その先の物語 : 003

零れた涙
猛ダッシュでキッチンへと向かったファイツは、部屋に続く廊下をそろりそろりと歩いていた。残して来たラクツのことを思うと本当は走りたいくらいだったのだけれど、食事が乗ったお盆を両手で持っている以上そんなことをするわけにもいかない。走りたいのに走れないという何とももどかしい気持ちになったファイツは、そっと息をついた。

(ラクツくん、本当に大丈夫なのかなあ……。ちょっとだけでも食べてくれると良いんだけど……)

声に出さずにそう呟きながら、目線をお盆の上に向ける。もちろん水も用意してあるけれど、温かいスープとパンケーキはラクツと彼のポケモン達の為に大急ぎで用意した物だった。スープから立ち上る湯気をぼんやりと見つめながら、ファイツはまたもや溜息をついた。ラクツは何度も”大丈夫だ”と言っていたけれど、彼が倒れた瞬間を目の当たりにした身としてはどうしたって不安になってしまうのだ。

(……あたしがこんな表情してたらダメだよね。ラクツくんだって困っちゃうだろうし、切り替えなきゃ……!)

涙が零れそうになっている自分に気づいてふるふると首を横に振ったファイツは、ふうっと息を吐いた。考え事をしている間に、いつの間にやらラクツがいる部屋の前まで来ていたらしい。

「……はえ?」

ここは自分の家だとはいえ、別の人間がいる部屋にいきなり入るのはいくら何でも失礼過ぎる。だからちゃんとノックをしようと思っていたのに、お盆を置く前にドアが開いたという事実にファイツは思わず小首を傾げた。まさか病人であるラクツに開けさせてしまったのだろうかと焦ったファイツの目に、つぶらな瞳をした水色のポケモンが映り込んだ。ラクツのポケモンのフタチマルだ。

「あなたが開けてくれたのね、ありがとう!」

ドアの傍に佇んでいるフタチマルに微笑んでお礼を言うと、ファイツはしっかりとお盆を持った。そして、打って変わって明るくなった部屋の中へと入る。用意をしている間に部屋の電気も点けてくれたのも、多分フタチマルなのだろう。そのことにも心の中でお礼を言ったファイツは、部屋の隅にある机の上に食事が乗ったお盆をそっと置いた。スープが零れていないことを確認してから、様子を確認しようとラクツの元へと歩み寄る。相変わらずベッドに横になったままのラクツが、顔を僅かに傾けるのが見えた。

「お待たせ、ラクツくん!」

遅くなっちゃってごめんねと謝りながら改めてラクツの顔を見たファイツは、次の瞬間愕然とした。今の今まで気づかなかったけれど、よくよく見れば彼の顔色はものすごく悪いではないか。”少し悪い”どころではなかった。最早土気色の顔をしている彼の目元にはそれは立派な隈が出来ていて、ファイツは思わず泣きたくなった。ラクツに怪我をさせてしまったに違いないという罪悪感で彼の顔をしばらくまともに見れなかったからとか、ようやく気持ちの整理がついた頃には既に部屋が薄暗くなっていたからというのは言い訳でしかない。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのだろうと、ファイツは自分自身を激しく責めた。
倒れてしまったラクツを病院ではなく自分の家まで運んだのは自分が原因を作ったのだと思い込んだというのもあるけれど、単純にそっちの方が近かったからというのが大きかった。だけど、そもそも医療関係者でもない一個人が出来ることなど高がしれているのだ。四の五の言わずに最初から病院に運べば良かったと、ファイツはぐっと奥歯を噛んだ。自分の判断ミスでラクツがどうにかなってしまったらと思うと、自然と涙がぽろぽろと零れ落ちてしまう。もう夜も遅い時間だ、夜の9時では病院も開いていないだろう。医者に診てもらわなかった結果ラクツの体調が急変しましたなんてことになったら、悔やんでも悔やみ切れない……。最悪の事態を想像して呆然と立ち尽くすファイツの耳に聞こえたのは、盛大な溜息だった。

「……また泣くのか、まったく。ファイツくんがそんなに泣く娘だとは思わなかったぞ」
「だって……っ!あ、あたしの所為でラクツくんが……っ。ラクツくんが……っ!」
「……何度も言うが、ボクが倒れたのは言わばボク自身の怠慢だぞ。思い起こせば心当たりがある。ここ最近は任務で忙しくて、あまり寝ていなかったからな。まあ単なる睡眠不足だろう。どうしてか身体が起こせないのが気にはなるが、もう少々休めば問題なく動けるはずだ。すまないが、それまでここにいさせてもらえると助かる」

落ち着き払った様子でそんな言葉を言い放ったラクツに、ファイツはただただ絶句していた。隈が出来ていることからしても、ラクツが碌に寝ていないであろうことは誰の目にも明らかだった。身体が起こせないくらいに疲れ切っているのだと告げた彼は、だけど少し休めば問題なく動けるはずだと言う。今の彼が睡眠不足であることは最早受け入れざるを得なかったが、だからといってラクツの言葉をそっくりそのまま受け入れるわけにもいかなかった。彼はもう少ししたらここを出て行くつもりのようだけれど、少し休んだ程度で放り出すなんてとんでもないとファイツは思った。それを許容したら最後、彼はまた無茶をするに違いない。そんなことになったら、それこそ本当に命に関わるかもしれない……。

「ダ、ダメだよっ!そんなこと、絶対ダメ!」
「……ああ、そうだな。分かった、今すぐ出て行く。……すまなかったな」

ああ良かった、分かってくれたんだ。ホッとしたのも束の間、ラクツが大きな勘違いをしていることに気づいたファイツは慌てて首を横に振った。

「ち、違うの!そういうことじゃなくて……っ!」
「……ファイツくん?」
「お願いだから、少しじゃなくてちゃんと休んで!じゃないとラクツくん、死んじゃうよ……っ!」

絞り出すような声でそう言ったファイツは、両目を大きく見開いたラクツを縋るような瞳で見つめた。涙でぼやけた視界の中で、ラクツが目を見開いたのが辛うじて見えた。