その先の物語 chapter B : 006

フレンドガード
お礼と労いの気持ちを込めてホットミルクを作ったはいいものの、それはあくまでファイツの独り善がりでしかなくて、別にラクツに頼まれたわけでも何でもないわけで。だから実際には飲まずに帰られることもあり得ると密かに考えていたファイツだったが、その心配は結局のところ杞憂に終わった。レンジで温めただけのお手軽ホットミルクに口をつける彼を見て、ファイツもまた彼に倣って温かなミルクを飲んだ。甘いそれをひと口ずつ味わうように飲みながら、内心で良かったと息を吐き出した。彼がすぐに帰らないでいてくれたことが嬉しかったのだ。だけど代わりに疑問が湧き上がる羽目になった、そもそもどうしてこんなことを思ってしまうのだろうか?

(本当に何でなんだろう?単に何となく淋しくなったから、とかなのかなあ……。……”ラクツくんのことを友達以上に想ってるから”……は違うよね。別にあたしは、そういう意味でラクツくんを好きなわけじゃないんだし……)

ファイツはうんうんと頭を悩ませた。実際には淡くて脆いものだったが、かつてはラクツに多少なりとも好意を抱いていたのは事実だった。それだけではなくて、もしかしたら自分は彼に特別視されているのかもしれないと思っていたことも事実だった。彼が自分に見せた優しさを純粋な好意だと取り違えていたあの頃を思い出して、ファイツは苦笑した。一時的とはいえ好意を向けられていると思い込んで、本気で舞い上がっていたという事実が今では酷く愚かしい。蜂蜜入りの甘いホットミルクを飲んでいるというのに苦みすら感じるのは、文字通り苦い記憶が関係しているに違いない。
”そういう意味で彼のことを好きなわけじゃない”。そんな言葉で締め括った無音の呟きは、虚勢でも何でもないとファイツは思っている。現に今、ラクツのことをどれだけまじまじと見つめたところで、あの頃抱いていたような胸のときめきなどまるで感じないのだから。つまり自分は、ラクツのことをそういう目で見てはいないということなのだろう。それに、と思う。そもそも自分と彼は友達の関係ですらないのだ。それなのに友達以上に想ってるだのなんだのと考えること自体が彼に失礼だと、ファイツは浮ついた考えを抱いた自らを叱咤した。いや、自分は彼と友達になれたらいいなと密かに思っているのだけれど。

「……ファイツくん。そう凝視されると、ボクとしても反応に困るんだが。ボクに言いたいことがあるなら、直接声に出してくれないか」
「ご、ごめんね!ラクツくんは関係ないの!……その、ちょっと考え事してただけで……っ!」

静かに紡がれたラクツの言葉で、意識が現実に引き戻される。正直に答えなかったのは単に恥ずかしかったからだ。”あなたと友達になりたいです”だなんて、気恥ずかしくてとても口に出せるわけがない。疑わしいと言わんばかりの眼差しを向けて来るラクツをどうにかしてごまかそうと、ファイツはマグカップを持ったまま手をぶんぶんと振った。それが間違いだった。

「……あ!」

持っていたマグカップが手から滑り落ちた、そう思った時には既に遅かった。耳に届いたその音は、誰がどう聞いても何かが割れた音でしかなくて。フローリングの床に広がったホットミルクと、誰がどう見ても割れてしまったマグカップを認めて、がっくりと肩を落とす。ホットミルクはまだ半分も飲んでいなかったし、可愛い動物の絵が描かれたそれはかなりのお気に入りだったのに。だけど落ち込んでいる暇はなかった、何せこうしている間にも零れたミルクの範囲はじわじわと広がっているのだから。この音でダケちゃんが起きて来なかったことは不幸中の幸いだが、後始末を早くしなければとファイツは焦った。それがいけなかった。

「痛っ!」

左足に鋭い痛みを感じて、反射的に声を上げる。どうやらティッシュを取りに行こうとした焦った拍子にスリッパが脱げて、割れたマグカップの欠片を思い切り踏んでしまったらしい。靴下を履いているとはいえ、正直かなり痛かった。まさに踏んだり蹴ったりだ。ファイツは涙目になった、本当にどうして自分はこんなにもドジなのだろうか。

「……え?」

痛みを堪えながらも歩き出そうとしたファイツは声を上げた、誰かに手首を掴まれたのだ。その誰かの正体は分かり切っている、自分以外にリビングにいる人間なんて1人しかいないのだから。そろりと振り返ると、自分を引き留めたラクツが首を横に振ったのが見えた。彼はファイツが予想した通りの表情をしている。

「ボクがやる。キミはソファーにでも座っていてくれ」
「……お願いしてもいい?」
「ああ」

零れたミルクと割れたマグカップの後始末をお客であるラクツにやらせるというのは、本来なら間違っていることなのだろう。それはもちろん、ファイツだって分かっていた。それでもラクツの言葉に素直に従ったのは、自分がまたしても何かしらのミスをするかもしれないと感じたからだ。そう、例えばミルクで滑って派手に転ぶとか。そんなことはないと強く言えないのが悲しい。

