その先の物語 : 010

太陽の下で
”本当に表情が豊かな娘だ”。それが、満面の笑みで挨拶をしたファイツを見たラクツが最初に思ったことだった。自分達の存在に気付いた時は確かに呆然としていたはずなのに、「おはよう」と口にした今の彼女は一転して笑っていた。その笑顔は花が咲き誇るような、実に綺麗なものだった。

「……おはよう」

挨拶から一拍遅れてそう返すと、ファイツはますます嬉しそうに笑みを湛えた。肩に乗っているダケちゃんがこちらを睨んでいることにはまるで気付いていない様子で、顔中に満面の笑みを浮かべていた。

「随分と嬉しそうだな」
「うん!だって、ラクツくんにまた会えたんだもん……。それに……」
「それに?」
「ラクツくんとおはようって言い合うのって、これが初めてだから……。昨日だって、あたしは家を出て行くラクツくんに何も言えなかったし……」
「…………」

「だから、ちゃんと挨拶出来たことが嬉しいの」と言って会話を締め括ったファイツは、顔をほんのりと赤く染めてはにかんだ。そんな彼女に、ラクツは”物好きな娘だ”という評価を下した。倒れた自分を助けたことといい今の発言といい、ファイツという名のこの娘は本当に物好きだと強く思う。今の発言だって、十中八九本心から言っているのだろう。基本的に打算で動く自分とはまるで正反対だ。そんなことを思いながら彼女を見つめていると、ファイツが突然「あ!」と大声を上げた。三日月形に細められていた蒼い瞳は、今や大きく見開かれている。

「べ、別にラクツくんを責めてるわけじゃないんだよ!?ラクツくんはちゃんと挨拶してくれてたのに、あたしが返さなかったのが悪いんだもん!」

腕をわたわたと動かして必死に弁明するファイツを前にしたラクツは、呆れ混じりの溜息をついた。確かに自分は毎日彼女に対してにこやかに挨拶をしたが、それはあくまで捜査上必要だったからしていたに過ぎないのだ。元より非難されたなどとは欠片も思っていないというのに、彼女は泣きそうな顔で何度も「ごめんね」を繰り返すばかりだった。

「まったく、何を言うのかと思えばそんなことか。ボクは微塵も気にしていないし、第一あの挨拶はキミに近付く為にやったことだ。故に、ファイツくんが気に病む必要は欠片もないと思うんだが」
「うん、それは分かってるんだけど……」

そこで言葉を切ったファイツは何か言いたそうな素振りを見せていたが、結局は反論しないことを選んだらしい。こくんと頷きはしたものの、完全に納得したというわけでもないのだろう。悲しそうな顔でその場に立ち尽くす娘を眺めていたラクツは、短く嘆息すると彼女の名前を口にした。いつまでもここで話し込む気は更々なかった。隣で佇んでいるフタチマルの為にも、ここに来た目的を早く果たさなければ。

(しかし……)

やはり単刀直入に切り出すのがいいだろうかと思案していたラクツは、いったん思考を中断するとファイツを凝視した。春を思わせる桜色のワンピースを身にまとった今の彼女は、どう考えても着飾っているようにしか見えなかった。改めて観察するまでもない。彼女がどこかに出かけようとしていたであろうことを理解したラクツは、困惑した彼女が向けて来る視線を浴びながら思考を再開させた。今の彼女の恰好は、ちょっとどこかに遊びに行くレベルを遥かに超えているように思えてならない。そう、それはまるで……。

「えっと……。ラクツくん?」
「ファイツくん、今からデートにでも行くのか?」
「……え、えええっ!?」

思っていたのとはまるで違う反応をされて、ラクツは何故だと首を傾げた。年頃の異性が着飾る=デートという方程式はこの場合にも当てはまると思ったのに、彼女のこの態度からするとどうやら予想は外れたらしい。

