その先の物語 : 025

prism
楽しい時間というものは、瞬く間に過ぎるものだ。その事実を改めて思い知ったファイツは、はあっと溜息をついた。決して不安や怯えから来るものではなかった。言うまでもなくそれは、満足感から来る溜息だった。

(うう……。今日はすっごく楽しかったなあ……)

夕陽に照らされて長く伸びる影を踏み締めながら、ゆっくりと歩く。始まりこそ最悪の気分だったけれど、終わってみれば楽しい1日だった。本当に、本当に楽しかった。もちろんピクニックも楽しかったけれど、何よりも可愛さが詰まったあの店で過ごした時間は特に素晴らしいものだった。レンガの家という名前の店で売られていた商品の数々を思い浮かべるだけで、自然と頬が緩んで来る。家からかなりの距離があるわけだけれど、長時間歩くだけの価値はあると思う。絶対に絶対にまた行かなきゃと、ファイツは心に固く誓った。

(今度はホワイトさんと一緒に来るのもいいかも……。あの可愛いスカートとか、ホワイトさんに絶対似合いそうだし……!)

おしゃれで情報通なあの先輩のことだから、もしかしたら既にあの店の存在を知っているかもしれないけれど。だけどもしもそうでなかったとしたら、きっと喜ばれるに違いない。何となくだけどそんな気がしてならなくて、ファイツはまた微笑んだ。スポーティな服装をしていることが多いホワイトだが、きっと可愛いデザインの服だってとびきり似合うと思うのだ。今日は駆け足気味だったけれど、次はもっとじっくり見て回ろう。もしもホワイトと一緒に見て回ったとしたら、絶対に楽しい時間が過ごせるに違いない。

(それもこれも、全部ラクツくんのおかげなんだよね……)

彼がここまで連れて来てくれたおかげで、ファイツは運命の出会いを果たしたのだ。それに、ものすごく楽しい時間を過ごせた。ここはやっぱり、改めてそのお礼を言うべきではないだろうか。そんなことを考えていたファイツは我に返った。気が付けば、少し前を歩いていたラクツが完全に足を止めていたのだ。ラクツだけならまだしも、彼だけでなくフタチマルにまでまじまじと見つめられている。

「ラクツくん」

誰かにじっと見つめられるのは、正直言ってやっぱり苦手だった。だけど、彼にきちんとお礼が言いたいと思ったファイツは最早止まりかけていた歩みをぴたりと止めた。声に反応して顔をわずかに動かした彼の瞳を見つめて、大きく息を吸う。

「今日は本当にありがとうね、ラクツくん」

にっこりと笑って、しっかりと頭を下げる。すると、ラクツは深く息を吐き出した。何を言っているのかと言わんばかりの盛大な溜息だったが、ファイツはそれでも笑顔で彼の顔を見つめていた。

「キミからの礼なら既に受け取っただろう。直近の30分だけでも5回は言われているぞ」
「うん。でも、ラクツくんにお礼を言いたいなって思って。だって、あたしの為に時間もお金も使ってくれたでしょう?」

事前に言っていたとはいえ、事実として彼は1時間以上もあの店にいたことになる。それだけならまだしも、お金まで出させてしまったのだから、これはもうお礼をいくら言っても言い足りないだろう。ファイツが思ったことをそのまま告げると、ラクツの眉間の皺はますます深くなった。

「キミはいちいち大袈裟だな。そもそも弁償すると言い出したのはボクの方だし、時間と金を使うと決めたのもボクの意思だ」
「それも分かってるけど……。それでも、あたしはすっごく嬉しかったから……」
「そうか?」
「そうだよ!」

ファイツはそう言い切って、店の名前が書かれた紙袋の持ち手を強く握った。紙袋の中に入っているのは、強烈に惹き付けられたあの可愛いワンピースだった。欲しくて欲しくて堪らなくて、だけどお金が足りなくて。だから一度は泣く泣く諦めようとしたあの青色のワンピースは、自分の代わりにお金を出してくれたラクツのおかげで手元にあるわけで。その事実を思うと、やっぱり顔が綻んだ。

「それはそうと、本当にその服だけで良かったのか?ボクは別に、両方買っても構わなかったんだが」
「そんな!!両方だなんて、いくら何でもラクツくんに悪いよ!このワンピースだけで、あたしには充分過ぎるくらいだもん……っ」

思い出されるのは、今から1時間くらい前のことだ。棚の前で肩を落としていた理由をラクツに尋ねられたファイツは、「欲しかった服があるんだけどお金が足りなくて」と正直に打ち明けた。「すぐ戻る」と言い残したラクツが再び自分の目の前に現れた時には、恥ずかしさと後悔でいっぱいだったはずのファイツの胸中は驚愕に染まっていた。ラクツの片手には、一度は諦めたあのワンピースがしっかりと握られていたからだ。「この服か」と問いかけられたファイツが思わずこくんと頷いた時には、既にラクツは背を向けていて。彼がレジに向かうのだと察して、慌てて呼び止めたことは記憶に新しい。

「ラクツくんこそ、本当に良かったの?買ってもらったあたしが言うのもなんだけど、ヘアピンよりずっと高かったのに……」

何秒かの押し問答の末にヘアピンの代わりに買ってもらうということでどうにかその場は収まったけれど、おかげでラクツには余計なお金を使わせてしまった。それに、ものすごく注目を浴びてしまった気がする。欲しかった服が手に入ったこと自体は文句なしに嬉しかったのだけれど、その事実を思うとちくりと胸が痛んだ。

