その先の物語 : 022

あまいかおり
草原に腰を下ろしたラクツは、穏やかな陽気とは裏腹に昼食後の時間を実に落ち着かない気分で過ごしていた。見た限りでは雨の兆候は見受けられない空からは、日差しがふんだんに降り注いでいる。世間一般的に言えば過ごしやすい午後のひと時なのだろうが、ラクツにとってはそうではなかった。数分おきに周囲の気配を探ること以外に、するべきことがまるで思いつかないのだ。

(することがないというのは実に厄介なものだ。普通の任務に従事していた方が、遥かにマシだったな)

犯罪者を捉えるべく各地を奔走していたあの日々が遠い昔の出来事のように思えて来て、ラクツは深く息を吐き出した。休養を取るようにと長官に命じられている以上は全力でその任務を遂行する所存だが、それでも膨大な時間を無駄にしているような気がするのはどうしても否めない。することがないから、自分をこの草原に連れて来た娘に自然と目線が向いた。先程はダケちゃんと戯れていたファイツは、シートの上に座って何かに没頭している様子だった。そんな彼女に相棒が遠慮がちに視線を送っていることに気付いて、思わず苦笑する。

「フタチマル。それ程気になるなら、彼女の元に行ったらどうだ」

ちなみにダケちゃんはというと、色とりどりの花々に囲まれた状態で横になっていた。やはり水ポケモンが水辺を好むように、草タイプのダケちゃんも草花に惹かれるものがあるのだろう。

「ダケちゃんは……。ああ、どうやら眠っているらしいな。フタチマル、ファイツくんの元に行くなら今が好機だぞ」

ファイツがご丁寧にも正座までしていったい何に没頭しているのか、欠片も気にならないと言えばそれは嘘になる。しかし、それが理由でわざわざあの娘の元に行く気には流石になれなかった。ラクツはこの場で静観することに決めたが、フタチマルはどうやら好奇心の方が上回ったらしい。それでもこちらを気遣っているのか動かない相棒に対して再度促すと、フタチマルはゆっくりと立ち上がった。十中八九、彼はこのままあの娘の元へ向かうに違いない。しかしラクツの予想は、思いも寄らない形で的中することとなった。

「……フタチマル?」

いったい何を思ったのか、フタチマルはこちらの手を引いてファイツの元へ向かったのだ。流石にこの行動は予想外だったラクツは相棒に呼びかけたが、彼はこちらを振り返りもしなかった。周囲は静かな上にこの至近距離だ。絶対に呼びかけは聞こえているはずなのに、それでもフタチマルの態度は変わることはなかった。彼は、何かの意図があって故意に自分を無視しているのだ。フタチマルが”おや”である自分を無視するなんて、あの娘の部屋で気を失っていた時以来だろうか。記憶を遡ったものの、その途中で目的地にたどり着いたラクツは意識を切り替えた。今は過去を振り返っている場合ではない。彼1人で何ら問題なく来れるのにも関わらず、どうしてフタチマルがわざわざ自分を連れて来たのだろうか。この謎を解明することの方が、ラクツにとっては遥かに重要なことだった。

(それにしても、この娘には驚かされるな。ここまで距離を詰めても、ボクとフタチマルの存在に気付かないとは……)

この娘と再会した日の翌朝もそうだった。彼女はこちらが超至近距離にいるというのに、声をかけるまで自分の存在に気付かずに料理をしていたのだ。その鈍感さに呆れるべきか、はたまたその集中力に感心するべきか。ラクツが呆れ半分、感心半分で黙々と作業に没頭しているファイツを無言で見下ろしていると、じっと彼女を見つめていたフタチマルがまたしてもこちらの手を引いた。今度のそれは、何かを催促するような動きだった。この娘に話しかけろということか、と内心で呟いたラクツは嘆息した。ファイツに話しかけるのは構わないが、相棒が何を考えているのかがまるで分からない。そもそも、彼女に用があるのはフタチマルの方ではなかっただろうか。それなのに、彼はファイツに触れるでもなく彼女から少し距離を取った場所で佇んでいるのだ。ラクツの疑念はますます強まった。

(……いったいどうしたというのだろうか)

これが他のポケモンならまだいい。だが、フタチマルの意図がさっぱり掴めないのは困る。下手をすると、今後の任務に支障が生じるかもしれない。一警察官として、これは看過出来ない問題だ。そんなことを考えていると、フタチマルがくいくいと急かすように手を引いた。粘り強い彼にしては珍しいことだった。

「ファイツくん」

ラクツが溜息混じりに呼びかけると、俯いた状態で作業に没頭していたファイツが弾かれたように顔を上げた。悲鳴こそ上げなかったものの、傍目から見てもかなりの勢いだった。瞳を大きく見開いたファイツと目線が合って、けれどラクツは言葉に詰まった。何しろ自分を半ば強引に連れて来たのはフタチマルなのだ。彼の手を振り解かなかったのはラクツの意思であることに疑いの余地はないが、ラクツ自らが望んでここに来たわけでもないのだ。

