その先の物語 : 035

テクスチャー
「ラクツくん、本当に大丈夫なの?」

ポケウッドのスタッフルームという、閉ざされた空間に満ちた沈黙を破ったのはファイツだった。先程から彼女がずっとこちらに視線を向けていたことには当然気付いていたが、とうとう我慢出来なくなったらしい。椅子に腰かけたラクツは、浮かない顔をしているファイツに深い溜息と呆れの眼差しを送った。何せ彼女が「本当に大丈夫なの」と尋ねたのは、これが初めてのことではないのだ。

「大丈夫だ。何ら問題はない。……それよりファイツくん。キミはいったい何度同じことを訊けば気が済むんだ?」
「だって!ラクツくんが心配なんだもん!!」
「まったく……。つくづく心配性だな、キミは。”これ”も、その性格故ということか」

ラクツは幾重にも包帯が巻かれている右腕を左手で指し示した。言うまでもなくそれは、ファイツが巻いたものだった。

「え!あたし、何か失敗してた!?それとも傷口が開いたとか!?……やだ、どうしよう!!」

途端におろおろと狼狽したファイツは、どういうわけか瞳に涙を滲ませていて。慌てて救急箱から消毒液とガーゼと包帯を取り出した彼女に、ラクツは再度呆れの視線を向けた。現時点でも充分過ぎる程になされているというのに、彼女はこの上更に手当てを重ねる気であるらしい。

「違う。気になると言ったのは包帯の量と範囲だ。いくら何でも、これは流石に大袈裟過ぎではないか?」

怪我をした部分だけ巻くのなら理解出来るが、右腕全体を包帯で巻くのは過剰にも程がある。これでは包帯を無駄使いしただけだ。「あたしが手当てをするから」と言って聞かなかったファイツの好きにさせたのはラクツなのだが、今から思えば自分でやるかフタチマルに任せた方が良かったのではないだろうか。

「そんなことないよ!だってラクツくん、怪我してるんだもん!」
「怪我と言ってもな……。多少血が流れただけで、別に大した怪我でもなかっただろう」
「ラクツくんにとってはそうでも、あたしにとってはそうじゃないの!……あんなに血が流れてるところ、初めて見たよ……っ」

こちらの意見に真っ向から反論したファイツは、身体をぶるぶると震わせた。その顔色からして、どうやら彼女は血が苦手であるらしい。

「ファイツくんがどう思おうが、ボクにとっては大した怪我ではない。痛みにも出血にも慣れているし、利き手でもないからな」

そう言ってしまった後で、ファイツに自らの利き手を明確に教えたという事実に気付く。万が一のことを考えて両方同じくらい使えるように訓練したのだが、本来は左利きなのだ。彼女の前で散々左手で食器を使っていたのだから今更なのだけれど、それでも何があるか分からない以上、他人に利き手を知られないに越した事はない。数瞬思考して、ラクツは結論を出した。

(……まあ、問題はないか。ボクに危害を加える気がこの娘にあるのなら、とうの昔にやっているはずだからな)

わざわざ思案するまでもない。この娘がそういう人間でないことは、自分がよく知っているはずではないか。大きな瞳を心配そうに揺らめかせる彼女からは、敵意や害意といった負の感情は欠片も感じ取れないのがその証拠だ。ファイツが誰かを陥れるような人間ではないことは理解しているはずなのに、彼女を疑った自らを内心で苦笑する。

「ラクツくん、本当にありがとう」
「何だ、急に」

本当に唐突だった。この流れでどうして礼を言うのだろうか。どこがどうなってその結論に至ったのかが実に不思議だった。覗けるものなら彼女の思考回路を覗いてみたいものだ。微笑んだファイツを見つめ返しながら、ラクツはそう思った。

「ラクツくんを見てたら、どうしても言いたくなったの」
「……キミはいったい、何度ボクに礼を言えば気が済むんだ?ファイツくんからの礼はとうに受けたぞ」

何を隠そう、放心状態から立ち直ったファイツが最初に口にした言葉が「ありがとう」だったのだ。腰を抜かしたと訴えるファイツを運ぶ途中でも、そしてこの部屋の中でも。そう長くない間に、自分はいったい何度この娘に礼を言われたことだろう。

