その先の物語 : 013
よく分からない人
ポケウッドで働く先輩に会いに行くという目的を無事果たしたファイツは、夕陽に照らされた森の中をとぼとぼと歩いていた。心の片隅で秘かに思い描いていたことをようやく出来るようになったというのに、だけど気分は晴れるどころか自分でも驚くくらいに沈んでいた。ホワイトが口にしたある言葉が頭の中で鳴り響いて、ファイツは思わず下を向いて歩いた。(怖い、か……)
久し振りに会ったホワイトは、隣を歩いているラクツを近寄りがたい子だと言っていた。彼のことをちょっと苦手で正直怖いとも言っていたことを思い出して、ファイツは目を伏せた。前者はともかくとして、後者の方はファイツにも覚えがある感情だった。しかも自分は、その気持ちを面と向かって本人にぶつけたわけで。今更にも程があるとはいえ、あれは言い過ぎだったのではないだろうか。仕事を頑張っていただけの彼は、自分の言動で傷付いてしまったのではないか。そんな考えが浮かんで、どうしても消えてくれないのだ。
「…………」
そして自分の心を沈ませている一番の原因が、ラクツを苦手だと言ったホワイトに対して何も言えなかったことだった。「ラクツくんはそんな人じゃないです」と否定するでも「実はあたしもそうなんです」と肯定するでもなく、文字通り何も言えなかった。ホワイトに名前を呼ばれるまで完全に放心していたくらいなのだ。それは否定出来る程彼をよく知っているとはとても言えなかったからなのだが、今になって思うと黙ることしか出来なかった自分が歯痒くて仕方なかった。自分とダケちゃんの形をした黒い影が、鬱蒼と生い茂る草木の影に交じってまっすぐに伸びている。そんなどうでもいいことをぼんやりと思いながら一歩ずつ足を進めていたファイツが、誰かに左手を強く掴まれる感触を感じたのは突然のことだった。
「え?」
「……まったく、ファイツくんは本当に学習能力がないな。上をよく見てみたまえ」
「あ……」
呆れを隠しもしない表情をしたラクツにそう言われたことで、ファイツは自分の置かれた状況をようやく理解した。彼が指で示した先にある木からは、先端が鋭く尖った枝が伸びていたのだ。熟れたきのみが生っている枝を眺めたファイツの背筋はぞくりと震えた。ラクツが止めてくれなかったら、絶対にあの鋭い枝で怪我をしていたに違いない。
「状況が理解出来たか?」
「うん……。ありがとう、ラクツくん……」
またしても自分を助けてくれたラクツに向けて、ファイツは今日何度目になるか分からない「ありがとう」を言った。隣に並んでいたラクツより自分が前を歩いていたことすらも気付かなかった。帰り道は彼の迷惑にならないようにしなければと心の中で意気込んでいたはずだったのにその結果は散々なもので、そっと目を伏せる。これでは学習能力がないと言われても仕方がない。
「また考え事でもしていたのか?」
「う、うん……」
「考え事をするなとは言わないが、状況が分からなくなる程思考に没頭するのはどうかと思うぞ。わざわざ怪我を負いたくも、その服を汚したくもないだろう」
「うん……。えっと、気を付け……」
「…………」
気を付けるねと言いかけたファイツは、ラクツに小さな溜息をつかれてぐっと言葉に詰まった。何度も彼に助けてもらった自分が気を付けるねと言ったところで、説得力も何もないだろう。それをしたいのは間違いなく彼の方だから実際にはやらなかったけれど、あまりの不甲斐なさに盛大な溜息をつきたい気分だった。もちろんファイツにそんなつもりはないけれど、もしかしたらわざとやっていると思われたかもしれない。どうしてドジばかり踏むのだろうと自分自身を内心で責めながらラクツの顔を見つめていると、彼がまたもや息を吐いた。思った通り、2回目のそれはさっきよりもずっと大きなものだった。
「帰るぞ」
「え……っ」
あれ程の大きな溜息だ。てっきり苦言でも呈せられるのだろうと思っていたファイツは、予想外にも彼が思ってもみなかった言葉を口にしたことで間の抜けた声を出した。短くそう言い放ったラクツに続いて、ファイツもまた歩き出す。いったい何が起こっているのだろうと一瞬で混乱状態に陥ったファイツの目にフタチマルと、そして彼と自分の影が飛び込んで来た。オレンジ色に染まった地面にはっきりと映った自分達のそれは、ある一点で繋がっている……。
「あ、あの!……ラクツくん!」
慌てたファイツは少し前を歩いている彼の名前を呼んだ。肩越しにわずかに振り返ったラクツが歩く速さを落としたことを感謝しつつも、そうじゃないのと返す。確かに彼はすたすたと歩くものだから半ば小走りになっていたことは事実だけれど、今言いたいのはそれではないのだ。
「違うのか?……では、何だ?」
「……あの、あの……。だ、だからね……っ」
「だから?」
「て、手が……っ」
そう、ファイツは今ラクツと手を繋いで歩いているのだ。繋いでいるというよりは彼に引っ張られていると言い表した方が正確だけれど、それでも自分と彼の手が触れ合っていることには変わりない。蚊の鳴くような声で何とかそう指摘したファイツは立ち止まったラクツの視線から逃れるように下を向いたが、自分達の影の存在に気付いて何もない地面に目線を移した。
「”これ”が嫌なのか?」
そう言いながら、ラクツが繋いだ手を軽く持ち上げて来る。ファイツはそれを感覚だけで察して、慌てて首を横に振った。
「ち、違うの!別に嫌なわけじゃないんだけど……。でも、あのね……っ」
恥ずかしさからまたもや言葉に詰まってしまったファイツは、地面に目を落としたままもごもごと呟いた。こうしている瞬間にも自分と彼の手が触れ合っているのだと思うと、心臓は激しく音を立てた。
(どうしよう、すっごく意識しちゃうよ……。何だか、2年前に戻ったみたい……)
そういえばトレーナーズスクールに通っていた時にもこんなことがあったと、ファイツは過去のとある日に想いを馳せた。忘れもしない、自分がラクツを初めて意識するようになったあの日だ。まだ彼の本当の身分を知らなかった頃、ファイツはラクツに連れられて道路を歩いたことがあるわけなのだが、この状況はあの日によく似ているとファイツは心の中で独り言ちた。あの時のようにラクツのことを異性として好きだというわけでは決してないけれど、それでもずっと手を繋いでいるとどうしても緊張してしまうのだ。
「”でも”、何だ?」
「きゅ、急に手を繋がれたから……っ!だから、ちょっとびっくりしただけなの!」
「そうか。一応言っておくが、別に大きな理由があるわけではないぞ。どうもキミは注意力が著しく欠如しているようだから、いっそこうした方が安全だと判断しただけのことだ。言質も取ったことだし、嫌でないのなら手を引いて歩いても構わないだろう。では、行くぞ」
律儀にも行くぞと言うなり歩き出したラクツに引っ張られるようにして、ファイツも再び歩き出した。確かに手を引かれてはいるものの、さっきよりずっと遅い速度だった。一応は声をかけてくれたことといい、こちらの歩幅に合わせて歩いてくれていることといい、もしかして彼は自分を気遣ってくれているのだろうか。
(強引なのかそうじゃないのか分からないよ……。ラクツくんって、何を考えてるのかよく分からないなあ……)
何を考えているのかよく分からないと言われたけど、そういうラクツくんの方がよっぽど不思議でよく分からない人だと思う。自分の手を引いて歩く彼の背中を見つめながら、ファイツは声に出さずにそう呟いた。