その先の物語 : 006

むじゃきでおっちょこちょい
リビングの入口で棒立ちになったラクツは、眉間にぐっと皺を寄せた。かれこれ10数秒はこの場に立ち尽くしているのだが、キッチンの中を慌ただしく動き回るファイツは実に忙しそうにしていて、こちらに気付く気配が微塵も見受けられないのだ。彼女が奏でるバタバタという忙しない音をBGMに、ラクツはどうしたものかと思案した。

(数回呼んでも反応すらしないとは流石に思わなかった。さて、どうするべきか……)

余程料理に集中しているのか、はたまた気付いていながらその素振りを見せないだけなのか。あの娘の性格からしておそらくは前者だろうなと思いながら、ラクツはこちらに背中を向けている娘をじっと観察した。誰がどう見ても料理中のファイツは、鼻歌を口ずさみながら包丁で野菜を切っているところだった。

(一番確実なのは至近距離で彼女に呼びかけることだが、少なくとも今実行するのは得策ではないだろうな)

包丁で食材を切るという何でもない動作も、実行しているのがファイツとなると話はまた別だった。ラクツとしては声をかけてもいいのだが、その拍子に彼女がうっかり指を切る光景がありありと浮かぶのは何故なのだろうか。

(そそっかしいというか、何というか……。……まったく、危うい娘だ)

そう、危なっかしいのだ。何かにつけて一生懸命なのは認めるが、ファイツという少女はどことなく抜けている性格をしている。昨晩のことだ、「明日もご飯を作るからね」と言って譲らなかった彼女に夜食を平らげたばかりのラクツがリクエストしたメニューは、パンケーキとスープだった。ちなみにそれらが特別好きというわけではなくて、万が一何かを盛られていたとしても一度口にしている以上は異変にも気付き易そうだからという理由でリクエストしたに過ぎなかったのだけれど、どうやら彼女は例によって勘違いをしたらしい。大量のパンケーキとサラダが乗っているテーブルを一瞥したラクツは、こめかみに手を当てた。

(この身すら起こせなかったボクがここに立っている以上は本当に杞憂でしかなかったのだろうが、それでも用心するに越したことはないな。ファイツくんにも頑張って食べてもらうことにするか)

”何かを盛られている可能性があるかもしれない”。あの娘が作った料理に昨晩すぐに手をつけなかった理由は、まさにそれだった。こちらの思惑には露程も気付くことなく、実に嬉しそうに笑ったファイツは「たくさん作るからね」と宣言していたが、いくら何でもあの量は多いにも程があるとラクツは思った。

(あの娘の抜け具合は、ハンサムといい勝負だな)

抜けているというキーワードで声量も熱意も無駄にある部下の顔が脳裏に浮かぶ羽目になったラクツの口からは、二重の意味で小さな溜息が漏れた。不快とまではいかないが、あの部下にラクツが抱いている印象はお世辞にもいいとは言えないものだった。自分だって迷惑をかけたことはあるだろうが、彼がやらかしたおかげで色々と苦労したことは歴とした事実なのだ。もっともコンビ解消となった今となっては、彼がどこで何をしているのか知る由もないのだが。

(……おっと。今は彼のことなどどうでも良かったな)

薄情にも部下の顔を脳内から無理やりに消し去ったラクツは、引き続き料理に勤しんでいるファイツに目を留めた。実に楽しそうに鼻歌を歌っているところからすると、多分彼女は料理が苦ではないのだろう。しかしそれでも彼女から受ける印象は変わることはなかった。程度はどうあれ、呼びかけたらまず間違いなくファイツは驚くだろうと自分の勘が告げていた。このタイミングで声をかけるのは、即ち彼女が包丁で指を切るということと同義だ。それを分かっているからこそ、先程から幾度となくこちらを見上げているフタチマルも行動を移せずにいるのだろう。

(それにしても、彼がここまで他人を気にするとはな。何とも珍しいことだ)

フタチマルが他人を気にかけるというのは実に珍しいことだと言って良かった。”おや”である自分に似たのか彼は職務に忠実であり、基本的に他者と距離を取るポケモンなのだ。しかし今は彼女の身を案じているようにすら思えて、ラクツは訝しげに目を細めた。確かにあの娘は危なっかしいが、単純に何かやらかしそうで目を離せないからという理由だけではないような気がする。そんなことを考えていたラクツの前で、ファイツが包丁から手を離したのが目に映った。声をかけるなら今しかないとばかりに、ラクツは一歩踏み出した。

「ファイツくん」

まだ本調子ではない所為で早足で歩けないラクツがもどかしく思いながら彼女の名を呼ぶと、ちょうど火をつけたフライパンに卵を割り入れたところだったファイツは案の定肩を大袈裟なくらいにびくりと大きく震わせた。それは勢いよく振り向いた彼女の顔が、一瞬で驚愕の色に染まる。

「えっ!?……ラ、ラクツくん!?」

上擦った声で名前を呼ばれた、分かっていたことだが無視をしていたわけではなかったらしい。あまりにも予想通りの反応に半ば呆れつつも再度彼女の名を口にすると、放心状態でこちらを見つめていたファイツは我に返ったようにわたわたと腕を動かした。

「ラクツくん、もう歩けるの!?」
「……見れば分かると思うんだが」
「そ、それはそうなんだけど!でも、昨日は身体も起こせなかったのに……!えっと、無理してない!?もしかして、フタチマルさんに運んでもらってない!?」

ずいっと詰め寄って来るファイツに対してラクツは静かに首を横に振ったが、それでも彼女は納得しきれていないらしかった。こちらをじっと見つめて来る彼女の蒼い瞳が、不安そうにゆらゆらと揺れていた。

「別に無理はしていないし、ボクは自分の足でここまで来たんだ。流石に万全とは言えないが、体調は随分と回復したようだな。その証拠にあれ程あった倦怠感がない。今の時刻が昼頃だというのには流石に驚いたが」
「それだけ疲れてたんだよ……。歩けるようになって良かったね、ラクツくん!」
「……ファイツくん。ボクのことより、フライパンの中身を案じた方がいいと思うんだが」
「ふえ?……きゃあっ!」

邪心が一欠片も見当たらない笑みを浮かべている彼女の横では、火にかけられたフライパンから煙が立ち上っていた。焦げてる焦げてると叫びながら右手に持ったへらを必死に動かし始めたファイツを、ラクツはやはり危なっかしいと思った。