その先の物語 : 028

また、明日
”デザートを用意するから待っててね”。そう言ってキッチンに引っ込んだファイツが再び姿を現したのは、食事を終えた数分後のことだった。弾むような足取りでこちらに歩いて来るファイツは、にこにこと満面の笑みを浮かべている。ともすればそのままスキップでも始めそうだ。

「お待ち遠さま!今日のデザートはパンケーキだよ!……はい、ラクツくん!」
「ああ。ありがとう」

ラクツは極自然に礼を述べて、眼前に差し出された皿を受け取ろうと左手を伸ばした。指が皿に触れる直前に動作を止めたのは、何かがこちらに割って入る気配を察知したからだ。振り向けば、ファイツ専属の小さなボディーガードが幾度も飛び跳ねていた。

「…………」
「…………」

目を丸くしたファイツと一緒に、その存在を精一杯主張しているダケちゃんを見つめる。つい今しがたまで、ダケちゃんは確かにリビングの中央に置かれたソファーに寝そべっていたはずだった。それが今はリビングの入口近くまで移動しているわけで、ラクツはダケちゃんの俊敏な動きに感心せざるを得なかった。

(……速いな)

元々素早い方ではあったが、今の動きは予想以上に速かった。あの速度で何かしらの”わざ”を放たれたら流石に厄介だ。ラクツは一瞬だけ警戒したが、飛び跳ね続けているダケちゃんを見て即座に考えを改めた。ダケちゃんの視線は、自分ではなくファイツが焼いたパンケーキに一直線に注がれている。ダケちゃんはただ単純に、パンケーキ目当てで持ち前の素早さを最大限に発揮したらしい。

「ああもう、何で邪魔するの!ダケちゃんの分もちゃんと用意してあるってば!」

沈黙からようやく立ち直ったファイツが、眉を吊り上げてダケちゃんを説教した。「危ないでしょ」とか、「もう少しで落とすところだった」だとか、「ラクツくんが怪我したらどうするの」だとか。様々な言葉を並べ立ててダケちゃんに説教する彼女を眺めていたラクツは、思わず苦笑いを浮かべた。こんな時でも彼女はこちらの身を案じている。相変わらずの人の善さだ。どうやら彼女は説教にばかり気を取られて気付いていないようだけれど、ダケちゃんはすっかり萎縮してしまっている。

「ファイツくん。説教はそれくらいにして、パンケーキをダケちゃんとフタチマルに渡してやってくれないか」
「で、でも……」
「フタチマルもキミのパンケーキを待ちわびているようだ。ボクは一番最後で構わない」
「うん……。ラクツくんがそれでいいなら……。ダケちゃん、もうあんなことしちゃダメだからね!」

小さく切り分けられたパンケーキを渡されるや否や、ダケちゃんは身体の向きを反転させてソファーに突進していった。誰にも邪魔されずにゆっくりと食べるつもりなのだろう。すれ違いざまに突き刺すような視線を向けられたところからすると、ダケちゃんはどうやら彼女の言い付けを守る気はないらしい。しかし、ラクツはその確信を口に出そうとは思わなかった。また同様の事象が起こったとしてもこちらが回避すればいいだけのことだ。わざわざ声に出して、矛を収めたファイツを再度刺激する必要はないだろう。

「はい、フタチマルくん」

フタチマルがパンケーキを待ちわびていると言ったのは、別にこの場を収める為についた方便ではなかった。パンケーキを渡された瞬間に明らかに嬉しそうな顔をした彼を、ラクツは黙って眺めていた。

「……はい、ラクツくんの分だよ。待たせちゃってごめんね」
「ボクが言い出したことだ。キミが謝る必要はない」
「うん……。これ、良かったら使ってね」
「ああ」

ようやくファイツの手からデザートと、そしてナイフとフォークを受け取ったラクツは、厚みがあるパンケーキに目を留めた。ゆらゆらとわずかに湯気が立ち上っているパンケーキは、以前どこかで見たような形をしている。

(猫型のパンケーキか……。わざわざ型を買ったのだろうか。いつものことだが、この娘は料理に対して色々と趣向を凝らすものだな)

