その先の物語 : 007

悲しくて苦しくて
(うう……。気まずいよ……)

眉根を寄せたファイツは、いたたまれなさから心の中でそう呟いた。卵を焦がした場面をしっかり目撃されてしまったというのもそうだが、向かい側に座るラクツの視線が時々突き刺さるのも気まずかった。だけどそれ以上に気まずいのが、ダケちゃんがラクツをじっと見つめていることだった。もちろんただ視線を向けているだけなら何でもないのだが、ダケちゃんはあろうことかラクツを睨みつけているから気まずくて仕方ない。パンケーキを口いっぱいに頬張りつつもラクツに突き刺している目線だけは異様に鋭いダケちゃんを横目で見やって、ファイツはそっと息を吐いた。

(ダケちゃんがご飯を食べてくれたのは良かったけど、まさかこんなことになるなんて……)

ダケちゃんの様子が昨日からおかしいことにはファイツだってちゃんと気付いていた。ラクツを来客用の部屋に運ぶや否や逃げるように部屋に行ってしまったし、今だってご飯が出来る寸前まで部屋にこもり切りだった。もしもご飯を食べなかったらポケモンセンターにでも連れて行こうかなんて考えていただけに、パンケーキを食べている友達を見た時の安心感は大きかった。だけど、つぶらな瞳をそれは鋭くさせているダケちゃんの姿はどうしたっていいとは言えない。急に変わってしまった友達の態度に心当たりがあるファイツは、またしても小さく息を吐き出した。

(まだラクツくんのことを怒ってるんだ……。あたしはもう、少しも気にしてないのになあ……)

実は国際警察官だったラクツが捜査の為に自分に近付いたと知った日から、既に2年の月日が経っていた。はっきり言ってしまえば彼に利用された結果になったわけだが、ファイツはその事実を少しも気にしていなかった。けれどどう見てもラクツを睨んでいるところからすると、ダケちゃんの方は今でも2年前のことを許していないのだろう。あの時に一欠片の文句すらも言わなかった自分の代わりに怒ってくれているのかもしれないが、ファイツとしてはどうしても後ろめたさを感じてしまうのだ。

(だって、あたしが勝手に勘違いしただけだもんね……。ラクツくんは少しも悪くないんだから、ダケちゃんもあんなに怒らなくてもいいのに……)

始まりは、自己紹介の際に口にしたきりの誕生日を憶えていてくれたことだった。きっかけはそんな些細なことだったけれど、ファイツは苦手だったはずの男の子を強く意識するようになったのだ。だけどその男の子の口から本当の身分と目的を聞かされた瞬間、密かに抱いていたファイツの淡い気持ちは粉々に砕けて消えた。

(本当、あっという間だったなあ……)

まるで石が坂から転がり落ちるかの如く自分の中で急速に膨らんだ彼への気持ちは、始まりと同じくらい急速に萎んでいった。事ある毎に何かと気にかけてくれるラクツに対して、もしかしたら自分を好いてくれているのかもしれないと舞い上がったことが今では酷く懐かしい。そう思うと同時に愚かしさが込み上げて来て、ファイツは自然と苦笑した。今だって自分自身を賢いなどとは口が裂けても言えないけれど、それでも当時の自分は輪をかけて愚かだったとファイツは思う。彼のことも、自分がいた組織のことも、そして自分が彼に抱いていた気持ちのことも。表面ばかり見ていて肝心なことが見えていなかったあの頃の自分は、本当に愚かだった……。

「ファイツくん、食べないのか?」
「ふえっ!?」

過去に想いを馳せていたファイツは、不意に聞こえて来た音に間の抜けた声を返した。俯きがちになっていた顔を上げると、怪訝そうな表情をしたラクツと目が合う。ラクツだけではなくフタチマルにも揃って見つめられて、ファイツはぐぐっと眉根を寄せた。苦手意識と、きっと恋とは呼べないくらいに淡い気持ち。あの頃のラクツに抱いていた相反する気持ちは今となっては完全に消え去っているけれど、それでもこうして見つめられると落ち着かない気持ちになるのは何故なのだろう。昨日の夜は緊張なんて少しもしなかったのにと思いながら、ファイツは心ここにあらずだったことをごまかすように曖昧に笑った。

