その先の物語 : 029

真面目でずるい人
「ラクツくん……。ご馳走になっちゃって、本当にいいの?」

夜道を歩く道すがら、少し前を歩くラクツに向けて、ファイツはおずおずとそう尋ねた。問いを投げかけてからすぐに返って来た言葉は、「ああ」というラクツらしい簡潔なもので。ラクツくんらしいと微笑むより先に負い目の感情に襲われたファイツは、夜道をとぼとぼと歩いた。

(ラクツくんはああ言ってくれたけど……。やっぱり、悪いよね)

ここ最近は自炊ばかりしていたファイツにとって、店でご飯を食べるのは久し振りのことだった。実に1ヶ月振りではないだろうか。本来ならワクワクするところだけれど、手放しで喜ぶ気にはとてもなれなかった。それに、ラクツはわざわざ家まで迎えに来てくれたのだ。どうしてかと訊いたら、「異性を1人で夜に歩かせるなと長官に言われた」と真顔で告げられた。何でも、その教えを反故にしたことは一度としてないのだとか。おまけにドレッシングについても意見を述べた彼を、真面目な人だと思ったのはつい数分前のことだった。背筋を伸ばして歩く彼の背中を見て、ファイツはそっと目を伏せた。いくらラクツが構わないと言っても、奢ってもらうのは流石に悪い気がする……。

「……ラクツくん」
「どうした?」
「やっぱり、自分の分くらいは払うよ」

そう言うと、悠然と歩いていたラクツが進めていた足を止めた。何を言っているのかと言わんばかりに向けられた呆れ混じりの目線が、心にぐさりと突き刺さる。

「何故そうなる。そもそもキミを誘ったのはボクの方だろう」
「そ、それはそうなんだけど……!」

盛大な溜息をつかれても、ファイツは怯まなかった。わざわざ指摘されるまでもない。「夕食を共に食べないか」と誘われたことは、脳裏にしっかりと焼き付いていた。今朝早くの出来事を思い返して、だけどファイツはふるふると首を横に振った。ラクツの言ったことは正論だと分かってはいるけれど、それとこれとは別の問題なのだ。

「では、何故そこまで固辞するんだ?」
「だって!何だかラクツくんに申し訳なくて……!それに、毎日ご飯を作るって約束したし……!」
「……ファイツくんは相変わらず、妙なところで頑固だな。日頃から世話になっている礼と言っても、その様子だと聞き入れてもらえそうになさそうだな」
「…………」

ファイツはそっと目を伏せた。ラクツのことは嫌いじゃないし、もう怖いとも思ってはいないのに。それは確かだというのに、どうしてこんな気持ちになるんだろう。どうして、彼の申し出を素直に受け入れられないのだろう。自分でも不思議に思いながら、ファイツはこくんと頷いた。

「ラクツくんはお世話になってるって言ってくれたけど、それはあたしだって同じだもん……」

ファイツは負けじと言い返した。お世辞で言ったのではなくて、本当にそう思っていた。

「耳を疑う発言だな。ボクがいつ、キミの世話をしたというんだ?」
「け、結果的にって意味だよ!ラクツくんのおかげで、あたしは規則正しい生活が送れてるんだもん!ラクツくんに再会してなかったら、絶対夜更かししてたと思うし……!そ、それに!料理だって、ラクツくんがいたから毎日するようになったし……。た、楽しいって思えるようになったんだもん!!」

わたわたと腕を動かしながら、思いつく限りの言葉を半ば必死になって並べ立てる。口に出してしまってから、自分が思った以上に大声を出していたことに気付いて、ファイツは両手で口を覆った。そこまで多くないとはいえ、民家が近くに建っていることに変わりはない。これでは立派な近所迷惑だ。

「…………」
「その、まだ全然上手くないけど……」

瞬く間に居心地の悪さを感じたファイツは、つい今さっきまでの勢いはどこへやらで、ぽつりと言葉を付け加えた。しばらくの間、ラクツは瞬きもせずこちらを見つめていたが、大きく嘆息した後でおもむろに口角を上げた。

(うう……。またやっちゃった……)

ゆっくりとした一連の所作を身を固くさせながら見ていたファイツは、声に出さずにそう呟いた。今、自分はラクツに笑われたのだ。ラクツが笑うこと自体は喜ばしいけれど、これは流石に決まりが悪かった。

「……あの……。今、笑ったよね?」
「ああ。……そうだな」
「そ、そうだよね……。あたしったら失敗してばっかりなのに、毎日料理してるだなんて偉そうに言っちゃったもんね……」
「そういう意味で笑ったわけではないんだがな。相変わらず、ファイツくんは人が善いと思っただけだ」
「そう……かなあ?」

ファイツは小首を傾げた。人が善いと彼に言われるのはこれが初めてではなかったし、ホワイトにだって結構な頻度でそう言われているわけなのだけれど、ファイツ自身はどうも腑に落ちないのだ。

「何故そこで首を傾げるんだ?それに以前にも告げたが、自分を卑下する必要などないと思うが。客観的に見ても、キミの料理の腕は平均以上だ。むしろ高い方だろう」
「そうかなあ……。あたしには、そう思えないんだけどな。よく作るパンケーキだって時々失敗するくらいだし、他の料理だって……」
「では、飲食店に勉強しに行こうか。店で提供されている料理を口にすれば、上達の近道になるかもしれないぞ」
「うん!……あれ?」

大きく頷いた後で、ファイツははっと我に返った。ぐぐっと眉根を寄せて、目の前の彼をじっと見つめる。ラクツが勝ち誇ったような顔をしているように見えるのは、果たして目の錯覚なのだろうか……。

「ラクツくん。……あたしのこと、乗せた……?」
「もう遅い。言質は取ったぞ」
「…………」

再び口角を上げたラクツは、はっきりと忍び笑いを漏らしていた。彼が笑うのはファイツとしても嬉しい。だけど彼の口車に乗せられたのだと分かった今は、ラクツを祝福する気にはとてもなれなくて。恨めしさからラクツをまじまじと見つめたものの、彼に口で勝てるはずもないことはファイツ自身が一番知っていた。こんなことなら最初から無理にでも頷いておけば良かった。そう思ったファイツは、足元に転がっていた小石を軽く蹴飛ばした。それだけでも、何だか気分が晴れたような気がした。

(ラクツくんって、すっごく真面目な人だけど……。やっぱり、ちょっとずるいかも……!)

ラクツという人は、すごく真面目で。そして、ちょっとだけずるい人だ。再会したばかりの頃は”よく分からない人”だと思っていた彼が「行こう」と言って、再び夜道を歩き出す。そんなラクツのことを、もっと知りたい。そう思いながら、ファイツは慌てて彼の後を追いかけた。