その先の物語 : 005
晴れ時々曇り
冷たいフローリングの床にへたり込んだファイツは、心の底から良かったと思っていた。彼の言葉が耳に入るのがほんのわずかでも遅れていたら、堪え切れずに涙が零れていたことだろう。だけどラクツが身体を休めると言ってくれたことで、まるで雲がかかったように心配でもやもやとしていたファイツの心は、今や晴れ渡る空のように澄み切っていた。(良かった……。ラクツくん、今度こそ本当に分かってくれたんだ……)
彼は、明日にでも休暇を取ると言っていた。どれくらいの期間休めるかは分からないけれど、それでも本格的に休むとなればラクツの体調も絶対に良くなるに違いない。その安心感から結局涙を零してしまったファイツを現実に引き戻したのは、自分を呼ぶラクツの声だった。
「ラクツくん?……どうしたの?」
「それはこちらの台詞だ。急に座り込んだかと思えばまた泣いたな。何があった?」
「あのね……。ちょっと、腰が抜けちゃったみたい……」
「腰が抜けた?……何故だ?」
「だって……。ラクツくんがちゃんと休んでくれるって思ったら、すごくホッとしちゃったんだもん……。……あ、ごめんね!そういえばラクツくん、喉渇いてるんだったよね?待ってて、すぐ持って来るから!」
水を持って来て欲しいと言ったラクツが今もなお水を飲めずにいるのは、自分が大泣きした所為以外の何物でもない。慌てたファイツは手と膝にぐっと力を込めて何とか立ち上がると、水が入ったコップを取るべく一歩を踏み出した。
「ファイツくん。すまないが、ボクを起こしてくれるとありがたいんだが。フタチマルには先程断られてしまったからな」
「え?……あっ!!」
ファイツは両手でパッと口を覆うと、勢いよく身を翻した。確かに彼の言う通りだ。寝ている状態では水分補給もままならないし、もしかしたら身体も痛いのかもしれない。ラクツが長時間寝ていることを知っているのにどうして気付かなかったんだろうと、ファイツはまたしても自分を責めた。
(ラクツくん、1人じゃ起きられないんだ……)
悲痛な思いでラクツの傍へと駆け寄ったファイツは、酷い隈を作っている彼を前にしてそっと目を伏せた。分かっていたことだけれど、こうして間近で見ると本当に痛々しい。前へと伸ばされた腕を掴んで背中を支えながらゆっくりと起こすと、ラクツが息を吐き出した。深い深い溜息だった。
「……無様だな。自らの身体すら起こせないとは、まったくもって情けない……」
「そんな!ラクツくんは情けなくなんかないよ!」
本当に情けないのは、ラクツの不調に長いこと気付かなかった自分の方なのだ。自分自身を卑下するラクツをこれ以上見ていたくなかったファイツは、眉根を思い切り寄せながら彼の言葉を真っ向から否定した。それはもう必死に首を横に振った所為で髪が乱れたけれど、そんなことはどうでもいいとファイツは思った。
「ラクツくんは、ただお仕事を頑張り過ぎちゃっただけなんだもん!こんなになるまで無理してるのに、そんな悲しいこと言っちゃダメだよ……っ!」
「……ダメ、なのか?」
「う、うん!ダメだよ、絶対ダメ!!」
彼に分かって欲しい一心でこくこくと頷くと、振り乱した髪の間からラクツが曖昧に頷くのが見えて、軽く息をつく。本当に納得してくれたのかは分からないけれど、頷いてくれた以上はこの話題を長引かせる意味もないだろう。そうと決まればと、ファイツは部屋の中をきょろきょろと見回した。今は自分という支えがあるから上半身を起こしていられるラクツは、背中に添えた手を離した瞬間に倒れてしまうに違いない。だけど支えになりそうなクッションは自分の部屋にあるという現実に、ファイツははあっと深い溜息をつきたくなった。
(もうっ!あたしのバカ!!何で持って来なかったのよ!)
焦っていたとはいえ、食事が乗ったお盆もクッションも持って来なかった自分は要領が悪いにも程があるだろう。ファイツは自分自身を心の中で罵りたくなったけれど、小さく息を吐くと気持ちを切り替えた。反省会は後でも出来るのだ、今はとにかくラクツに水を飲ませてあげたい。他人のポケモンに頼み事をするのは気が引けるけれど、こうなったら背に腹は代えられない。食事を持って来てもらうようにフタチマルにお願いしようと口を開いたファイツは、口を半開きにした状態で固まった。相変わらずのつぶらな瞳をしたフタチマルが、ラクツに向けてお盆を差し出していたのだ。
「あ、ありがとう……」
まさに頭の中に思い浮かべたお願いをものの見事に実行してくれたフタチマルに対して、我に返ると同時にお礼を言ったファイツは、心臓を高鳴らせながらラクツの動向を見守った。果たして彼は食べてくれるだろうか?
