その先の物語 : 031
真っ白な誓い
「う~ん、くらくらするよう……」弱々しく呟いたファイツは、頭を押さえながら廊下をゆっくりと歩いた。髪を乾かした後で冷たい水をがぶ飲みしたのだけれど、それでもまだ身体が火照っている気がする。止せばいいのに熱いお風呂に長く浸かった所為で、完全にのぼせてしまったらしい。
「はあ……。やっと着いた……」
やっとのことで自分の部屋に戻って来たファイツは、ぼすんと音を立ててベッドに腰かけた。元々長湯する方なのだけれど、流石に1時間も浸かるのは長過ぎだった。明日からは熱いお風呂に長く入るのは止めよう。そう心に固く誓った後で、ファイツははっと我に返った。
(やっちゃった……!ダケちゃんが寝てるのに!)
慌てて枕元をちらりと見て、ホッと胸を撫で下ろす。弾みをつけて腰かけた所為で起こしてしまったかもしれないと焦ったけれど、その心配は杞憂だったらしい。ダケちゃんは相当深い眠りについているようで、すうすうと規則正しい寝息を立てていた。
「よく寝てる……。今日は帰るのが遅かったもんね……」
疲れたよねと呟いて、ぷにぷにとした柔らかい頭をそっと撫でる。こうして撫でていても起きる気配すら感じられないダケちゃんは、今や鼻風船を膨らませていた。そんなダケちゃんを見ているだけで、自然と愛おしさが込み上げて来る。
「おやすみ、ダケちゃん……」
ファイツは大切な友達を最後にもう一撫ですると、部屋の電気を消した。そして、ベッドにごろりと横になる。瞳を閉じれば、そこはもう真っ暗闇の世界だ。仕事とお風呂上がりでくたくたになったことも手伝って、横になればすぐに眠くなるだろうとファイツは思った。
「…………」
その予想が裏切られたと判明したのは、瞳を閉じてからしばらく経った頃だった。いくら待っても一向に睡魔が訪れないという現実に直面したファイツは、ゆっくりと目を開けた。真っ暗な部屋に、ダケちゃんの寝息が響き渡る。
「どうしよう……。明日も早いのに、全然眠くならないよ……」
ぐぐっと眉根を寄せたファイツは、ぽつりと呟いた。今朝だって早起きしたけれど、明日の朝も負けず劣らず早いのだ。掃除に洗濯に身支度と、やらなければならないことはそれこそ山のようにあるわけで。だから今すぐにでも眠りたいのに、そう思えば思う程逆に目が冴えるような気がする。横になってからいったいどれくらいの時間が経ったのだろう。時間を確認しようとしたファイツは、小さな声を上げた。時計代わりにしているライブキャスターを、リビングに置き忘れていたことにようやく気が付いたのだ。ライブキャスターのアラームで毎朝起きているから、そのままにしておくわけにもいかない。
(取って来なきゃ……。寝坊するわけにはいかないもんね……)
ダケちゃんを起こさないようにゆっくりと身体を起こして、そっと自分の部屋を出る。横になったおかげで火照りは回復したものの、ファイツは戻って来た時と同様に廊下を一歩ずつ歩いた。せっかくよく眠っているダケちゃんを、自分の足音で起こしたくはなかった。ドアを開けたファイツは、リビングを素通りして奥にあるキッチンへと向かった。どうせここまで来たのだから、ついでにホットミルクを飲もうと思ったのだ。
「美味しい……!」
ソファーに座ってひと口飲んだ途端に、言葉が勝手に唇から零れ落ちる。レンジで温めただけのお手軽ホットミルクだけど、まろやかな優しい味が身体に染み渡る気がしてならない。もしかしたら喉が渇いていたから眠れなかったのだろうか。そんなことを思いながら、ファイツは文句なしに美味しいホットミルクを少しずつ味わった。ホットミルクがこんなにも美味しい飲み物だなんて知らなかった。
(これからは毎日飲もうかなあ……。明日は蜂蜜をたっぷり入れるのもいいかも……!)
甘い物が好きなファイツは、蜂蜜入りのホットミルクを飲んだ時のことを想像して口角を上げた。ただの温めたミルクがこんなにも美味しいのだ。そこに蜂蜜を入れたら、絶対に美味しいに決まっている。この感動を誰かと共有したい、早速明日にでもラクツくんにも飲んでもらおう。そう極自然に考えて、ファイツは間の抜けた声を上げた。
「そっか、ラクツくんには出せないよね……。だって、ラクツくんは甘い味が苦手なんだもんね」
つい数時間前に知ったばかりの新事実を繰り返し呟いたファイツは、ふふっと小さく笑った。ここにはダケちゃんもいないし、誰も自分を見ていない。だからファイツは、遠慮なく笑い声を上げた。食べ物の好き嫌いすら分からない彼が不憫で、そしてそんな彼に好きな食べ物を食べた時の感動を知って欲しくて。ファイツはそんな一心で、この1ヶ月を過ごして来たのだ。半分だけとはいえ、それが叶ったのだ。これが笑わずにいられるだろうか。嫌いな味が分かっただけでも大きな前進だ。もしかしたら、好きな味も分かるかもしれない。
(甘い物がダメってなると、やっぱり辛い物が好きなのかなあ……?それとも、苦い物が好きとか?苦いクッキーを平気で食べてたから、味自体は苦手じゃないんだろうけど……。……というか、あのクッキーってまだ残ってたりするのかなあ……)
まだミルクが入っているマグカップを見つめながら、ラクツのことを思う。何だかここ最近は、彼のことばかり考えているような気がする。そう思ったファイツの顔には、薄らと赤みが差した。
「や、やだもう!あたしばっかり変なこと考えて……!こんなんじゃ、ラクツくんに失礼だよ……!ラクツくんは、あたしのことなんて何とも思ってないのに……っ!」
実際は的外れどころか自分が思う以上に遥かに強い想いを向けられているのだが、そんなことは知る由もないファイツは両頬をバシバシと強く叩いた。頬の痛みによって強引に意識を切り替える。せっかく嫌いな味付けというか、嫌いな物が分かったのだ。おかしいかもしれないけれど、盛大に呆れられるかもしれないけれど、やっぱりこちらとしてはそのお祝いをしてあげたい……。
「ケーキ、はダメだよね……。甘い物がダメなんだし……」
お祝いの定番中の定番であるケーキはすぐに却下した。ケーキが食べられるならホワイトに教えてもらったお店に行くのが一番なのだが、甘い物は止めておいた方がいいだろう。誕生日やらクリスマスで大活躍のケーキがお祝いにならないのは正直痛手だと、ファイツはそっと目を伏せた。いや、決してラクツが悪いわけではないのだけれど。
「……そういえば、ラクツくんの誕生日っていつなんだろ?」
唇からまたしても零れた言葉が、静かなリビングに響き渡る。それこそ毎日会っているというのに、自分は彼のことをよく知らないのだと今更ながら強く思わされる。ラクツの誕生日も、ラクツの血液型も、そしてラクツの本当の名前も。嫌いな味は今日の出来事で分かったけれど、彼について知らないことの方が圧倒的に多いのは事実だった。
「ラクツくんに訊いたら、答えてくれるかなあ……」
ラクツくんのことをもっと知りたい。ラクツくんともっと仲良くなりたい。わがままと言われればそうだとしか言えないのだけれど、明日会ったらラクツくんに色々訊いてみよう。ぬるくなったホットミルクを飲み干したファイツは、そう心に誓った。