視界に映るパンケーキの見た目は、ファイツがお気に入りだと言っていた店で食べたそれとよく似ていた。いや、よく似ているどころか以前食べたパンケーキそのものではないだろうか。記憶の照合を終えたラクツは、パンケーキを切り分けて口に運んだ。その途端にほのかな甘さが広がる。

(見た目はあのパンケーキそのものだが、味は違うな。店で食べた物の方が遥かに甘かったような気がするんだが……)

パンケーキを咀嚼していたラクツは、突き刺さる視線を感じて顔を上げた。すると、蒼い瞳を三日月形に細めたファイツと目が合う。彼女のパンケーキは手つかずのままだった。

「どうした?」

ファイツがよく笑う娘であるということはよく知っている。しかし、ここまで満面の笑みを浮かべられるというのは流石に気になる。色々な意味で気になって仕方がなかったラクツは、首を傾げながら尋ねた。

「何かいいことでもあったのか?」
「うん!」

間髪入れずに返って来たのは肯定の言葉だった。力いっぱい頷いたファイツは、るんるんと鼻歌なんて口ずさんでいる。

「もうね、すっごくいいことがあったんだよ!……ね、何だと思う?」

当ててみてと言われたラクツは、ファイツに目を留めた。唐突にクイズを出して来た娘を改めて観察してみたが、何故だか満面の笑みを浮かべていること以外は普段と何ら変わりがなかった。正直言ってこれだけでは判断材料が少ないような気もしたが、ラクツは思考を続けた。これでも警察官なのだ、観察眼と洞察力は人並み以上であると自負している。挑戦状を叩き付けられた以上、簡単に降参するわけにはいかない。

「いいこと、か。そうだな……」

推理の材料が少ない時は、あれこれ推論するよりシンプルに考えるのが一番だ。長年警察官として活動して来た経験が、そうするべきだと言っていた。ラクツはもう一度、今度は更に注意深くファイツを見つめてみた。

「…………」

見覚えのある薄い青色のワンピースをまとった彼女は、視線をある一点に向けたまま微笑むだけだった。目は口程に物を言うという格言をまさに体現している娘を、本当に素直な娘だと評して無意識に目を細める。これ程までに見つめているのだから、きっと視線の先に答があるのだろう。ファイツが一心に見つめているのは他でもないラクツ自身だと気付いていたが、特に心当たりが思い浮かばなかったラクツは別の結論を出した。

「パンケーキが上手く焼けたからか?」
「あれ?……う~ん、確かにそれもいいことなんだけど……」
「……誤答だったか。では、猫型のパンケーキが作れたことだろうか」
「えっと……。そうじゃなくて……」
「…………そうか。では、単にキミ自身が今からパンケーキを食べるから、か?」
「違うよ!……えっと、違わないけど!もっと別のことだよ!」
「違うのか?」
「違うよ!!」

ファイツはこちらの答が不服だったらしく、両手の拳をぐっと握り締めた。挙句の果てには「あたしをからかってるんでしょう」などと言い出した彼女に、思わず眉をひそめる。ラクツとしては至極真面目に思案した上で答を出したのに。

「心外だな。ボクは別にキミをからかってなどいないぞ。ファイツくんがパンケーキを気に入っているのは事実だろう」
「それはそうなんだけど……!もうっ!ラクツくんてば、何でそんなにパンケーキにこだわるの!」
「しかし、キミはパンケーキを見つめていただろう」
「パンケーキじゃなくて、あたしはラクツくんを見てたの!ラクツくんが食べ物をちゃんと味わうようになったのが、あたしには嬉しかったの!!」
「ああ……。なるほどな」

ファイツの解答は思っていたようなものではなかったが、ラクツはなるほどと納得した。確かに彼女の言う通りだった。ファイツの手料理を食べるようになって、ラクツは食事を味わうことを覚えたのだ。当初こそ彼女の手料理に対しての猜疑心を捨て切れずにいたものの、その警戒心は今となっては完全に消え失せていた。

「ラクツくん、反応が薄いよ」
「そうか?」
「そうだよ。もっとこう、大袈裟に驚くかと思ったのに!」

とうとう頬を膨らませたファイツは、ぶつぶつと文句を言った。そんな彼女の態度に、ラクツは本日何度目になるか分からない苦笑を浮かべた。そんなことを言われても、こちらとしては困るわけで。