「承知の上だ。それに、ボクにとっては大した出費ではない」
「ラクツくんてば、札束を放り投げてたもんね……。店員さんも周りの人も、すごくびっくりしてたよ。危ないから、もう止めた方がいいと思うけど……」

大した出費ではないなどと人によっては間違いなく嫌味に聞こえる言葉をさらりと口にしたラクツに、ファイツは苦笑した。本当に彼にとっては言葉通り大した出費ではないのだろうし、きっと鞄から札束を取り出すことだって日常茶飯事なのだろう。ラクツは落ち着いていたけれど、周囲はそうもいかなかった。事実、レジを担当していた店員はラクツに促されるまで完全に職務を放棄していた。それに周りにいた女の子達は、誰も彼もが目を爛々と輝かせていたではないか。

「……あの。……ラクツくん」
「何だ?」
「その……。本当に、良かったの?」
「愚問だな。承知の上だ、と言っただろう」
「あ、そうじゃなくて……。……その、たくさん誘われてたでしょう?……えっと、デートに」
「ああ、そちらの件か」

デート、と口にするのは何となく居たたまれなくて。思わずしどろもどろになった自分とは対照的に、ラクツの態度は実に平静そのものだった。

「しかし、あれはどう考えてもボク自身というよりボクの金銭目当てだろう」
「やっぱり、そうなのかなあ……」
「欲に囚われた人間は目を見ずとも分かる。札束を前にして目の色を変えなかったのは、キミくらいのものだ」
「だって、札束なんてあたしには身近な物じゃないんだもん……。……それに、あたしだけじゃないよ。ラクツくんに声をかけて来た子だって、態度が変わらなかったんじゃないかな」

ファイツは根拠もなくそう言い切った。顔を赤く染めながらラクツに声をかけた子の顔を思い浮かべる。あの子だけは、ラクツに対して本気の気持ちを向けていたように思えてならなかった。

「さあ、どうだろうな。何にせよ、ボクにはもう関係のないことだ」
「……何か、意外かも」
「意外?」
「だって……。ラクツくんって、女の子のそういう誘いは断らなさそうなイメージなんだもん。2年前は、むしろ断ることの方が少なかったくらいなのに……」

ファイツは、ラクツが彼女の誘いを断ることはないとばかり思っていた。だからラクツが断ったと知った時、それはそれは驚いたものだ。そう告げると、ラクツははっきりと眉をひそめた。

「それは任務上、異性と積極的に関わる必要性があったからそうしていただけのことだ。彼女とは連絡先すら交換していない。何よりあの店には代わりの装飾品を購入する目的で来ていただけで、仮に別の目的で来ていたとしても断っていた。単純に、興味も必要性も感じないだけだ」
「……そうなんだ……」

ラクツのことはほんのちょっとだけ知っていると思っていたけれど、それは大きな思い違いだったらしい。女の子達に囲まれていたラクツがあの頃の彼と重なったけれど、ファイツは首をふるふると振って脳内の光景を打ち消した。

「それより、ファイツくんに渡す物があるんだが」
「な、何?」

呆れていたかと思えばいつの間にやら真面目な顔付きになったラクツが、小さな紙袋を目の前に差し出して来る。それを見たファイツは、反射的に顔を背けた。そして同時に、思い切り首を横に振る。

「キミへの贈り物だ」
「う、受け取れないよ!」
「……何故だ?」
「だ、だって……!ラクツくんには服を買ってもらったし……!!これ以上お金を使わせちゃうなんて、ラクツくんに申し訳ないよ!」
「フタチマル共々、ボクはこれからファイツくんに世話になる身だ。その謝意を込めて贈るだけで、他意はない」
「で、でも……!!」
「それとも”そういう関係”じゃなければ、キミは謝意すら受け取ってくれないのか?」
「…………」

申し訳なさから彼を拒絶していたファイツは、どこかで聞いたような言葉を耳にしてはっと我に返った。そろりとラクツを見ると、彼は眉根をわずかに寄せていた。本当に、本当に困っている顔だ。あの時の彼と今の彼がまるで違う表情をしていることに気付いて、ファイツは「ごめんね」と謝った。自分としては申し訳なさから受け取れないと言ったのだけれど、却ってラクツを困らせてしまったらしい。

「……これ、開けてみてもいい?」

ごめんねと謝った後で、ラクツに誤解を与えてしまったことに遅れて気が付いたファイツは慌てて言葉を付け足した。差し出されたそれをようやく受け取って、紙袋を丁寧に破る。そっと傾けると、手の平に綺麗な蒼色が転がり落ちた。チェーンが付けられた小さな石が、夕陽に照らされてプリズムのようにきらきらと光っている……。

「ありがとう、ラクツくん……。このペンダント、大事にするから……っ!」

胸の前でペンダントを抱き締めたファイツは、震え声でそう言った。何故だか、思い切り泣きたかった。だけど、同時に思い切り笑いたいとも思った。相反する2つの感情に苛まれながら、ファイツはラクツに向かって何度も「ありがとう」と言った。