「ど、どうかな……?ご飯を作って来たんだけど、食べられそう?」
「……ボクの為に、わざわざこれを用意したのか?」
「うん!もちろんラクツくんのポケモンさん達の分もあるけど……」
「…………何故だ?」
「え?だって、お腹空いてるんじゃないかなって思ったから……」
何でそんなことを訊くんだろうと思いながら、ファイツはパンケーキとスープを見たまま黙り込んでしまったラクツをおろおろと見つめた。残念ながら食欲がないのかもしれないとも思ったけれど、それにしては彼の顔が険し過ぎるような気がしてならなかった。それに、水を飲まないのも気にかかる。頭の中に幾つもの疑問符を浮かべたファイツの心には、再び分厚い雲がかかることとなった。いったい何が彼の気に障ったのだろうか。
(もしかして、パンケーキが嫌だった……とかかな)
ファイツがパンケーキを選んだことにあまり深い意味はなかった。よく食卓に上ることもあってほとんど即決だったのだけれど、実はパンケーキが嫌いだったとしたら、彼の反応も頷ける。手軽で美味しいパンケーキはファイツの好物なのだけれど、ラクツにとっては多分そうではなかったということなのだろう。もしかしたらパンケーキ絡みの嫌な思い出でもあって、それで嫌いになってしまったのかもしれない……。頭を働かせた末にそんな結論に至ったファイツは、反射的に「ごめんね」と謝った。それはもう土下座する勢いだ。
「何故謝る?」
「ラクツくんがそんなにパンケーキを嫌いだなんて思わなかったの!あたし、知らなくて……!ごめんなさい!!」
「……は?」
「違うの?……あ、パンケーキじゃなくてスープが嫌だったとか?」
そう言いながら、ファイツは辛うじて湯気が立ち上っているスープに目を留めた。コンソメで味付けしたスープには身体に良さそうだからとふんだんに玉ねぎを入れたのだが、よくよく考えればスープの具材にねぎを選んだのは失敗だったかもしれない。甘味が出るようにと軽く炒めたのだけれど、ねぎ特有の味と臭いを嫌がる人間は少なくないだろう。実際ファイツだって、小さな頃はねぎ全般を辛いと言って残していたくらいなのだ。少なくともパンケーキが嫌いという説よりかはずっと納得出来る理由に申し訳なくなりながらも1人納得していると、ラクツがまたもや深い溜息をついた。
「ご、ごめんね!無理して食べなくていいから……っ!」
「…………いや、食べる」
その声で弾かれたように顔を上げると、眉間にしっかりと皺を刻んでいるラクツと目が合った。何故か呆れ顔をした彼は、けれど同時にどこか困ったような表情をしていた。
「本当に食べてくれるの?」
「ああ」
「良かった!でも、もし嫌いだったらちゃんと避けてね!元々あたしが勝手に作って来たんだし、遠慮しないでいいから!」
「いや、ボクに食べ物の好き嫌いはないぞ」
「え?……そうなの?」
ホッとしたのも束の間、問いかけに対して即座に頷いたラクツを見ながら、ファイツは分からないと小首を傾げた。ねぎもパンケーキも嫌いでないというのなら、あの態度はいったい何だったのだろうか。
「それじゃあ、どうして……」
「……キミの反応を見る限りでは、ボクが懸念した出来事はまず起こらなさそうだと判断したからな」
「えっと……?」
ラクツの言葉の意味がよく分からなかったファイツは、小首を更に傾けた。今更だけど、彼は難しい言い回しをすることが多い。やっぱり刑事さんだからなのかなあと心の中でぶつぶつと呟いたファイツは、彼がフォークに手を伸ばしたことではっと我に返った。そうだ、ラクツは用意した食事を食べると言ってくれたのだ。
「たくさん食べてね、ラクツくん!」
作ったご飯を食べてもらえるというのはやっぱり嬉しい、その相手が食べてもらえるかどうか不安だったラクツなら尚更だ。自分の言葉を受けてか「いただきます」と言ったラクツに弾んだ声で「どうぞ」と返したファイツは、黙々と食べ始めた彼を優しい眼差しで見つめた。