「ファイツくん」
「……はえ?」

それはもう深く落ち込みながら、おとなしくソファーの上で身を縮めていたファイツは、ラクツに名前を呼ばれたことで顔を上げた。自分が片付けたはずの救急箱を片手にこちらを見下ろす彼の眉間には、やっぱり皺が出来ていた。

「”はえ”、じゃない。キミは先程、欠片を踏んだだろう」
「えっと……。でも、片付けがまだ……」
「もう済ませたぞ」

ラクツの言葉は嘘ではなかった。ファイツが1人落ち込んでいる間に彼は後始末を終わらせたようで、床にはミルクが零れた痕跡もマグカップの欠片も見当たらなかったのだ。”あたしのことはいいから後片付けの方をお願い出来る?”と言うつもりだったファイツは、途中まで発した言葉を飲み込んだ。逃げ道が塞がれたと、内心で冷や汗を垂らす。

「次はキミの手当てだ。左足だけでいいから、早く素足になってくれないか」
「べ、別にいいよ……っ。その、ラクツくんに悪いもん……っ」

ラクツの申し出を、ファイツは頑なに固辞した。今度はおとなしく従う気にはとてもなれなかった。単なる後片付けとはわけが違う。それに同性ならまだしも、相手は男の人なのだ。いくら手入れをきちんとしているからとはいえ、普段は他人に見せることのない足の裏を、それも同い歳の男の人に見られるというのはものすごく恥ずかしくて。だけどそんな乙女心は悲しいことにまるで伝わらなかったようで、ラクツの眉間の皺は数を増すばかりだった。ファイツは恥ずかしさで泣きたくなった。

「……だ、だいたいラクツくんだって嫌でしょう!?あの、足の裏を手当てする、なんて……」
「いや、別に。むしろどちらかと言えば、怪我を放置される方がボクにとっては不快だな」
「えっ……」
「……だから。いいかげん、早くしてくれ」

有無を言わせぬラクツの鋭い眼差しに気圧されて、ファイツはおずおずと靴下を脱いだ。左手に音もなくぶら下がった靴下は、全てが白いはずだった。だけど、踵の一部分が酷く汚れているように思えてならない。それは実際にはよく見てみないと分からない程の薄いものだったのだけれど、今のファイツはその汚れが無性に気になって仕方がなかった。

「……うん、こちらも傷の程度は大して深くはないな。早ければ数日で治ると思うぞ」

はっきり言ってしまえば多分自分だけが気になっていた汚れは、当然指摘されることもなく。ラクツの手当ては、実に淡々と終わった。手際良く手当てをしてくれた彼にどうにかお礼を言えたのは、手当てが済んでから10秒以上が過ぎた頃で。「ありがとう」と言えたものの、遅過ぎるとファイツは思った。

「…………」
「…………」

ラクツも自分も何も言わないから、時間だけが過ぎていく。無言のファイツを襲うのは罪悪感と気まずさと気恥ずかしさだ。お礼自体は言えたが、それははきはきとは真逆の物言いだった。その上、彼の顔も見ずに「ありがとう」と言ったのだ。果たしてどうなのだろうと自問するまでもなく、彼に悪いとファイツは思った。これでは半分も感謝の気持ちが伝わらないではないか。だけどどうしても顔が上げられそうになくて、ファイツは俯いたまま溜息を漏らした。いつの間にか床に落ちていた靴下を拾う気すら湧かなかった。

「あたし……。本当に失敗してばっかり、だよね」
「……まあ、そうだな」
「うん……」

多少の沈黙の後に返って来たのは、無意識に吐き出した音を肯定するラクツの言葉だった。気が付いたら発していた言葉を否定されなかったファイツは、小さく頷いた。元々否定されたかったわけではなかったし、自分がドジな性格をしていることは分かり切っている。無理に否定されたとして、却って気が重くなるだけだ。だけど肯定されたからといって気楽になれるはずもなくて。膝を立てて座ったファイツは、その上で交差させた腕に突っ伏した。”そこまで落ち込む必要もないだろう”という声が降って来たのは、本日何度目になるか分からない深い溜息をついた、そんな時だった。

「今日は、ボクも失敗ばかりだった。つまりはお互い様だ。キミの言葉を借りるなら、あいこでいいのではないか」
「そう、かな……。ラクツくんが失敗ばかりなんて、そんなことないと思うけど……」
「いや。今日に限ってはむしろ、ファイツくん以上に失敗したとボクは考えているが。別に器用だとも思っていないが、それでももう少しまともに出来ると踏んでいたんだがな。……結果はあの通り、散々なものだったが」

ラクツが言っているのが料理で失敗したことを指しているのだと分かって、ファイツはばっと顔を上げた。確かに結果だけ見れば良くないどころかかなり悪い出来栄えだったと言えるが、それはラクツだけの所為ではないのだ。そう、ファイツ自身だって色々と失敗したのだから。

「……ファイツくんはすごいな。キミの料理の腕は本当に見事なものだ」

”あたしはすごくなんてない”。ラクツからの称賛を真っ向から否定しようとしたファイツは、だけど彼を見上げたまま何も言えなかった。眉根を寄せたラクツが、それはそれは穏やかな表情をしていた所為だろうか。