「…………」

何を言えばいいのかが分からなかったラクツが沈黙を保っていると、不意に小さな音がした。その瞬間に編み込まれていたファイツの髪の毛が音もなく解けて、艶やかな彼女の髪から香る甘い匂いが鼻孔をくすぐった。

「あ!」

手の中にあった物体を落としてあたふたと慌て始めたファイツを、ラクツはじっと見つめていた。彼女が普段とは違う髪型をしていたことには当然気付いていたが、だけどどういうわけか今初めて気付いたような気になるのは何故なのだろう。それに、とラクツは思った。この娘を遠くから眺めていた時は異変はなかったのに、今この瞬間に心臓がうるさく高鳴っているのはいったい何故なのだろう……。

「あ、あの……!は、恥ずかしいからあんまり見ないで……っ!」

言葉通り、それはそれは恥ずかしそうに顔を赤く染め上げたファイツが、両手で乱れた髪の毛を押さえながら弱々しく訴えた。あまりに切実に頼んで来る彼女に根負けして、ラクツは目線を下に落とした。ファイツが今の今まで作っていたであろう作りかけの花冠の近くに、髪留めが落ちているのが視界に入る。ヘアピンという名のそれは、地面に落ちた所為か髪を押さえる部分がものの見事に折れていた。誰がどう見てもこれは使い物にならない程の完璧な折れ具合だ。

「うう……。やっちゃった……」

予備を用意していたのか、目線を外している間に髪を編み込んでいたファイツが溜息混じりにそう呟いた。「お気に入りだったのに」と零したファイツの眉根は、これ以上ないくらいに下がり切ってしまっている。大袈裟な程にがっくりと肩を落としたところからして、このヘアピンはこの娘にとってとても大切な物なのだろう。その感情はやはり理解出来なかったが、だけど彼女が今落ち込んでいることはラクツにだって理解出来た。そんな彼女に向けて、ラクツは手を伸ばしかけて……。

「……ダケちゃんか」
「ダ、ダケちゃんっ!?」

猛スピードで何者かがこちらに近付いて来る気配を察したラクツは、ファイツに触れる直前で手を止めた。そう、自分とファイツの間に割って入ったのはダケちゃんだった。彼女の小さなボディーガードは、言うまでもなく不機嫌そのものだ。いや、ダケちゃんが自分といる時に不機嫌なのは今に始まったことではないのだが。

「ダ、ダケちゃんってば!」

間もなく折れたヘアピンに気付いたらしく、ダケちゃんの不機嫌度は更に加速していった。その事実を察してファイツがダケちゃんの小さな身体を両手で抑え込んだが、それでもダケちゃんの興奮は冷めやらぬ状態だった。多分、後少しの刺激で自分達は攻撃されるのではないだろうか。

「ダケちゃん。これは別に……」

”ボクの責任ではないぞ”と言いかけて、ラクツは発しかけた言葉を口内で留めた。よくよく考えれば、ファイツのヘアピンが落ちたのは彼女が驚いたからだ。そして彼女が驚いた要因の1つは、自分が話しかけたことにあるのだ。

「……いや、ボクの責任になるのだろうか?」
「ラ、ラクツくん!?そんな、ラクツくんは何も悪くないよ!あたしが大袈裟に驚いたからだし……!」
「そうだとしても、多少なりとも責任の一端はボクにもあると考えていいだろう。それでは弁償するとしようか。ファイツくん、いくらだ?」
「え!?そんな、いいよ!!だってこれ、すっごく古いヘアピンだし!……そ、それにすっごく安かったし、わざわざ弁償しなくたって……!」

取ってつけたように後半部分を付け加えて、必死にこちらを説得して来るファイツを目の当たりにしたラクツの心には、形容しがたい何かが急激に広がった。それは、まだ自分には分からない”何か”でしかなくて。ラクツは内心では首を傾げつつも静かに問いかけた。

「どうしても、金品を受け取る気にはなれないか?」
「弁償なんていいよ!だって、本当に安かったんだし……!」
「ならば、代わりの装飾品を用意しようか」
「え?」
「これでも、2年前は毎日女子生徒と密接に関わっていたからな。故に、女性に人気がある店は把握している」
「で、でも!」
「でも?」
「ラクツくんに悪いし、あたしだってそんなこと言われても……。こ、困るよ……っ!」
「……それはボクも同じだ。キミがボクの提案に頷いてくれないと、ボクだって困る」
「……っ」

勝った、とラクツは思った。お人好しで、基本的には押しに弱い彼女のことだ。こう言ってしまえば、まず間違いなくこちらの要求を飲むことだろう。

「…………」
「……ファイツくん」

名を呼ぶと、ファイツは声にならない声を上げた。あともう少しだ、という自分の見立ては今度は違えることはなかった。長い沈黙の後で観念したようにこくんと頷いた彼女を、ラクツは黙って見つめていた。