その先の物語 : 014

青天の霹靂
「ラクツくん……」

ラクツが手を引いている人物に困り果てたような声色で名前を呼ばれたのは、歩き始めてから少し経った頃だった。こうして彼女の手を引いてから歩く速さには特に気を払っているし、これといったトラブルにも遭遇していないのにいったいどうしたのだろうか。訝しみながら振り返ると、予想通りそれは困った顔をしたファイツが「あのね」と言った。

「や……。やっぱり、もういいよ……」
「これのことか?」

肝心の部分が抜け落ちていたものの、彼女が言いたいであろうことを内容から推察したラクツは先程と同様に繋いだ手を軽く持ち上げた。ファイツはこくんと頷くと、どういうわけか地面に目を落とした。目線を合わせることを明らかに避けている彼女からは、相変わらず敵意や害意といった負の感情は欠片も見受けられない。その事実もラクツの頭を悩ませたが、今は彼女が発した言葉の意味の方が気になる。この娘が手を引かれることを嫌じゃないと言ったのはわずか数分前の出来事だというのに、歩き始めて数分で音を上げるとはどういうことなのだろう。

「何故だ?キミだって了承したはずだろう」
「だって!き、気になってしょうがないんだもん!!」
「……気になる?何がだ?」
「だからっ!……ラ、ラクツくんと手を繋ぐのが気になっちゃうの!ラクツくんはそうじゃないんだろうけど、あたしはもう……きゃあ!」

このままだと無理にでも振り解かれそうだ。反射的にそう思ったラクツは、右手を強く引いた。彼女の手を掴んでいる方の手だ。急に手を引かれたことに驚いたのか悲鳴を上げた娘の顔を至近距離で見つめながら、ラクツは自分自身に”何故だ”と問いかけた。

(何故ボクは、こんなことを……)

今日だけはこの娘を考えうるだけの危険から護ろうと誓ったのは他でもないラクツだが、周囲には先程のように尖った枝が伸びているわけでも、熟したきのみが落ちているわけでもないのだ。むしろわざわざ強く引いたことで、体勢を崩した彼女が怪我をする確率が高まると言っても過言ではないわけで。ありとあらゆる意味でファイツの手を強く引く理由は微塵もないはずなのに、自分はいったい何をやっているのだろうか。

「あ、あ、あの、ラクツくん!は、放して……っ!」
「……あ、ああ……」

どれだけの時間こうしていたのだろうか。そんなことを思いながら訴えに従ってファイツの手を音もなく放すと、彼女は左手首をもう片方の手で押さえた。その動作は素早いものだったが、自分が掴んでいた部分が見事に赤くなっているのをしっかりと目で捉えたラクツは眉をひそめた。まるでその自覚はなかったが、彼女の手を相当強い力で握り締めていた証拠に他ならない。護るべき相手に苦痛を与えてしまったのだ。どう考えても、これは”悪いこと”に分類されるだろう。

「すまないな、ファイツくん」
「……え?」
「キミを護ると言っておきながら、キミに苦痛を与えたのはこのボクだ。……すまなかったな」

純粋な謝意を込めてそう告げると、しばらくの間呆けていたファイツはぶんぶんと首を振った。そそっかしいところがある彼女が慌てているのを見るのはこれが初めてではなかったが、その慌て振りはこれまで見た中で群を抜いていると言える程だった。

「ラクツくんが謝ることないよ!だって、全然痛くなかったもん!ほ、ほら!手もちゃんと動くし……!」

早口でそう言いながら、ファイツは左手をひらひらと振ってみせた。何度も痛くないと主張する彼女は、しかし明らかに声を上擦らせている。どこまでも素直な反応をするファイツを目の当たりにしたラクツは、思わず苦笑を漏らした。

「ファイツくんは本当に嘘が下手だな。声が上擦っているし、ついでに言うなら目も泳いでいる。本気で隠し事をしたいのなら、まずはその素直過ぎる性格を改めるべきだと思うが」
「え、えっと……!」
「痛いのなら無理に動かさない方がいい。でないと悪化するぞ」
「痛くないもん!大丈夫だよ……っ」
「何故嘘を重ねるんだ?痛いのなら痛いと素直に言えばいいだろう」
「ちょ、ちょっとだけだもん……っ」
「……ちょっと?」
「…………」

誰がどう見ても嘘をついていると分かるファイツは、この期に及んで痛くないという主張を貫き通すつもりであるらしい。わるあがきをしている彼女に呆れの意を込めた眼差しを向けてやると、ファイツは観念したように目を伏せた。

「本当は、相当痛かったんだろう?」
「う、うん……」

耳をそばだてなければ聞き取れない程のか細い声で問いかけを肯定したファイツは、思い切り眉根を寄せて「ごめんね」と続けた。会話の流れにそぐわない言葉を発した娘は、本当に申し訳なさそうな表情をしている。

「何故キミが謝るんだ?それを言うべきなのはボクの方だろう」
「で、でも……。あたし、”放して”なんて偉そうに言っちゃったし……。別にラクツくんに手を引かれるのが嫌だったわけじゃないんだよ?でも、でもね……」
「でも?」
「ずっと手を繋いでると、すごく恥ずかしくて……っ」
「……恥ずかしい?」
「うん……。だって、ラクツくんは男の子だし……」