「そう言われてもな……」
「今だから言うけど、あたしはすっごく驚いたんだからね!ラクツくんがちゃんと味わってくれてるって気付いた時は、もうびっくりしたんだから!」
「すごく驚いた、か。ファイツくんでもあるまいし、ボクが大袈裟に驚くことはあまりないような気もするが」
「あ、酷い!」

ファイツは酷いよと繰り返し呟くと、右手に持ったフォークをパンケーキに深く突き刺した。口では酷いと言いつつも、本気で怒っているわけでもないのだろう。パンケーキを食べた瞬間に彼女の頬が緩んだのがその証拠だ。いつものことだけれど、表情を瞬く間に変える娘だ。そんなことを思いながらラクツはパンケーキを口に含んだ。ふわふわとした食感のパンケーキはやはりほのかに甘かった。

「……でも、ラクツくんって本当に変わったよね」

あっという間にパンケーキを食べ終えたファイツが、頬杖をついてそう言った。その声は取り立てて大きいものではなかったはずだが、やけに鼓膜を響かせたような気がするのは何故なのだろう。

「ボクが変わった、か……。まあ、キミのおかげで食に興味を持つようになったのは確かだな。料理を味わうなど、以前のボクでは絶対にしなかった行為だ」
「うん。もちろんそれもなんだけど……。ラクツくん、よく笑うようになったじゃない」

はっきりとそう言い切った彼女を、ラクツはじっと見つめた。先程告げられたばかりの彼女の言葉が脳内に反響する。

「ボクが、よく笑うようになった……?」

半信半疑で問いかけたら、ファイツが大きく頷いた。迷いなど微塵も感じさせない頷きだった。

「そうだよ。パンケーキを食べてた時だって、ラクツくんは笑ってたんだよ。すごく穏やかな顔してたもん」
「……にわかには信じ難いな。キミの方こそ、ボクをからかっているのではないか?」

彼女がこのような嘘を言う娘でないことは重々承知していた。しかし、ラクツはこう尋ねずにはいられなかった。自分が穏やかな顔をして笑うなんて、とても信じられなかったのだ。

「からかってなんかないよ。ラクツくんは、本当によく笑うようになったんだよ。前はいつも眉間に皺を作ってたのに、今はあんまりしなくなったじゃない」
「そうなのか?」
「そうなの!……もうね、すっごく深い皺だったんだから!」

ファイツは「前はこんな感じだったよ」と言って、思い切り眉間に寄せた。どう解釈しても、こちらを睨みつけているとしか思えない表情だ。

「……随分と深いな」
「でしょう?」
「ボクとしては釈然としないが、キミがそう言うなら事実なのだろうな」
「”なんだろう”じゃなくて、事実だもん」

ここまではっきりと断言するのだから、きっとファイツに告げられたことは事実なのだろう。考えてみれば、危険を伴う任務から今は遠ざかっている身なのだ。それに、食物を味わうようになったという自覚済みの変化もある。ファイツの手料理を口にするようになって生活が一変した以上、多少なりとも心境に変化があってもおかしくはない。その心境の変化が表情に現れただけだ。そう結論付けたラクツは、パンケーキの最後の一切れを胃の中に収めた。

「……ラクツくん、良かったらまた焼こうか?」
「いや、これで充分だ。それでは食事を終えたことだし、ボクはそろそろ失礼するとしよう。フタチマル、帰るぞ」

声をかけると、とうの昔にパンケーキを食べ終えていたフタチマルが頷いた。玄関に向かう自分の後を、ファイツが慌てて追いかけて来る。毎度のことだが、人が善いこの娘はわざわざこちらを見送りに来てくれるのだ。

「ご馳走様、ファイツくん」
「うん!また明日ね、ラクツくん!」
「ああ。また明日」

”また、明日”。お人好しの彼女と最早お決まりになったやり取りを交わして、ラクツはファイツの家を後にした。夜道をフタチマルと共に数分歩いた後で、ラクツは自分がドレッシングのことを答えていなかったことを思い出した。

(まあ、伝えるのは別に明日でもいいか)

どの道、自分は明日も彼女の手料理を食べるのだ。ドレッシングのことを伝えるのは明日でもいいだろう。ファイツを思い浮かべた結果として、自分でも気付かないうちに微笑んでいたラクツの頭上には、満点の星が燦然と輝いていた。