その先の物語 : 030
好き・嫌い・好き
随分と嬉しそうに食べるものだな”。そんなことを思いながら、ラクツは頼んだパンケーキを食べることなく眼前の娘を眺めていた。向かい側に座ったファイツは野菜が多めに盛り付けられたプレートを綺麗に平らげて、今はデザートのパフェを少量ずつ食べているのだが、ご丁寧にもスプーンを口内に入れる毎に頬を緩ませていた。それはそれは美味しそうにパフェを食べる彼女に目が釘付けになっている自分に気付いて、ラクツは眉間に皺を刻んだ。本来なら容易い行為であるはずなのに、どうしてこの娘から目が離せないのだろうか。せっかくくろねこという名の喫茶店に来ているというのに、本来の目的から逸脱している人間は自分だけだろうななどと思いながら、ラクツは1人思案した。「ラクツくん、どうしたの?……食べないの?」
最初のうちはパフェを食べることに夢中だったファイツも、10数秒もの間視線を向けられたことで流石に訝しんだらしい。アイスクリームをスプーンで掬う手をわざわざ止めて、小首を傾げながら尋ねて来る。その何気ない動作は、しかしラクツの精神を乱すには充分過ぎた。
(ああ、またか)
一定のリズムで繰り返し鳴っていた心臓の鼓動が、あからさまに速くなる。初めてこの感覚を味わった際は柄にもなく動揺したものだが、今となっては余裕を持って対応出来るようになっていた。対処法は簡単だ。精神を集中させて、気を落ち着かせればいいだけのことだ。時間にして10秒程かかるのが難点と言えば難点だが。
「あ!ラクツくん、また眉間に皺作ってる!」
「ああ。そうだな」
ファイツに指摘されるまでもない。自分が今どんな表情をしているかなんてラクツにだって分かっていた。ただ、それを口には出そうとは思わなかった。言えば、人が善いこの娘のことだ。絶対に要らない気を配るに決まっている。
「大丈夫?もしかして、具合でも悪いの?すごい皺だよ……?」
「…………」
前言撤回、言わずとも心配された。どこまでも人が善い彼女に、ラクツは思わず口角を上げた。勝手にこちらの身を案じているファイツの勘違いはこうしている間にも続いているらしい。終いには「もう帰ろう」と言って勢いよく立ち上がった彼女を、ラクツは苦笑しながら引き留めた。
「ファイツくん。ボクは別に、体調不良であると言ったわけではないんだが」
「え?そうなの?」
「ああ」
「……具合が悪いとか、何かに悩んでるわけじゃないんだよね?」
「ああ」
ラクツは素知らぬ顔で頷いた。無垢な彼女は自分の言葉を信じ込んだようで、すとんと椅子に腰かけた。今の言葉は紛れもない嘘なのだが、それはラクツの精神に何ら影響を与えなかった。必要とあらば、嘘をついても構わないと教えられて育った身だ。幼少期の頃から嘘をつくのには慣れている。
(慣れ、か……。もう、”これ”にも慣れてしまったな)
うるさい程に高鳴っていた心臓が落ち着いていくのを感じ取って、ラクツは彼女に気付かれないように嘆息した。この娘のふとした言動に時折精神を乱されることにも、何故か逸る心臓を宥めることにも。この1ヶ月で、そのどちらにもすっかり慣れてしまった。そもそもどうしてこんな事態に陥るのだろうという謎は、一向に深まるばかりなのだが。
(この娘がボクに何かをした素振りはないんだがな……。休暇中だから放置していたが、”これ”がいつまで続くか分からないのは厄介だ)
再びパフェを頬張り始めたファイツを見ながら、ラクツは1人思案した。原因不明の症状の所為で、任務に支障が出るのは何としても避けたい。これ以上この症状が続くようなら、病院を受診するのも手かもしれない……。そんなことを考えていると、ファイツが思い切り眉根を寄せた。
「本当に大丈夫?やっぱり、帰った方がいいんじゃ……」
「少し考え事をしていただけだ。ファイツくんは相変わらず、ボクの身をやたらと案じるんだな。キミこそ、ボクに負けず劣らずの深い皺を刻んでいるぞ」
「だって!あんなことがあったんだもん……。……やっぱり、心配だよ。また目の前で倒れたりなんてしないよね?」
「それについては問題ないと思うぞ。栄養も睡眠もきちんと取っているし、規則正しい生活を送っているからな」
これ以上引き延ばすと、彼女にまたしても誤解されそうだ。そう胸中で呟いたラクツは、ようやくとばかりにパンケーキに手をつけた。注文しておきながら放置していた所為でどうやら冷めてしまったらしく、立ち昇っていた湯気は完全に見えなくなっていたが、ラクツは構わずにパンケーキを口内に放り込む。
(……甘いな)
猫の顔の形をパンケーキを咀嚼して抱いた感想は、依然とまったく変わらないものだった。そう、兎にも角にも甘いのだ。パンケーキなのだから甘いのは当然と言えばそれまでなのだが、流石にこれは甘過ぎるのではないだろうか。ラクツは無意識に眉間に作った皺を、更に深くさせた。