まさに、言葉通り恥ずかしかったのだろう。ファイツは顔を緋色に染め上げて、こちらの視線から逃れるように両手で顔を覆ってしまった。再会してからというもの、この娘の態度には何度か首を傾げることがあったわけだが、彼女本人の口から説明を受けたラクツはようやく納得した。思い返せば、色々と思い当たる節がある。ファイツが先程言っていた”気になる”とは、十中八九これを指していたに違いない。産まれてこの方羞恥心など感じた憶えのない自分にはよく分からないけれど、普通の人間は異性と手を繋ぐ際にそういった感情を伴うものなのだろう。

「なるほどな、ようやく合点がいった。ファイツくんが時折ボクを避ける素振りを見せていたことには当然気付いていたが、それにしてはこちらに対する忌避感をまるで感じないから妙だと思っていたんだ。もっとも、キミの小さなボディーガードはそうではないみたいだが」
「ふえ?……ダ、ダケちゃんっ!?」

両手を勢いよく顔から離したファイツは、肩に乗せているダケちゃんがこちらを威嚇していることにようやく気が付いたらしい。彼女は慌てて「ダメ」と何度も言い聞かせていたが、ダケちゃんは構わずに小さな身体を膨らませて臨戦態勢を取っていた。彼女の手を放すのがあと少し遅れていたら、何らかの”ほうし”を浴びていたに違いないとラクツは思った。以前も受けた”あまいかおり”か、もしくは”しびれごな”か”キノコのほうし”辺りが妥当だろうか。怒り心頭といった顔でこちらを睨んでいるダケちゃんを見ながら、ラクツは軽く頷いた。

「ふむ……。寸でのところで踏み止まったようだな。ダケちゃんがわざを繰り出さなかったのは、キミを巻き込む可能性を危惧したからだろう。なるほど、随分と懐かれているらしいな」
「か、感心してる場合じゃないでしょう!?ダケちゃん、そんなことしちゃ絶対ダメだからね!ラクツくんに悪気はなかったんだもん!!」
「ボクは別に、わざを受けてもいいと思っているんだがな」
「……え?」
「ダケちゃん。”しびれごな”でも何でも、使いたいのなら遠慮なく使いたまえ。この際だ、何なら”どくのこな”を使ってくれても構わない」
「ラ、ラクツくん……?」

ゆっくりと首を動かしたファイツが呆然としていることにはもちろん気付いていたが、ラクツはそんな彼女には構わずに両手を広げた。こちらに対して憎しみを湛えた視線を向けていたはずのダケちゃんは、呆気に取られた顔をしている。流石に”どくのこな”を使うつもりではなかったのだろうなと思いつつも、ラクツはダケちゃんをまっすぐに見据えた。

「ボクは抵抗するつもりは更々ないぞ。どのような結果になっても甘んじて受け入れよう。フタチマル、お前は離れたところで待機していてくれ。……ファイツくんも離れたまえ、そこにいると巻き込まれるぞ」
「……な……。何、言ってるの……?」
「キミこそ何を言っているんだ?そのような発言をする意味が分からないぞ」
「それはあたしの台詞だよ!”どくのこな”なんて浴びたら死んじゃうじゃない!!わけ分かんないよ!何で急にそんなこと言うの!?」

言葉通り、ファイツは混乱そのものの顔をしていた。はっきり言われなければ分からないのかと内心で呆れつつも、それでもラクツは説明するべく口を開いた。

「いいか、ファイツくん。ダケちゃんがボクを嫌っている以上、こうなるのはどの道時間の問題だったと思うぞ。まさか、ダケちゃんのボクに対する態度に気付かなかったと主張するつもりではないだろうな」
「そ、それは……っ!」
「それにダケちゃん程でないにしろ、ファイツくんが心の底ではボクを良く思っていないことは知っている。フタチマルに対してはともかくとして、ボクに妙な気を遣う必要はない。キミはボクが嫌いなんだろう?正直に言ってくれていい」
「……え?き、嫌いって、そんなこと……っ」

さあっと顔を青ざめさせたファイツを綺麗に無視して、ラクツは「とにかく」と会話を続けた。今は説明の途中なのだ。この娘の為に我慢しているであろうダケちゃんの為にも、早く会話を終わらせなければ。

「そもそも、ボクがファイツくんに先程苦痛を与えたことは揺るぎない事実なんだぞ。ならば、相応の罰を受けるのが筋というものだろう?ダケちゃんも多少なりとも気が晴れるだろうし、”どくのこな”は罪に対する罰に相応しいと思うんだが」
「…………」
「これでも日頃から訓練している身だ、常人よりは毒に耐性があると自負している。仮に大量の胞子を浴びて倒れたとしても、そうなったらそうなったで構わない」
「それって……。自分がどうなってもいいってこと……?」
「ああ、そうなるな。この世に未練などない以上、いつ死んでも構わないと思っている。それに、ボクの死を本当に悲しむ人間が存在するとも思えない。だから、別に……」

そう言った瞬間、鼓膜を乾いた音が震わせた。ファイツに左頬を叩かれたのだと遅れて悟ったラクツの鼻腔を、ふわりと甘い香りが擽った。

「バカ!ラクツくんのバカ、大バカあ……っ!!あたしはそんなこと思ってないのに、あたしはラクツくんが好きなのに!!なのに何でそんなこと言うの……っ!?」

電光石火の速さで頬を叩いたファイツが、涙ながらにそう言って来る。わんわんと泣きじゃくる娘に思い切り抱き付かれながら呆然と立ち尽くすラクツの頭の中で、彼女が発した”好き”という言葉が鳴り響いていた。