「な、何でもないの!ちょっと考え事してただけで、本当に何でもないから……っ!」
「考え事?」
「う、うん!そうなの……っ!」

上擦った声でどうにかそう答えたファイツの心臓は、途端にどきどきと高鳴った。もちろんそれは、あの頃のような甘い気持ちから来るものではなかった。単純に、ラクツに何を考えていたのかと問われてしまったらどうしようと思ってしまったのだ。うっかり答えかねない自分自身に向けて、ファイツは”言っちゃダメだからね”と何度も言い聞かせた。万が一そんなことになったら気まずいどころの話ではない。”あなたを好きになりかけていた、2年前のことを考えていました”なんて言えない。そんな爆弾発言、とてもじゃないけど言えるわけがない……。

「”ちょっと”、というレベルではないくらいに放心していたがな。ボクとフタチマルだけではこの量は消費出来ないから、キミにも頑張って食べて欲しいと言っただろう」
「う……。い、今から食べるところだもん……っ!」

どうやら呆れたらしい彼の口から質問が飛んで来なかったのは良かったけれど、別の問題に直面したファイツはそう言って気合を入れた。一難去ってまた一難だ。まずは卵に見えない物体を無理やりに口内に放り込んで、それから自分が作った大量のパンケーキとすっかり冷めてしまったスープを胃の中に流し込む。普段に比べて遥かに多い量を半ば無理やりに食べているわけだけれど、これも全てはラクツの手持ちポケモンが6匹いるものだと勝手に思い込んでいた自分が悪いのだ。”どうして作る前にラクツくんに確認しなかったんだろう”と、ファイツは一心不乱に食べながら心の中で自分を責めた。

「ごちそうさま、ファイツくん」
「お、お粗末様でした……っ」

パンケーキの最後の一切れを食べたラクツが両手を合わせてそう言ったのは、ちょうどファイツがスープを飲み干した時だった。ファイツは軽くむせ込みながらも何とか返事をして、ラクツとフタチマルをおずおずと見やった。よく確かめもせずに大量のご飯を作った所為で、もしかしたらラクツ達に無理をさせてしまったかもしれない。そんな考えが心に浮かんでしまったのだ。

「あの……。ラクツくん、無理してない……?えっと、フタチマルさんも」
「……無理、とは?」
「だ、だから……。あたしが作り過ぎちゃった所為で、もしかしたら無理して食べたんじゃないかなって……」
「いや、それはない。フタチマルも同様だ」
「そ、そう……?だったらいいんだけど……」

懸念を一蹴した彼に何故だか探るようにじっと見つめられて、ファイツはどぎまぎしながらそう返した。ラクツが自分のことを文字通り何とも思っていないのは気付いているけれど、それでも過去に淡い気持ちを抱いていた相手に見つめられて無反応でいられる程自分は出来た人間ではないのだ。とにかく何か言わなきゃと思ったファイツが必死に頭の中を検索した結果出て来たのは、彼が完食したメニューのことだった。

「そ、そういえば……。ラ、ラクツくんって甘い物が好きなんだね!ちょっと意外かも……」

自分が知っていると思っていたあのラクツならばいざ知らず、再会してからずっと眉間に皺を刻んでいる彼が自分と同じく甘い物が好きだなんて、まさしくファイツにとっては意外でしかないことだった。根拠はないけれど、今のラクツならば真逆の味付けを好むような気がしたのだ。

(ラクツくんだけじゃなくて、ヒュウくんもペタシくんも甘い物が好きなんだよね……。……うん、ちょっとだけ可愛いかも……)

またしてもラクツには絶対言えないことを心の中で考えていたファイツは、ぐさぐさと何本も突き刺さる彼の視線に気付いてはっと我に返った。今は変なことを考えてる場合じゃないでしょうと、声を出さずに非難する。意外でも何でも、自分と同じ味付けが好きだということが分かったのだ。もしかしたら、ラクツくんと会話が弾むかもしれない。そう思ったファイツの心には希望の灯りが燦然と輝いた。そんな自分の様子に気付いたらしいダケちゃんが気に入らなさそうにそっぽを向いたが、ファイツはそれどころではなかった。

「いや……。ボクは別に、甘い物が好きというわけではないぞ。……そもそも、ボクに好きな食べ物など存在しない」

だけどファイツの気分が明るくなったのも束の間のことだった。思ってもみない答えを返したラクツのその言葉で、次は何て続けようかと考えあぐねていたファイツの思考はぴたりと停止した。ラクツの言葉が理解出来なかった。彼は今、何と言ったのだろうか?

