その先の物語 : 037
人は、それを”嫉妬”と呼ぶ
(まあ、想像していたよりは食べやすい味だな)人生初のケーキを味わったラクツは、胃に収めた物体に関してそんな評価を下した。「ラクツくんにはこれがいいと思う」と、他の2人に聞こえないようにファイツが声を潜めて勧めて来たブルーベリーのチーズケーキは、確かに控えめな甘さだった。ケーキである以上は相当な甘さなのだろうと予想に反して、思っていたよりはずっと食べやすいと感じたことは確かだ。しかし、言ってしまえばそれだけだった。
(ただの食べ物だ。取り立てて騒ぐ程のことでもないな)
小さく切り分けたケーキを少しずつ口に運んでいる彼女と、彼女とは対照的に大きな塊を口いっぱいに頬張っている彼らを、ラクツは笑顔の裏で無感動に眺める。どうでもいいが、全員同じケーキを注文していた。少なくともこの3人はケーキを食べることに対してそれなりの価値を感じているようだが、自分にはとてもそうは思えなかった。そうは言ってもこの場にヒュウとペタシがいる以上、終始無表情を貫くわけにもいかない。彼ら2人を見たラクツは内心で嘆息した。イッシュ地方に再び赴任してから数ヶ月の時が経っていたが、よくよく考えれば誰かしらのクラスメイトに出くわしても不思議ではなかったのだ。そして出くわしてしまえば、必然的に演技せざるを得なくなるわけで。その労力を今日のこの日まで使わずに済んだという事実だけを思えば、むしろ自分は幸運な方ではあったのだろう。
(しかし……。別人格を演じるというのは、中々に疲労が溜まるものだな。……以前はここまで精神的疲労を感じなかったように思うんだが……)
疑問に思いながら息を吐き出したものの、どういうわけか先程から蔓延っている疲労感と鬱屈感は一向に消えてはくれなかった。それどころか、より強まったような気がするのは何故なのだろうか。ラクツは再度ヒュウとペタシを一瞥した。はっきり言ってしまえば、彼らの存在は邪魔以外の何物でもなかった。しかし”ラクツ”がそれを口に出す性格をしていないことは、他ならぬラクツ自身が一番よく理解していた。そんなわけで、疲労感と鬱屈感を表面上の笑顔で覆い隠したラクツは、ケーキを口内に入れるという作業をひたすら繰り返していた。
「おいラクツ。お前、どこか具合でも悪いのかよ?」
不意に聞こえて来たその声で、機械的に動かしていたフォークが途中で止まる。左手でフォークを持ったまま、ラクツは作業を中断させた人物を見据えた。声の出所は右斜めに座っていたヒュウだ。
「……ボクが?ううん、別に」
呼吸をするように彼の言葉を否定する。実際嘘ではなかった。確かに肉体的にも精神的にも万全であるとはとても言えなかったが、そこまで不調というわけでもなかったのだ。
「そうか。……それならいいけどよ」
間髪入れずに否定したおかげなのか、ヒュウはそれ以上深く追究しては来なかった。納得したように頭を振った彼は、原形を留めていないケーキの塊を乱暴に放り込んだ。そんな彼を眺めながら、ラクツは1人思案した。彼がどういう意図でそう尋ねたのかが純粋に気になる。もしかしたら、疲労感が表情に出ていたのだろうか。
「ヒュウ。何でそう思ったんだ?」
「いや、何でと言われてもよ。だってお前、全然ナンパしてねえじゃねえか。周りにはこんなに女子がいるってのによ」
「こんなに」の辺りでケーキの切れ端が付着したフォークをペン回しの要領で回転させた所為で、ケーキが床に落下することとなったが、ヒュウは大して気にもしていない様子でこちらを見つめ返していた。ラクツもラクツで、まったくもって理解出来ない言葉を口にした彼を目線で捉える。まるでわけが分からない。ナンパをするなと苦言を呈したのは、果たしてどこの誰だっただろうか。舌の根も乾かないうちに手の平返しをされるとは流石に予想外だ。
「……ヒュウ」
「何だよ」
「キミの方こそ熱があるんじゃないか?」
「うるせえ!」
「ラクツの言う通りだすよ。ヒュウがまさかそんなことを言うだなんて……。オラ、ヒュウが心配になって来ただす……」
「だあー!ペタシも黙れっての!」
瞬く間に顔を赤くさせたヒュウは、「心配しちゃ悪いのかよ」と呟いた。ぼそりと呟かれたその言葉を漏らさず聞き取って、ラクツは目を見開いた。意外だ、と思ったのだ。自分が知っているヒュウは、口は悪いし目付きも悪いしで、すぐ怒鳴り散らす人間でしかなかったのだが。
「お前がおとなしいと何か変っつーか、そう!オレの調子が狂うんだよ」
「ナンパをするなって言ったのはヒュウじゃないか。それなのに、いきなりナンパしろって言われても困るよ。ヒュウは忙しないなあ……。あ、もしかして手本を見せて欲しいの?それならそうと早く言えばいいのに」
「欲しくないし言わねえよ!……いいかラクツ、オレ達はケーキを食いに来てるんだからな!」
