その先の物語 : 017
ねつぼうそう
(ああもう、あたしのバカ!!何でもっと早く起きなかったのよ!)ファイツは自分自身に文句を言いながら、人々が行き交う大通りを出来る限りの速さで歩いていた。すれ違う人々の大多数が温かい日差しを楽しむかのようにのんびりと歩いているようだけれど、ファイツはとてもそんな気にはなれなかった。のんびりと歩くどころか本当は全力で走りたかったのだけれど、いつも通り肩に乗せたダケちゃんが転がり落ちる危険を考えるとそれも出来ない。それに何より手に下げた鞄の中身を考えると、尚更走るわけにはいかなかった。何しろ、鞄には気合を入れて作ったお弁当が入っているのだ。走った所為でせっかくのお弁当が崩れましたなんてことになったら、最早目も当てられない……。
(あたしのバカ!バカバカバカ!何やってるのよ、もう!!)
走りたいのに走れない歯痒さと、何より自分自身に対しての苛立ちから、ファイツは胸中でぶつぶつと罵倒を繰り返した。本当に何をやっているのかと、声を大にして言いたい。ここが人の目がある大通りでなかったら、絶対に自分の頭を2、3発は叩いていたことだろう。
(うう……。そうだよね……。やっぱり遅刻確定だよね……)
走ってこそいないとはいえ、流石に長時間早歩きをすると疲れて来るものだ。ファイツは休憩がてらライブキャスターで時間を確認して、そしてはあっと溜息をついた。今の時刻は朝の10時だ。待ち合わせの時間がちょうど10時のはずだから、これで遅刻が確定したということになる。薄々分かっていたことだけれど、やっぱり間に合わなかった。がっくりと肩を落としたファイツは路地裏に移動すると、ライブキャスターの通話ボタンを押した。これが2回目である彼との通話がよりによって遅刻を知らせる連絡なんて、情けないにも程がある。
「あの……。もしもし、ラクツくん?」
情けなさから涙目になったファイツは、画面越しに映った彼の名前を呼んだ。ラクツの顔を見るのは1週間振りだ。見慣れた赤色が背景に映り込んだことで、ラクツが既に待ち合わせ場所であるポケモンセンターにいることを悟って内心で溜息をつく。
「えっと……。お、おはよう……」
『ああ、キミか。おはよう。……どうした?』
「…………」
ラクツに用件を問われて、けれどファイツは口ごもってしまった。遅刻すると早く言わなければいけないと頭では分かっているのだけれど、だけど彼の顔を見たら何も言えなくなってしまったのだ。再度どうしたと問われたファイツは我に返った。直接ではないにしてもたっぷり10秒は彼の顔を見つめていたことに気付いて、顔が自然と赤くなる。
「えっと、ごめんね……。実は、あの……」
とりあえず謝ったはいいが、そこから先がどうしても続かなかった。こうして明るいところで見ると、画面越しでもはっきりと分かる。再会した直後は確かに土気色だったはずのラクツの顔色も、それは色濃く形成されていた目の下の隈も、そのどちらともがかなり改善されていたのだ。冗談でも何でもなく今にも死んでしまいそうだったあの時の彼を思うと、その差は歴然だった。少なからず健康を取り戻した彼を見たファイツの心は、降り注ぐ日差しとは無関係に温かくなった。
(ラクツくん、本当に休んでくれてたんだ……)
ファイツはこの1週間ずっと、ラクツのことを考えていた。あくまで人間として好きなのだとラクツ本人に言ってしまった日から、毎日のように彼のことを考えていた。ホワイトと一緒にポケウッドの仕事をしている時でさえ、心のどこかで常に彼が存在していた。別に変な意味ではなくて、彼のことが純粋に心配だったのだ。自分自身のことなど二の次で仕事に熱中するラクツのことだ。ちゃんと休むと言った彼が、実はまたどこかで倒れていやしないかと、ファイツはただただ心配でならなかった。断じて告白ではないけれど、好きだと言ってしまった日の別れ際にライブキャスターの番号を教えて欲しいと頼んだのだって、1つはラクツが無事でいるかを確かめたかったからなのだ。