「違うのか?ボクの記憶の中にいるどのキミよりも着飾っていたから、そうに違いないと踏んだんだが」
「ち、違うよっ!デートじゃなくて、ポケウッドに行くところだったの!ホワイトさんに会って、仕事の話をするつもりで……!本当にそれだけだから!デ、デートなんかじゃないから!!」

デートだと言われたことが、彼女にとっては余程恥ずかしかったのだろう。顔を鮮やかな緋色に染めたファイツが、何度も首を横に振りながら必死にこちらの説を否定して来る。蒼い瞳を潤ませて、念を押すように「違うよ」と言ったファイツの勢いに少々押されながらも、ラクツは素直に頷いた。よくよく考えてみれば、確かに彼女の言う通りだ。

「ああ、なるほど。言われてみれば、確かに同性と会うパターンもあったな。すっかりデートだと思い込んでいた。……その服、よく似合っているぞ」
「えっ……」

そう言った瞬間、ファイツはまたしても瞳を大きく見開いた。眼前の彼女は信じられないとでも言いたげに眉根を寄せて、じっとこちらを見つめている。

「い……。今、何て……?」
「だから、”よく似合っている”と言ったんだが」
「…………」

やっとフリーズから回復した彼女に、告げたばかりの言葉を重ねてやる。すると、ファイツは更に顔を赤く染めて固まってしまった。口を半開きにした、完全な放心状態だ。またもや予想外の反応を見せた彼女を前にしたラクツは、フタチマルと顔を見合わせた。

(……何だ、この反応は?)

”女性の扱いには人一倍気を付けるように”という言葉は、自分が幼少の頃から何度も繰り返し言われて来たことだった。実際本当に似合っていることだし、身にまとっている衣服を褒められて不快に思う異性はいないはずだ。そんな考えの元にそう告げたのだけれど、それにしては彼女の反応が微妙だとラクツは内心で訝しんだ。服を褒められれば大多数の女性は喜ぶと書物に書いてあったのに、今の彼女は見事なまでに放心してしまっている。大いに赤面していることからするとこちらの言葉が届かなかったわけではなさそうだが、それでも喜んでいる風にはとても見えない。顔を緋色に染め上げた状態で押し黙ってしまった彼女に対して眉をひそめたラクツは、思ったことをそのまま告げた。

「いったいどうしたんだ?」
「……それはこっちの台詞だよ……っ。い、いきなり何てこと言うの……っ」

蚊の鳴くような声でそれだけを言ったファイツはどこか恨みがましい目でこちらをまっすぐに見据えて来たのだけれど、そうされる理由がまるで分らないラクツの疑念はますます深まるばかりだった。まさか、彼女は着ている服を褒められるのが不快に感じる人間だというのだろうか。

「ファイツくん。ボクの発言の何がキミの気に障ったんだ?」
「違うの、そういうわけじゃないんだけど……っ」
「……?」
「も、もうその話はいいから!…………あの、それよりラクツくんはどうしてここに来たの?あたしが気付かなかっただけで、何か忘れ物でもしたとか……?」
「忘れ物というより忘れ事だな。これをキミに渡しに来た。……おっと、これはもう要らないな」

直接渡す形になったことで不要になったメモを抜き取って、札束入りの厚い封筒をファイツの顔面に突き付ける。すると、不自然にも程がある話題の切り替えをした彼女は瞳を瞬かせて小首を傾げた。

「えっと……。何これ?」
「見て分からないのか?一宿二飯の礼に決まっているだろう」
「な、何これええええ!?」

おそるおそるといった様子で封筒を受け取ったファイツは、中身を確認した瞬間にそう絶叫した。耳元で叫ばれなかっただけ遥かにマシだが、それでも至近距離で大声を上げられるというのは気分のいいものではない。眉間に皺を寄せたラクツは、驚きの所為か大きく口を開けている彼女を険しい目で見据えた。

