その先の物語 : 018
大切な何か
「ファイツくん、そろそろ到着する頃合いだろうか。キミの話では、目的地はこの林を抜ければすぐということだったな」「うん……。後もうちょっとだから……」
ラクツは問いかけにそう返したファイツを一瞥して、軽く息を吐き出した。隣を歩いている彼女は口角を上げてこそいたものの、明らかに浮かない顔付きをしていたのだ。
「まさか、寝坊したことをまだ気にしているのか?」
十中八九そうだろうなと思いながら尋ねると案の定頷かれて、ラクツはまたしても嘆息した。寝坊したと聞かされた時は大いに呆れたものだし、実際ファイツを咎めもした。けれどそれも、対面した彼女に開口一番ごめんねと謝られた時点で自分の中では既に過去のこととして処理されていたのだ。しかし、どうやらこの娘にとってはそうではなかったらしい。
「だって、やっぱりラクツくんに申し訳なくて……。あたしが寝坊した所為で、余計に歩かせちゃったんだもん……」
「ボクが言い出したことだ。寝坊はともかくとして、そちらは気に病む必要はないと思うが」
「でも……。あたしの鞄まで持たせちゃうのは、いくら何でもラクツくんに悪いよ……。それ、結構重いでしょう?」
「まあ、それなりに重いことは確かだな」
「ご、ごめんね!やっぱりあたしが持つから……って、あれ?」
ファイツがそう言うであろうことを予想していたラクツは、手を伸ばした彼女を制した。思い切り眉根を下げたファイツと視線がかち合う。彼女の蒼い瞳には涙が滲んでいなかったが、このままだとそれも時間の問題だとラクツは思った。
「いや、これはボクが持つ。キミに持たせるのは容認出来ないな」
「それって、やっぱり……。……あたしに持たせると危なっかしいから……?」
早いとは言えなかった歩みを完全に止めて、か細い声でそんな言葉を口にしたファイツの視線は、目に見えて逸らされていた。彼女に対してまさに言葉通りの感想を抱いたラクツが「ああ」と肯定すると、ファイツは草が生い茂る地面に視線を落とした。それから程なくして「やっぱりあたしってドジなんだ」とか、「何であたしってこうなんだろう」とか、ぶつぶつと独りごちるファイツの声が耳に入って来る。それらは全て、彼女自身を貶す言葉で。相当に落ち込んでいるらしいこの娘をしばらくの間無言で眺めていたラクツは、眉間に刻んでいる皺を更に深くさせた。いくら落ち込もうが自身を蔑もうが本人の勝手と言えばそれまでなのだが、それでもその類の言葉を長時間耳にするというのは流石に不快だった。
(……随分と卑屈なものだな)
ファイツがおとなしい性格をしている娘であるということは、ラクツもよく知っている。自分に自信が持てる人間か否かで彼女を評したら、間違いなく後者であるとラクツも思う。しかし、それにしてもこれは卑屈過ぎやしないだろうか。
「ファイツくん、顔を上げてくれ」
「…………」
「ファイツくん」
ファイツの無言の抵抗は、ものの数秒で終わった。おそるおそる、といった様子だったが、それでも結局は要求に応えるところに彼女の人の善さが十二分に表れている。何を言われるのだろうと不安そうに身構えているファイツに向けて、ラクツは口を開いた。
「……ん?」
”もう少し自信を持ってもいいのではないだろうか”。そう告げようとした瞬間に微かな振動を感じたラクツは、腰に装着したモンスターボールに手をやった。半透明の部分からこちらを覗く相棒のつぶらな瞳が、ここから出して欲しいと確かに言っていた。
「出て来い、フタチマル」
「え……。きゅ、急にどうしたの?」
「どうしたもこうしたもない。フタチマルがファイツくんに会いたそうにしていたから出したまでだ。ボール内にいる彼がここまで自己主張するのは非常に珍しいことだが、相手がキミなら納得が行くと言えるな」
煙と共にボールから勢いよく飛び出したフタチマルはそのままファイツに駆け寄ろうとしたが、寸前で踏み留まった。望みは叶えたのにも関わらず、それでもまだ何かを訴えるかのように彼はこちらをじっと見つめるばかりで。そんな相棒からどこか非難めいたものを感じ取ったラクツは、自身の反応の鈍さに内心で舌打ちした。
「……フタチマル。お前はずっと、ボクに出して欲しいと訴えていたのか。すまなかったな、まるで気付かなかった」
彼の様子からして、おそらくは何度も訴えていたのだろう。それなのにまるで気付かなかったとは、愚鈍にも程がある。目を伏せて自身の過ちを口にすると、間髪入れずにこくんと頷かれた。こちらが誠意を持って謝罪したことで気は済んだのだろう。フタチマルは今度こそとばかりにファイツの元に駆け寄ると、期待を込めた目で彼女を見上げた。そのつぶらな瞳はきらきらと輝いて見えるような気がしてならなかったが、きっとそれは見間違いではないのだろう。
「えっと、あの……?」
「どうやら、彼はキミに構われることを望んでいるようだな。そうだな、フタチマル?」
またしても即座に頷いたフタチマルは、未だに困惑しているらしい彼女との距離を更に縮めたが、それでも決して自ら触れようとはしなかった。”まじめ”な性格の彼らしいな、とラクツは思った。
