その先の物語 : 009

ひとり、願う
カーテンの隙間から射し込む太陽の光で目を覚ましたファイツは、沈んだ表情でダケちゃんに「おはよう」と言った。のろのろと立ち上がって緩慢な動作でカーテンを開くと、雲1つない空が視界の中に飛び込んで来る。だけどファイツの心は、この青空のように晴れてはくれなかった。

「ラクツくん、大丈夫かなあ……」

ベッドの縁に腰かけたファイツは、寝不足で少し腫れてしまった両目をごしごしと擦りながら誰にでもなくそう呟いた。やっぱり気に入らなさそうにそっぽを向いたダケちゃんには構わずに、浮かない顔で頬杖をつく。彼は今どこでどうしているのだろうか、ちゃんと休んでくれているのだろうか、一昨日のようにどこかで倒れていやしないだろうか……。マイナス思考から来る強い不安感に圧し潰されそうになったファイツは、堪らずに息を吐き出した。

(何かもっと、出来ることがあったんじゃないのかな……)

ラクツがこの家を出てから半日以上が経っていたが、ファイツは未だに彼のことを繰り返し考えていた。”ラクツくんの為に何かしたい”と意気込んでいたはずなのに、むしろ彼の迷惑にしかなっていなかったような気がする。事ある毎に泣いてばかりだったと、ファイツは自分自身の行いを悔やんだ。ラクツ食べ物の好みすら分からない彼に同情したのは確かだが、言ってしまえば自分はただ泣いていただけだ。こちらを振り返らずに出て行ったラクツに対して、何の声もかけてあげられなかった。本当にただの一言すらも言えなかった。「さよなら」も、「元気でね」も言えなかった……。

「ラクツくんと、もう会えないのかな……」

ラクツと再会したのは本当に偶然だった、彼と自分がたまたまあの時間にあの通りを歩いていたからこそ起きた出来事なのだ。彼の職業を思えば、それはまさに奇跡だと言っても過言ではないだろう。おまけに彼の連絡先を聞かなかった自分は、ラクツの声を聞くことも出来ないかもしれない……。せめて挨拶くらいはしたかったと肩を落としたファイツは、ぷにぷにとした何かに膝をつつかれていることに気付いて顔をゆっくりと横に向けた。こちらを見上げながらふるふると首を振ったダケちゃんを認めて、弱々しく頷く。

「……ダケちゃん……。うん、そうだよね……。今更後悔してももう遅いよね……」

ここでいくら後悔したところで、今すぐラクツに会えるわけでもないのだ。それにご飯を食べた後休む間もなく出て行った彼のことだから、この町からとっくに出ていてもおかしくないとファイツは思った。もしかしたら、この町どころかこの地方を既に離れているかもしれない。ファイツはいいかげん現実を認めなくちゃと自分に言い聞かせて、両頬を強く叩いた。

(どうか、どうか……。どうかラクツくんが、元気でいてくれますように……)

ラクツの居所が分からない自分が彼の為に出来ることといえば、ただひたすら無事を願うことだけだ。両手を組んで真剣に願い事をしたファイツは深く息を吐き出すと、気持ちを切り替えるかのようにぐぐっと大きく伸びをした。同じように短い手を精一杯伸ばしているダケちゃんに眉根を下げながら微笑んで、いそいそとパジャマをベッドの上に脱ぎ捨てる。上下とも下着姿のファイツがタンスから取り出したのは、この前買ったばかりの新しい服だった。

(うん……。このワンピース、やっぱり可愛いな……)

ファイツは淡い桜色のワンピースを身体に当てて、鏡の前で精一杯微笑んだ。普段なら青色の服を選ぶことが多いのだけれど、今身体に当てているワンピースはあまりの可愛さに衝動買いした物なのだ。店で一目惚れした時にも思ったけれど、本当に可愛いと改めて思った。特に、桜の形をしたコサージュが主張し過ぎない程度に縫いつけられているのがものすごく可愛い。そう思いながらワンピースを眺めていたファイツは、小首を傾げながらこちらを見つめているダケちゃんと鏡越しに目が合ってはっと我に返った。今は気ままな1人暮らしをしている身だし、ダケちゃんとは子供の時からの長いつき合いだ。だからダケちゃんの前で下着姿になること自体に躊躇いはないのだが、それでもこうまじまじと見られるのは流石に気恥ずかしい。