「何故すぐに受け取らないんだ?一応言っておくが、これは綺麗な金だぞ。これでも充分な額を入れたつもりだったんだが」
「そういうことじゃなくて……っ!こ、こんなの受け取れるわけないじゃない!!いったいいくら入ってると思ってるの!?」
「さあ、いくらだっただろうな。鞄に入れていた札束を適当に掴んだだけだから、正確な額はボクにも分からない。知りたければ数えるが」
「もうっ、そんなことしなくていいから!……っていうか、鞄にお札を入れてるって危ないよ!もしひったくりに遭ったらどうするの!?」

おろおろと狼狽えたファイツが、「危ないから止めて」としきりに訴えて来る。ラクツはそんな彼女を一瞥して、内心で短く息を吐いた。「危ないよ」と繰り返し言っているこの娘の方だって、十二分に危なっかしいと思うのだが。

「……とにかく、これは受け取れないよ。そのお金はラクツくんが頑張った証拠でしょう?だったらラクツくん自身の為に使ってあげて?」
「キミは人が善いんだな。札束を突き返す人間がいるとは思わなかった」
「だって……。お金とか、高価な物が欲しくて助けたんじゃないんだもん……。ラクツくんのことがどうしても放っておけなかったから、だから助けたの」
「…………」

ファイツの言葉に何と言っていいのか分からなかったラクツはしばらくの間彼女に目線を留めていたが、フタチマルが動き出したことに気付いて視線を移した。静かに佇んでいたフタチマルはファイツのすぐ近くへと歩み出て、彼女を物珍しそうにじっと見上げている。

「えっと……。どうしたの?」
「何かの間違いだと思ったが、やはりそうか。どうやらフタチマルは、ファイツくんに強い興味を抱いたらしい」
「そ、そうなの?」
「ああ」

ファイツの問いかけを肯定したラクツの脳内に浮かんだのは、ここに来るまでの道のりだ。高価な道具が陳列された大通りに立ち並ぶ店には目もくれず、一目散にファイツの家を目指すフタチマルの姿は本当に珍しいものだった。

「本当は札束が入った封筒をキミの家の郵便受けに投函して礼を済ませるつもりだったんだが、彼がファイツくんに会いたそうにしていたからインターホンを鳴らしたんだ。……そうだな、出来ることならフタチマルに構ってやってくれると助かるんだが……。とはいえ、キミはこれからポケウッドまで出かけるんだろう?」
「う、うん……」
「急な話になるが、ボクとフタチマルも同伴してもいいだろうか?ポケウッドまではそれなりの距離があるし、途中の草むらには野生ポケモンも出現する。ボクとフタチマルはキミのボディーガードというわけだ。金銭ではファイツくんにとっての礼にはならないようだからな。代わりにボク達がキミを護る」
「え……」
「別にダケちゃんが力不足とは言わないが、ボク達もいた方が安全の為にはいいと思う。……もちろん、ファイツくんが嫌でなければの話だが」
「い、嫌なんかじゃないよ!……でも、ラクツくんの体調は……?ポケウッドまで歩いて大丈夫なの?」

ファイツはこの期に及んで、こちらの身を心から案じているようだった。この娘がどこまでも人が善いのだということを改めて知らされて、ラクツは思わず口角を上げると苦笑した。底抜けのお人好しと言っても過言ではないだろう。ここまで人が善いとなると、この先誰かに利用されてしまうに違いない。まさにファイツを利用した張本人であるラクツは、彼女を見ながらそんなことを思った。

「問題ない。休暇は既に取得済みだし、睡眠も普段に比べて遥かに長時間取っている。むしろ寝過ぎて身体が痛い程だ。それを解消する意味でも、出来れば歩きたいと思っている」
「そうなんだ……。えっと、それじゃあお願いしてもいい……?」

またもや顔を赤らめて恥ずかしそうに頭を下げたファイツに、ラクツはフタチマルと揃って頷いた。「準備して来るからちょっと待っててね」と言い残して家の中に戻った彼女を待つラクツの身体に、太陽から放たれた光がふんだんに降り注いだ。