「ファイツくん。キミさえ良ければ、フタチマルを構ってやってくれるだろうか。出来れば、先日以上にしてくれるとありがたい」
「う、うん!!もちろん……。……って、ダケちゃん!?何でそんなに怒ってるの!?」
フタチマルに手を伸ばしかけたファイツを止めたのは、他でもないダケちゃんだった。彼女の肩で自分達に向けて殺気を飛ばし続けていたダケちゃんは、それはそれは不機嫌な顔をしている。フタチマルに気を取られていたとはいえ、そんなダケちゃんに気付かなかった彼女の鈍さに、自然とラクツは苦笑した。自分も存外鈍かったが、この娘は輪をかけて酷い。いくら何でもこの状況で”何で”はないだろう、”何で”は。
「わざわざ言うまでもないことと思っていたが、ようやく気付いたのか。ダケちゃんは先程からずっと、ボクとフタチマルに向けて殺気を飛ばしていたぞ。それでも攻撃しなかったのは、キミを巻き添えにしたくないからなのだろうな」
「さ、殺気って……。ダ、ダケちゃん!ラクツくんにもフタチマルさんに攻撃しちゃダメだからね!そんなことしたら、もう絶交だからね!……あの、それじゃあ……。な、撫でるね……?」
「……ああ。頼む」
慌ててダケちゃんに釘を刺したファイツは、フタチマルを優しい手付きで撫で始めた。そんな彼女におとなしく撫でられているフタチマルの姿を、ラクツは一歩離れたところから見つめていた。
(……驚いたな……)
警戒心が強いはずのフタチマルが、他人に撫でられることを強く望むなんて夢にも思わなかった。基本的には険しい目付きをしているフタチマルが、あのように穏やかな表情をするなんて思わなかった。思いも寄らない表情を見せた相棒と、相棒の眠れる表情を引き出した娘を見ながら、ラクツは思う。
(ボクはずっと、任務や訓練ばかりで……。フタチマルと碌に触れ合っていなかったな。…………いや。そもそも、彼と触れ合ったことすらなかったな……)
フタチマルと出会ってから数年の月日が経つが、自分達の過去を振り返ってみればまさに任務と訓練の繰り返しだった。極稀に出来る休暇ですら、ありとあらゆる知識を詰め込む為に使っていたように思う。共に任務を果たす為の相棒として彼を選んだ以上、積極的にコミュニケーションは取ろうと努めていたことは確かだ。けれどよくよく思い出してみれば、それらは全て任務や訓練に直結していた。例えば今のファイツのように、「何の食べ物が好きなの?」とか、「今日はたくさん遊ぼうね」などのような、取り留めのない会話をフタチマルとしたことが果たしてあっただろうか?そんな疑問が脳内に浮かんで、ラクツは一瞬の内に解を出した。言うまでもなく答えは否だ。
「…………」
ラクツは自身の左手に目を留めた。この手でフタチマルに指示を出した記憶はそれこそ数え切れない程にあるけれど、フタチマルの頭を撫でた記憶がラクツには一度たりともない。その行為は、職務に従事する国際警察官としては多分間違っていなかったのだろう。しかし、フタチマルの”おや”としての立場で考えると、適切ではなかったのかもしれない。そんな考えを抱いたラクツは、ファイツへと目線を移した。
「ファイツくん」
名を呼んだことで、彼女は顔をこちらに向けた。本当に、彼女は不思議な娘だと思う。基本的にはおとなしいのにどこか頑固で、放っておけばいいのにこちらを損得勘定抜きで何かと構うお人好しで、こんな自分を人間的な意味と言えども”好き”だと口にする程の物好きで。ラクツからすれば、ファイツという娘は何から何まで理解出来ない存在だった。それは紛れもなく確かな事実で。けれど自分は、とてつもなく大切な何かを彼女から教わったような気がする。それが何なのかと問われると、自分でも上手く説明出来ないのだけれど。
「……ありがとう」
フタチマルを構ってくれたことに対する感謝と、上手く説明出来ないことを教えてくれたことに対する感謝。心からの素直な謝意を述べると、ファイツは目を丸くして固まった。
「その……。キミには、色々と感謝している。……ありがとう、ファイツくん」
いつか部下に対して告げたように”礼を言う”の一言で済ませるのは何故だか不充分な気がした。だけど、何を言えばいいのかが分からなかった。珍しくも言葉に詰まったラクツがもう一度礼を告げると、何故だか固まっていたファイツが顔を綻ばせて「うん」と言った。それはまるで花が咲くような、綺麗な笑みだった。その笑顔を認めた瞬間、ラクツの心臓がどくりと大きな音を立てた。先日彼女に”好き”と言われた時も同様のことが起こったわけだが、今度のそれはあの時とは比べ物にならない程の激しさだ。
「……ラクツくん?」
唐突に押し黙ったこちらの様子を訝しんだらしいファイツが、何事かと顔を覗き込んで来る。そんな彼女の態度にどういうわけか居心地の悪さを覚えたラクツは「何でもない」と返したが、内心では事態を把握することに捕われていた。何でもないなんて、真っ赤な嘘でしかなかった。しかし、自分に起こった異変を口にする気にはどうしてもなれない……。14歳にして初めて誰かに惹かれる事態に直面しながらもその事実に気付かないラクツは、彼女を前にして、逸る心臓を必死で宥めることしか出来なかった。