(うう、急に恥ずかしくなって来ちゃった……。早く着替えなきゃ……っ)

今の暖かな季節にぴったりの色をしたワンピースを大急ぎで身にまとって、きっちりと身支度を整える。このワンピースに合わせる靴は、悩みに悩んで奮発したあの茶色いブーツだ。それにお気に入りである白いバッグを持てば、多少は大人っぽく見てもらえるだろう。今日は少しでも大人っぽい恰好をしたかったファイツは、鏡の前でうんうんと頷いた。

「今日はホワイトさんに会いに行くんだもん。……元気、出さなきゃね!」

これからファイツはポケウッドに行って、そこで働くホワイトに会う計画を立てているのだ。暗い顔でポケウッドで働いてみたいのだと伝えるわけにはいかないし、何より彼女に余計な心配をかけたくはなかった。そう言い聞かせて、半ば無理やりに口角を上げてみる。鏡に写った自分は満面の笑みとは程遠い顔をしていたけれど、それでも少しは気分が晴れたような気がした。洗顔と歯磨きを手早く済ませてから鏡の前に再び舞い戻って来たファイツは、白いバッグを手に持つと最終確認とばかりに自分の恰好を念入りにチェックした。

「これなら大丈夫かな……。……えっと、どうする?ダケちゃん」

現在の時刻は10時を回ったところだった。身支度を整えてしまった以上はもう出てしまいたいのだけれど、仮に今から出ると目的地に着くのは昼前になるだろう。

(でも、お昼時は止めた方がいいよね……。ホワイトさんだって、お昼くらいはゆっくり食べたいだろうし……)

ファイツはダケちゃんから視線を移して、窓から見える空を眺めた。暖かな光が降り注ぐ、絶好のお出かけ日和だ。やっぱり今から出るのは少し早いような気もするけれど、だけど空はこんなにも晴れているのだ。ダケちゃんと美味しいランチでも食べて、ゆっくりと食後の散歩を楽しみながらポケウッドに向かうのもいいかもしれない。

「うん、決めた!ちょっと早いけど、美味しいご飯でも食べてから行こっか!」

元気良く頷いたダケちゃんを肩に乗せたファイツは、お昼に何を食べようかと考えながら部屋の外に出た。昨日はパンケーキをお腹いっぱい食べたから、甘い物は止めておこうか。

「……え?」

たまにはお肉でも食べようかなどと考えていたファイツは、耳に飛び込んで来たインターホンのチャイムにピタリと歩みを止めた。この時間にインターホンが鳴るのは珍しいことなのだ。

(誰だろう?訪問販売とかかなあ……)

内向的である自分にとって、訪問販売を断るというのは中々にハードルが高いことだった。ぐいぐいと詰め寄って来る販売員にはっきり嫌だと断り切れず、使いもしない物を買ってしまったことも何度かあるわけで。そんな失敗を思い出したファイツは、小走りで玄関に向かうとはあっと溜息をついた。最悪、ダケちゃんに助けてもらった方がいいかもしれない。そう思いながら、憂鬱な気分でドアをそろり開ける。

「えっと……。ごめんなさい、あたし……」

開口一番に断りを入れたファイツは、だけど目の前の人物を見て固まった。そこにいたのは訪問販売員などではなかった。無事であっていて欲しいと願った相手であるラクツが、フタチマルと共に並んで立っていたのだ。

「……ラクツくん……」

瞳を大きく見開いて呆然とラクツを見つめていたファイツの心は、日だまりの中にいるかのように暖かくなった。ものすごく驚いたけれど、心から彼に会えて嬉しいと思ったから。だからファイツはにっこりと微笑んで、「おはよう」と言った。