「い、今……。何て……?」
「”好きな食べ物などない”と、そう言った。……そうだな、この際だから告げておこうか。善悪もそうだが、ボクは好きという概念すらもあまりよく分かっていないんだ」
「……え……」

相変わらず淡々とした口調で爆弾発言をさらりと口にしたラクツを、ファイツはまじまじと見つめた。好き嫌いの概念が分からないなんて、果たしてそんなことがあるのだろうか。

「で、でも……っ!好きな食べ物くらいあるでしょう……っ!?」
「いや、ない。正確に言えばあるのかもしれないが、別に分からなくても支障はない。ボクにとって、食事とは単純に食欲を満たす為の行為でしかないんだ。ああ、もちろん対象の情報を得る手段の1つとして利用したことはあるが」
「…………」
「とにかく、好みの有無など些末なことだ。ボクはただ、任務が遂行出来ればそれでいい」

耳を塞ぎたくなるような言葉を平然と告げるラクツを目の当たりにしたファイツは、顔をくしゃくしゃに歪めた。驚くべきことに好きな食べ物がないと言うラクツは、それを当然のこととして受け入れているのだ。極当たり前に食べたい物を食べて来たファイツにとって、その言葉は衝撃的としか言えなかった。彼を睨んでいたはずのダケちゃんも、そして彼の隣にいるフタチマルでさえも、揃ってラクツを悲しい瞳で見つめている。そしてそのことに、ラクツ本人だけが気付いていないのだ。

(ラクツくんって、どういう子供時代を過ごしたんだろう……。やっぱりお仕事のことばっかり考えて生きて来たのかな……。もしそうだったとしたら、すごく悲しいな……)

12歳の時点で警視になれるくらいなのだから、彼が相当な努力を重ねて来たことは最早疑いようがない事実なのだろう。きっと、それこそ血の滲む程に努力したはずだ。物心つかない内から訓練に励んでいるラクツの姿がはっきりと目に浮かんで、ファイツはそっと目を伏せた。これはただの推測でしかないけれど、きっと彼は国際警察に関する事柄以外のことを徹底的に学ばないままここまで来てしまったのだろう。ラクツのことを理解しているなどとは口が裂けても言えないけれど、何故だかそんな確信を抱いたファイツは深い悲しみに襲われた。赤ちゃんの頃から国際警察にいたらしいとなれば仕方のないことかもしれないが、それにしたって悲し過ぎるではないか。

「……っ」

このままラクツを見つめ続けていたら堪えきれずに涙を零してしまうような気がして、ファイツは”泣いちゃダメ”と必死に言い聞かせた。泣いたところで何がどうなるわけでもないことは分かっているし、彼だってきっと困惑してしまうことだろう。胸の痛みと泣きたい気持ちを紛らわせるかの如く奥歯をぐっと噛み締めたファイツの鼓膜を、不意に小さな音が震わせる。その音にはっと我に返ると、小さくもそれは深い溜息をついたラクツが、こちらをまっすぐに見つめているのがぼやけた視界に映り込んだ。

「分かっていたが、キミは本当によく泣く娘だな」
「うん……。だって、ラクツくんがかわいそうで……っ」

ファイツは結局零れ落ちてしまった大粒の涙を拭うこともせずに、ただひたすらラクツを見つめ返した。胸がずきずきと痛くて堪らなくて、そして何よりもラクツの全てが痛々しく見えて仕方なくて、ファイツは苦しいよと声に出さずに呟いた。理解出来ないと言ったラクツには届くことがないと分かってはいるけれど、だけどファイツは何度も何度も呟いた。