「それは分かってるけど……。ラクツくんが助けてくれなかったら、あたしはここにいなかったかもしれないんだもん」
「仮に直撃していたら、重傷は避けられなかっただろうな」
「うん……。まさかあんな大きい物が落ちて来るなんて思わなかったから、もうショックで……。ここまで運んでもらって、ラクツくんにも迷惑かけちゃったね」
「別に迷惑をかけられたとは思っていない。そもそもボクがキミを助けたのも、偶然の産物でしかなかったからな」

偶然、ファイツにポケウッドに来ないかと誘われた。偶然、その場に居合わせた。偶然、照明が揺れたことに気付いた。偶然、観客の最前列にいた。そして偶然、国際警察官として任務を遂行出来るだけの能力をその身に刻み込んでいた。ファイツがここに存在しているのは、あくまでも偶然が重なった結果なのだ。

「運が良かっただけだ。感謝するなら、自分の幸運にした方がいい」
「そんなことないもん。とにかく、ラクツくんはあたしの命の恩人なんだよ。何回お礼を言っても言い足りないよ」

ファイツは飽きもせずに「ありがとう」と述べると、花が咲くような微笑みを浮かべた。彼女から目を逸らしたのも、大袈裟に溜息をついたのも、例によって鼓動が激しく高鳴り始めた現実から目を背ける為だった。そんな自分の内心など知ってか知らずか、ファイツは柔らかな微笑みを顔中に浮かべている。

「……あの、ラクツくん」
「何だ?」
「あたしの勘違いだったらごめんね。もしかして、ラクツくんって……」

声からして、ファイツが言い辛そうにしているのは明らかだ。彼女はいったい、どういった類の言葉を続けようとしているのだろうか。ラクツの中で何かが警鐘を鳴らしていた。この先続くであろう言葉を、自分は聞いてはいけないような気がする……。

「ありがとうって言われるの、苦手だったりする?」
「……は?」
「上手く言えないけど、すごく困ってるように見えたから……。……あ!ごめんね、変なこと聞いて!急にこんなこと言われても、困っちゃうよね?」

ファイツはまたしても「ごめんね」と言って会話を締め括ったが、ラクツは内心で”助かった”と呟いた。そもそも何が助かったのかが分からないのだけれど、とにかくそう思ったことは事実だ。ラクツは今、心底安堵していた。軽く息を吐き出してから、問いかけに対しての答を告げる。

「いや……。そんなことはないが……」
「嘘じゃないよね?」
「ああ。嘘ではないぞ」

本当に嘘ではなかった。この状況にははっきり言って現在進行形で困っているが、礼を言われること自体は苦手ではなかった。

「……良かった!じゃあこの先しばらく、ありがとうって言い続けてもいい?」
「この先、しばらく……。……流石に勘弁してくれ」
「あ、やっぱりダメ?……でも、感謝してるのは本当だからね」
「それはもう充分過ぎる程に理解した。……では、そろそろ行こうか。不本意ではあるが、”彼ら”に待っていると言われてしまったからな」

手当てが完了した以上、ここに長居する必要もないだろう。椅子から腰を浮かせた自分に一歩遅れて広げていた救護道具を片付け始めたファイツが、小さく名を呼んだ。

「どうした?礼ならもう受け付けないぞ」
「そうじゃなくて……。……ヒュウくんとペタシくんには、話さないのかなあって思って……。あの、ラクツくんのこと……」
「話す必要がない。ボクの素性を知る者は、少ないに越したことはない。このことはキミも他言無用で頼む」

キミに身分を明かしたのは、あくまでそれが必要なことだったからだ。そう言い放つと、ファイツはどこか淋しそうに微笑んだ。

「そっか……。ラクツくんがそう言うなら……」
「そうしてもらえると助かる。ボクはあくまで偶然ポケウッドに来ただけで、ボクとキミは先程再会したばかりだ。そういう設定でボクに接して欲しい」
「分かった。ボロが出ないように頑張るね!」
「よろしく頼む。……じゃあ行こっか、ファイツちゃん!」
「え……。ええ……?」
「どうしたの?早く行こうよ!」
「えっと……。う、うん……」

目に見えて困惑しているファイツが、ぎこちなく頷いた。そんな彼女の手を有無を言わせず取った”ラクツ”は、相も変わらず高鳴った心臓の鼓動をごまかすように、にこやかな笑みを貼り付けた。