「分かってるって」
即座に却下されるだろうとは思っていたが、実際そうなったことでラクツは密かに安堵した。別にナンパをしても問題はないし、”ラクツ”としてはむしろすべきなのだろう。しかし、出来ればごめん被りたかったのもまた確かなのだ。例えば、ここに座ってから幾度となく視線を向けて来ていた顔も知らない異性などは、二つ返事で頷いただろうから。
「お前の所為だっつーの!……まあとにかくだ。具合が悪いわけじゃねえんだな?」
「うん。怪我も全然大したことなかったし。それに、ファイツちゃんがしっかり手当てをしてくれたからね。ありがとう、ファイツちゃん!」
「ふ、ふえっ!?……は、はい……」
話の流れで彼女に話題が映るのはそうおかしくはないはずなのに、何故だかファイツは大袈裟に反応した。一瞬だけ訝しんで、すぐにそうかと思い直す。そういえばそうだった。自分が仮面を被って接していた時、あの娘はほとんど常にこういう反応をしていたのだ。自分に倣ってか、ファイツもまた現在進行形で演技をしているのだろう。つまり今の彼女はやたらとおどおどしていて、明らかに自分に対して壁を貼っていたあのファイツなのだ。ラクツは自分の演技につき合ってくれている娘を見つめた。
「……だども、ラクツ。ラクツはすごいだすね!」
声を潜めて耳打ちをして来たペタシに、何がと疑問符をつけて返す。目は未だにファイツを捉えたままだ。
「さっきのことだすよ。ラクツみたいに女子を自然に褒めるなんて、オラには出来そうもねえべ……」
「そうか?ペタシだって、ファイツちゃんの服を褒めてたじゃないか」
蘇るのはここに来るまでの道中の出来事だ。唐突に「女の子の褒め方を伝授して欲しい」と頼んで来たペタシに対して、ラクツは内心で眉をひそめながら当たり障りのないアドバイスを贈った。その中の1つが、服装を褒めろということだった。服装や装飾品を褒められて喜ばない異性はいないというのがラクツの持論だ。実際、ファイツは教えを即座に実行したペタシに困惑しながらも、「ありがとう」と言っていたではないか。
「だども、だども!ラクツはすごいんだすよ!オラ、オラ……。か、か、可愛いなんて、絶対言えねえっぺよ……っ」
「あのなあペタシ。今、はっきり言ってるじゃないか」
どうやらペタシは、どうしても自分をすごいと評したいらしい。そんな彼に、呆れの視線を送りつける。今やペタシは、耳まで赤くなっていた。
「ち、違うだすよ!女子に直接言えねえって意味だす!だからオラは、ラクツがすごいと思ってて……」
「あはは……。そんなに深く考えなくてもいいんじゃないかな。ボクだってそうしてるし、ペタシも思ったことを素直に言えばいいと思うよ。だって、ファイツちゃんの服は本当に似合ってたからね。あの服は、本当に……」
ラクツはふと口を噤んだ。首を傾げたペタシが、どうしたんだろうとでも言わんばかりの顔をして自分を見つめている。ペタシの物言いたげな視線は綺麗に無視して、ラクツは思考の海に沈んだ。口に出して続けるはずだった言葉を、胸中ではっきりと音にする。
(いや……。可愛いという形容詞が似合うのは、服と言うよりむしろ……)
ラクツの思考はそこで止まった。いや、強制的に止めたと言った方が正しいかもしれない。自分は今、とんでもないことを考えなかったか。
「ラクツ?どうしただすか?」
「ああ……。ううん、何でもないよ」
思考の海から引き揚げてくれたペタシに内心で感謝して、ラクツは思考を切り替えた。我に返ったと言い換えても良かった。しかし気を取り直したラクツの視界に飛び込んで来たのは、ヒュウとファイツの姿だった。おそらくはむせてしまったのだろう。ケホケホと涙目で咳をするファイツの背中を、呆れ混じりに笑ったヒュウが軽く叩いている……。
「ファイツ、大丈夫か?」
「うん、大丈夫……」
「やっぱりお前ってすっげえドジだよなあ。本当に大丈夫かよ?」
「う、うん……。ありがとう、ヒュウくん……」
ヒュウとファイツの、何でもない会話が。そして、ペタシの「本当に仲良しだすね」というしみじみとした呟きが。そのどちらもが、遥か遠くで聞こえるような気がしてならなかった。
「…………」
眉間に皺を刻んだラクツは、2人を見つめていた。彼女の咳込みはそう長くは続かなかったようで、ヒュウとファイツはとうに離れていた。しかしそれでも、ラクツの目にはあの瞬間の2人の姿がやけにしっかりと焼き付いていた。
「…………」
ラクツは無意識に腕組みをした。元からどうでも良かったことを抜きにしても、ケーキを再び口にしようという気が微塵も湧いて来なかった。無造作に置いたフォークの銀色の光が、何故だかやけに眩しかった。明らかに疲労感ではない、形容し難い何かが、重苦しい何かが、色で例えるなら黒い何かが、急速に湧き上がって来る。その正体に、ラクツが気付くことはなかった。