で一夜を明かしていたことだろう。ファイツの性格を思えば尚更だ。恋愛感情だけならまだしも、一時とはいえ邪な情を抱いた事実を考えると、追い立てられたことは却って良かったのだろう。…………いや、自分があの娘に手を出すなんて、万が一にもないとは思うけれど。

「……さて、ボクはこれからどうするべきなんだろうな」

邪念を振り払って、ラクツは相変わらずのぼせている頭をどうにか働かせた。フタチマルから建設的な意見がもらえなかった以上は、自分で今後の方針を考えなければならないのだ。正直なところ当惑してはいるものの、ラクツは自分があの娘を好きであるという事実自体は素直に受け入れていた。何しろ色々と心当たりがあり過ぎるのだ。例えばヒュウに対する黒い何かがいい例だ。多分あれは、世間一般的には嫉妬と呼称するものなのだろう。それに怪我を放置しかねない発言をしたファイツに不快感を覚えた理由も、結局は恋愛感情を抱いているから、で容易に説明がつくのだろうし。それはつまり、自分が彼女の身を案じていることに他ならないわけで……。

(……もしかしたら、ファイツくんもダケちゃんのわざを浴びていたのではないか?)

はたと気付く。自分はどうにか避けられたから良かったが、あの場にいたファイツに危害が及んだ可能性がないとは言い切れないのだ。敵意をふんだんに含んだあの攻撃は、浴びたら生命を脅かしかねない程のものだった上、彼女は自分と同じ空間にいたのだから。その考えに至ってしまったラクツは、ファイツが今何をしているのかが無性に気になった。いつかのように”キノコのほうし”で眠っているだけならまだいい、しかしそうでなかったら?果たしてあの娘は大丈夫なのだろうか……。

「……ん?」

枕元に置いてあったライブキャスターの着信音が奏でられたのは、いっそフタチマルに外から様子を確認してもらおうかなどと考えて始めていた時だった。相手の名前を確認して、安堵の溜息をつく。そこにはファイツの文字が表示されていた。自分にとっては、最早単なる一個人の名前ではなくなった文字の羅列だ。自分が今微笑んでいることを自覚したラクツは、落ち着けと言い聞かせながら通話ボタンを押した。そして、画面が点くや否や「ごめんね」と息せき切って謝って来た彼女に、苦笑いと無意識下の優しい眼差しを向けた。