「素人以下のボクが料理に携わるという選択自体が、結果的には間違っていたのかもしれないがな。決してキミを責めているわけではないが、フタチマルもボールに閉じこもっている始末だ。パンだけでなく普段与えている携帯食を見せても、頑なに出たがらなくてな。どうやら不信感を抱かれたらしい」

ラクツがそう言いながら、フタチマルが入ったモンスターボールを見せて来る。赤と白の球体を見上げたファイツは、言葉通りにボールの中で腕組みをしているフタチマルを目の当たりにして心を痛めた。それは、かつて所属していた団体にモンスターボールがポケモンの自由を侵害する物だと教えられて育ったからではなかった。いや、実際のところは未だに苦手ではあるのだけれど。

「うう……。フタチマルくんには、悪いことしちゃったよね……」

本当に心を痛めるべきなのは、多分碌にご飯を食べていないであろうフタチマルの方なのだ。だけどファイツの胸はずきんと痛んだ、本当にかわいそうだ。今からでも、フタチマルの為に何かを作ってあげられないだろうか。腰を浮かしかけた自分を制止したのは、例によって彼だった。

「もう遅い時刻だ、そこまでしなくていい。それに、そこまで深く気に病むな。これは”おや”のボクの責任でもある。……それにしても、料理がここまで難易度の高いものだったとは思わなかった」

眉根を寄せたままのラクツと、心なしかそっぽを向いているように見えるフタチマルを、ファイツは交互に見やった。落ち込んでいたことなどどこへやらで、今のファイツの心に渦巻くのは不安感だけだった。自分が関わった所為で、ラクツとフタチマルの間にある絆が壊れたらどうしよう。もしもコンビ解消なんてことになったら、果たしてどう責任を取ればいいのだろう?そのこともものすごく気にはなったが、ファイツにはもう1つ気にかかることがあった。

「ラクツくん、訊いていい?」
「どうした?」
「料理するの……嫌になっちゃった?もうやりたくないって、思う?」
「……いや。むしろ、逆に興味が湧いたと言えるな。そうは言っても、技術が圧倒的に不足しているわけだが」
「…………」

いつの間にか料理をするのが楽しいと思えるようになったファイツは、彼の答にホッと息を吐いた。もうやりたくないなどと言われたらどうしようと思っていただけに、肯定しないでくれたことが殊更嬉しかった。そしてふと、とある考えを思いつく。何しろ興味が湧いたと言ってくれたのだ。彼の為にもなるだろうし、何より自分の罪滅ぼしにもなるのではないだろうか。

「そこでだ。すまないが、ボクに料理を教えてはもらえないだろうか」
「じゃあ、あたしが、その……。ラクツくんの、料理の先生になれないかなあ……?」

自分と、そして彼と。双方で言葉が発せられるのは、ほとんど同時だった。驚いたファイツは目を瞬いたが、それは彼も同じだったらしい。ラクツは目を大きく見開いて硬直している。それでも硬直から先に立ち直ったのはやっぱり彼の方だった。

「訊いておいてなんだが、本当にいいのか?」
「う、うん!あたしで良ければ……!」
「願ってもない。よろしく頼む」

差し出された左手を、ファイツは迷いなく両手で握った。「これからよろしくね」と返して、にっこりと微笑む。「すまないな」と申し訳なさそうに紡がれた言葉には、とんでもないとばかりに首を横に振った。

「あたし、もっとラクツくんと仲良くなりたいの。ヒュウくんやペタシくんみたいに、ラクツくんとも友達になりたいって……。前からずっと、そう思ってて……」
「…………友達?」
「うん!……あっ!!」

しっかりと頷いてしまった後で、自分が言葉を発していたことに気付いたファイツは口を片手で勢いよく覆った。だけど、当たり前だがそれは後の祭でしかなくて。一気に顔を赤らめたファイツは、何もない空間を見つめた。今日だけで何度思ったが分からないが、もう恥ずかしくて堪らなかった。「友達」と呟いた彼の声が、どこか遠くで聞こえるような気がする……。

「め、迷惑、かなあ……?こんなこと急に言われても、やっぱり困っちゃうよね?」
「いや。迷惑じゃない」
「ほ、本当!?」
「ああ。……だが、しかし……」

”迷惑じゃない”。はっきりとそう言ってもらえたのは良かったが、ラクツはそこで言い淀んでしまった。彼にしては珍しいが、明らかに歯切れが悪い。それに何だか顔が赤いような気がするし、おまけにすごく困っているように見えてならない……。

「………………ファイツくん」
「何?……って、ダケちゃんっ!?」

沈黙の後で名を呼ばれたファイツだったが、言葉の続きが発せられることはなかった。まるで図ったようなタイミングでリビングに飛び込んで来たダケちゃんに、強制的に中断させられたからだ。怒り心頭と言った顔付きを見せたダケちゃんによってリビングどころか家まで追い立てられたラクツに向けて、ファイツは何度もごめんねと謝った。