「……食欲が満たされないのなら、追加で注文しても構わないぞ」
「ふえっ!?」
こちらに突き刺さる視線にしっかりと気付いていたラクツがパンケーキを食べる合間にそう言うと、ファイツは頓狂な声を発した後で慌てて首を横に振った。「違うの」としきりに繰り返す彼女の顔は、緋色に染まっている。パフェが入っていたグラスは、既に空になっていた。
「ち、違うんだよ!?そういう意味で見てたんじゃなくてね……!あの、だからね!め、珍しいなって思っただけだから!」
「珍しい?……ボクがパンケーキを食べていることがか?キミは相変わらず理解に苦しむ言動をする娘だな。ボクは昨晩、キミの作ったパンケーキを食べただろう」
「ううん、そういうことじゃなくて……。あのね、ラクツくんがあたしと違うメニューを頼むのって初めてでしょう?それでつい、ラクツくんに目線が行っちゃってたの。……本当だからね!パ、パンケーキを食べたくて見てたわけじゃないからね!?」
最後の部分を強調したファイツは、「あたしはパフェを食べられただけで幸せだもん」という言葉で会話を締め括った。にこにこと頬を緩ませているところからして、ファイツの言葉に嘘はないのだろう。それはさて置き、確かに珍しがるのも無理はないとラクツは思った。もし自分が彼女と再会した頃のままだったなら、そっくりそのまま同じメニューを注文していたに違いない。
「ラクツくん、訊いてもいい?」
「何だ?」
「今更だけど、どうしてこのお店に連れて来てくれたの?前に来たところだし、近かったから?」
「それもあるが、一番の目的はパンケーキだな。キミは昨晩、この店の物と瓜二つなパンケーキを焼いてくれただろう?舌が憶えているうちに、両者の味を比較してみようと思っただけのことだ。つまり、ボクの好奇心を満たしたかったからというのが問いの答だな。別の店の方が良かったか?」
「ううん、全然そんなことないよ!このお店のご飯、すっごく美味しいんだもん!……ねえ、ダケちゃん!……って、何してるの!?」
ダケちゃんは、ファイツに分けてもらったパフェが余程お気に召したようで、空になったグラスの内側にすっぽりとはまっていた。ファイツが慌てて救出したダケちゃんの身体は、当然のことながらアイスクリームでべたついてしまっている。満足そうに手に付着した汚れを舐め取っているダケちゃんをウエットティッシュで綺麗に拭きながら、ファイツは小言をぶつぶつと零した。
「……それで、どうだった?見た目はそっくりに出来たと思うんだけど、やっぱりお店のパンケーキの方が美味しい……。えっと、食べやすかった……のかな?」
綺麗にし終わったダケちゃんへの説教を終えたファイツが、顔をこちらに向けて話題を変えた。おずおずと尋ねて来た彼女に向けて、しっかりと首を横に振る。
「いや、そんなことはないぞ。キミが昨晩焼いてくれたパンケーキの方が、遥かに食べやすかった。この店のパンケーキは、どうにも甘味が強過ぎる」
「…………」
「ファイツくん……?……どうした?」
何故か固まってしまったファイツは、ポカンと口を開けてこちらを凝視していた。瞬きもせずに見つめられるというのは流石に気になる。ラクツが声をかけると、ファイツは震える声で「今何て言ったの?」と途切れ途切れに言葉を発した。
「だから。キミが焼いたパンケーキの方が遥かに食べやすいと。そう言ったんだが……」
リクエストに応えたラクツの言葉は、最後まで続かなかった。途中でファイツが席を立ったからだ。先程とは比べ物にならない程勢いよく立ち上がったことでグラスが倒れたが、その音すらもまるで耳に入っていない様子だ。突如としてぽろぽろと大粒の涙を零し始めた娘を、ラクツは呆気に取られて見つめていた。いったい今の言葉のどこに、彼女が泣く要素があったというのだろうか。
「うわああああん!ラクツくん、良かったね……!本当に、本当に良かったね……っ!」
店中の注目を集めていることにも構わずに、ファイツが身を乗り出して。そして、両手で自分のそれを包み込んで来る。彼女の手の温度を感じ取りながら、ラクツは内心で動揺していた。ファイツが急に泣き出したことに理解が及ばないというのもそうだが、何よりも手を握られたことに心を乱されたのだ。
「嫌いな味付けが分かって、本当に良かったね……!そっか、そっか……。ラクツくんは、甘い物がダメなんだね……っ。ふふ、あたしと反対だね……!」
何が良かったのかという疑問を口にする前に答を提示して来たファイツは、泣きながら笑っている。そんな彼女を、ラクツは放心状態で見つめていた。
「あたし、これからも頑張ってご飯を作るからね!だから今度は好きな味付けとか、好きな食べ物を一緒に探そうね!」
手をぎゅうっと握って来る娘の勢いに押されたラクツは、何も言わずに頷いた。落ち着いたはずの心臓は、痛いくらいに高鳴っていた。