『急に何かと思えば、人の顔を見て涙を零すとはな。……まったく、キミはつくづく妙な娘だな。ボクに用件があって連絡をして来たんだろう?』
「…………」
『……ファイツくん?』
「あ!ごめんね!……えっと、だからね……っ」
『なるほど、遅刻か。大方、寝坊でもしたというところか』
こちらが切り出す前に、ラクツに核心を突かれてしまった。情けなさと恥ずかしさから顔を更に赤らめさせたファイツは、おずおずと頷いた。そう、ファイツはものの見事に寝坊したのだ。
「ほ、本当にごめんなさいっ!昨日寝るのが遅くなっちゃって、それで……っ」
振り返ってみれば、段取りからして悪かったように思う。しばらくは泊っているホテルに滞在すると言っていたラクツを、勇気を出して今度の休みの日にピクニックに行かないかと誘ったまでは良かった。爆弾発言をしてしまったあの日から2日と経っていないということもあってものすごく緊張したのだけれど、意外にも彼はあっさりと頷いてくれた。ラクツ曰く「ただ静養していると却って疲れるから」ということらしいが、それでもとにかく頷いてくれたことと、何よりラクツが無事であることが分かって、ファイツは大いにホッとさせられたものだ。思えば、上手く行っていたのは精々そこまでで、後は自分の要領の悪さを改めて突き付けられたと言っても良かった。
(うう……。あたしって、何でこんなにドジなんだろう……)
ピクニックの主役であるお弁当を作ろうと張り切ったはいいものの、結局具体的なメニューが決まらないまま前日を迎えてしまったし、そもそも充分な食材が冷蔵庫に入っていなかったという事実には今思い出しても恥ずかしくなる程だった。慌てて食材を買いに行った先では友達のヒュウにやたらと心配をかけてしまった上に、お風呂に入った後ですぐにお弁当作りに取りかかったところ、熱意とやる気が空回りでもしたのかやたらと手間取ってしまい、気付けば夜中の2時を回ってしまっていたのだ。「食べ物の好みが分からない」と言ったラクツの為に、メニューの数が多いお弁当を作ろうと思い立った。多分、その考え自体は悪くなかったのだろう。問題は自分の要領の悪さと、そもそも料理の腕が圧倒的に足りていなかったことだった。
「ごめんね、ラクツくん……」
情けなさ過ぎる、とファイツは涙目で謝った。疲れに負けて、お弁当作りが一通り終わった後でソファーに横になったのがいけなかった。早起きして洗い物をする予定だったはずが、気付いたら朝までぐっすりと眠りこけていたというわけだ。朝一番に時計を見た瞬間に、起きようと思っていた時間より大幅に過ぎていることに気付いてきゃあっと叫んだことは記憶に新しい。おかげで洗い物はそのまま流しに放置して出て来てしまったし、寝癖をごまかす為に編み込みをしなければならない羽目になってしまった。「目覚ましに気付かなかった」とか、「急いだんだけど間に合わなくて」だとか。まさに言い訳でしかない言葉を言い連ねたファイツは、そろりと目線を地面に逸らした。何も言ってくれない彼の、突き刺さるような視線が痛くて堪らなかった。
「本当にごめんね、ラクツくん……。ラクツくんをピクニックに誘ったのはあたしの方なのにね……。それなのに遅刻するなんて、酷いよね……っ」
『まったくだな』
「う……。……うん、そうだよね……」
『まあ、それはいい。ところで、キミは今どこにいるんだ?』
「え……?えっと、路地裏だけど……。あの、ラクツくんとぶつかっちゃった大通りの……」
『分かった。そこから動かずに待っていて欲しい。ボクがキミを迎えに行くから』
「え……。えええっ!?」
「いいよ、ラクツくんに悪いよ」と言いかけたファイツは、最初の”い”の時点で真っ暗になったライブキャスターの画面を呆然と見つめた。ああ、どうしてあたしはいつもこうなんだろう。自分の情けなさとラクツに対しての申し訳なさから涙目になったファイツは、はあっと深い溜息をついた。