その先の物語 : 004
不可思議なその娘
「……少しは落ち着いたか?」「う、うん……。もう大丈夫……」
どういうわけか大粒の涙を零したファイツに向けて、頃合いを見計らったラクツは静かな声でそう尋ねた。問いかけに首を縦に振った彼女がそのままこくこくと無駄に何度も頷いているのが気にはなったが、それでも大丈夫だと答えているところからするとどうやら多少は調子を取り戻してくれたらしい。とりあえずは話が出来る状態に戻ったとみて良さそうだという判断を下したラクツは、ゆっくりと顔を上げたファイツを見つめた。まるで海を思わせるかのような彼女の深い蒼色の瞳は、盛大に泣きは腫らした所為で今や周囲が真っ赤に染まっていた。
「ごめんね、ラクツくん……。あたしったら、あんなに大泣きしちゃって……」
泣いてばかりで一時は会話すらままならなかったファイツが、おずおずと話を切り出して来る。実に気まずそうな表情をしながらも目線だけは外さない娘を、ラクツは眉をひそめて見据えていた。おとなしくて、押しに弱くて。そしていつだっておどおどとしていて、こちらが目線を向けるとすぐに目を逸らす娘。それが、ラクツの知っているファイツだった。あれから2年という月日が流れているとはいえ、記憶の中の姿と悉く合致しない彼女にどうしても強い違和感を覚えてしまうのだ。自分が知っているファイツは、花が咲いたように笑うことも頑として主張することも絶対にないはずなのに。
「うう……。本当にごめんね、迷惑だったよね?」
こちらが何も言っていないというのにまたしても悪い方に勝手に解釈した娘に、ラクツは深い溜息をついた。思い込みが激しいのは結構だが、ここまで来ると流石に面倒だ。そんなことを思いながら、それでも首を横に振ってやる。
「えっ……?でも、あんなに泣いたのに……。あの、もしかして気を遣わせちゃった……?」
「違う。ボクは別に、迷惑だとは思っていない」
嘘ではない、これは本当のことだった。確かにファイツは言葉通りに大泣きしていたわけだが、実際には嗚咽を漏らしていただけであってラクツにしてみればそこまで耳障りではなかったのだ。
「むしろ、心情を勝手に決めつけられる方がボクにとっては遥かに不快だ。ついでに言うと、耳元で大声を出すのも止めて欲しい。……そういうわけだから、今後は配慮してもらえるとありがたいんだが」
「う、うん……。気を付けるね!」
「そうしてくれると助かる。それより、訊いてもいいか?」
「えっと、何?」
「そもそも、ファイツくんは何故泣いたんだ?キミが泣いている間もずっと考えていたんだが、どうしても分からなくてな」
「……え?」
ファイツは不思議そうにぱちぱちと目を瞬くと、軽く小首を傾げた。何を分かり切ったことを訊いているのかと言わんばかりの顔だ。
「だって……。ラクツくん、すごく無理してるんだもん……。全然寝てないんでしょう?」
「言っておくが、最低限の睡眠は取っていたぞ。まあ実際には睡眠不足で倒れたわけだから、あれでは足りていなかったというのは認めるが。次はもう少し長く寝ないといけないな」
「あの……。最低限って、どれくらい?」
「そうだな。3日に一度……だいたい4時間程度寝る生活を、1ヶ月間続けていた」
「み、3日!?……1ヶ月!?」
「警察官なら珍しくも何でもないぞ。大袈裟に驚くことでもないだろう」
「3日に4時間だなんて、そんなの少な過ぎるよ!そんな生活を1ヶ月も続けてたら、誰だって倒れるに決まってるじゃない!お願いだからちゃんと休んでよ……っ」
「このままだと本当に死んじゃうよ」という言葉で会話を半ば強引に打ち切ったファイツに、ラクツはまたその話かと内心で眉をひそめた。世間を賑わせていた盗賊団の幹部を1人残らず逮捕したのはつい昨日のことだった。任務を拝命してから1ヶ月で成果を出すなんて、間違いなく最短記録だ。確かに睡眠が不足していたのだろうが、おかげで事件の早期解決に繋がったことを思えば身体を壊すくらい安いものではないだろうか。それに、とラクツは思った。
(仮にこのまま死んだところで、ボクは一向に構わないんだがな……)
もちろん例外はあるが、基本的に物事にあまり執着しないラクツはこの世にひと欠片の未練すらもなかった。だからファイツの言う通りの未来が訪れたところで特に問題があるとは思えなかったのだけれど、その考えをそのまま口にする気にはなれなかった。この娘のことだ、言えば十中八九泣き出すに違いない。……というより、むしろ彼女の懇願を聞き入れなければどちらにせよ泣くのではないだろうか。何故だかそんな気がしてならなかったラクツは、はあっと深い溜息をついた。
「……分かった。明日にでも、国際警察の本部に申請して休暇を取る。睡眠も食事も意識的に行うよう心がける。……これでいいか?」
倒れたのは事実であることには変わりないのだし、たまには本腰を入れて休むのもいいだろう。結果として彼女に根負けすることになったラクツが溜息混じりにそう告げると、ともすれば若干こちらを睨んでいるようにも見えたファイツは一転して瞳を輝かせた。直接関係がないのにそれは嬉しそうに笑った彼女のことを、ラクツは実に不可思議な娘だと思った。