その先の物語 : 002
それはまるで、花のような
カーテンが引かれた部屋で、国際警察官であるコードネーム・黒の2号は困惑していた。見知らぬ室内で身を横たえているというこの状況が、さっぱり理解出来なかったのだ。確かに日光が降り注ぐ街中を歩いていたはずなのに、気が付いたら室内にいたというのはどう考えてもおかしい。それも、あろうことかベッドに横たわっていたのだから驚きだ。自分で寝床に入った記憶がまるでなかった黒の2号は、天井を鋭い目付きで見据えた。(ボクの身に、いったい何が起きたというんだ……?)
気付けばこの状態だったという時点で既に問題だが、一番の問題は身体が思うように動かないことだった。まるで身体が鉛になったように重くて、起き上がろうにも起き上がれないのだ。辛うじて動かせるのは首と腕くらいなものだ。これでは現状把握も碌に出来ないと顔を顰めた黒の2号は、馴染みのある水色を認めて無意識に目を細めた。相棒とも呼べる手持ちポケモンが、こちらをじっと見つめていた。
「フタチマル……」
カーテンの隙間から見える空が暗いことからしてそれなりの時間が経っているであろうことは察していたけれど、それにしては口から放った声の掠れが酷いような気がする。もしかしたら思っていたよりずっと長く横になっていたのかもしれないなと胸中で呟いて、黒の2号は眉間に皺を寄せた。そして、その表情のまま手持ちポケモンの様子を観察するべく目線を移す。薄暗くて確認し辛いが、少なくとも彼に怪我らしい怪我は見当たらなかった。
「……お前は無事か?」
確認の意味で問いかけた言葉を即座に肯定された瞬間に、小さな溜息が自然と漏れた。何が何やら状況がさっぱり飲み込めないのは相変わらずだけれど、フタチマルが無事でいるというのは大きな収穫だった。とりあえず、何者かに拉致されたという線は除外しても良さそうだ。少々考えにくいが、自分だけ野生ポケモンの攻撃を受けて気絶でもしていたのだろうか。
「フタチマル。すまないが、ボクを起こしてくれるか?この部屋から脱出したい」
いつまでもこうしているわけにはいかない、フタチマルが無事だというなら尚更だ。けれど自分だけではどうあっても身体を起こせないと悟っていた黒の2号はフタチマルの手を借りようと助けを求めたが、彼の反応は予想だにしないものだった。神妙な顔付きをしたフタチマルは、ゆっくりと首を横に振ったのだ。
「……フタチマル?」
まさか申し出を却下されるなんて夢にも思わなかった黒の2号は、音もなくその場を離れた彼を呆気に取られながら見送った。”おや”である自分を残していったいどこに行くのだろうという疑問は、けれど程なくして氷解することとなった。フタチマルのものではない小さな気配と足音がこちらに向かって近付いて来るのがはっきりと分かって、黒の2号はまたもや溜息をついた。あれはどう考えても人間から発せられるものだ。自分以外の人間がこの部屋にいたという事実に今の今まで気付けなかったなんて、国際警察官の名折れではないか。
「ラクツくん!」
思いも寄らない人物の登場に、無様なものだと内心で自らを嗤っていた黒の2号は大きく目を見開いた。フタチマルに手を引かれている彼女の顔には見覚えがある、あり過ぎると言ってもいいくらいだった。どうしてこの娘がここにいるのだろう?
「ラクツくん、大丈夫!?怪我してない?どこか痛いところ、ない!?」
「…………」
矢継ぎ早に投げかけられた問いかけに、黒の2号は何も返さなかった。別に彼女を無視したわけではなくて、果たして何と答えればいいのかが分からなかったのだ。今のところ痛みは感じないものの、何せこの現状だ。自分だけでは身体を起こせないこの状態は、どう考えても”大丈夫”とは言えないだろう。問いに対する最適解を無言で考えあぐねていた黒の2号は、次の瞬間ふと我に返った。枕元に立ってこちらを見下ろしている娘の瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちていることに気付いたのだ。
「ど、どうしよう……っ。ラクツくん、ラクツくん……っ!!あたしのこと、覚えてる!?……じ、自分の名前は!?」
何やら盛大な勘違いをしているらしい彼女が、そんな言葉を捲し立てながら顔をぐっと近付けて来た。その拍子に、彼女の茶色い髪の毛がさらりと揺れる。彼女の髪から香るのか、花のような甘い匂いが鼻孔をくすぐったことを頭の片隅でぼんやりと感じ取りながら、黒の2号は胸中ではあっと深い溜息をついた。2年振りに再会した彼女の問いかけにすぐに返答しなかったのは単に思考の海に沈んでいただけなのだが、結果的にはそれが大きな誤解を与えてしまったらしい。こんなことなら早く答えてやれば良かったと思いながら、黒の2号は口を開いた。記憶喪失にでもなったのかと思われるのは何となく癪だったし、耳元で大声を出されるというのもはっきり言って気に障る。それに何より、彼女の顔の近さが目に付いて仕方なかった。
「どうか落ち着いてくれ、ファイツくん。……ボクなら大丈夫だ。怪我もないし、記憶も失ってなどいない」
「ほ、本当?本当に本当!?」
「……ああ」
「よ、良かった……!本当に良かったよお……っ!」
意外にも強かったファイツの勢いに押されながらもとりあえず頷いてやると、彼女は「良かった」を何度も連呼しながら口角を上げた。怪我はないと告げたのが功を奏したのか、ほとんど密着させていた顔をようやく離した彼女をまじまじと見つめる。どうしてか身体を震わせているファイツの頬には、幾重にも涙の筋が見えていた。
「何も泣くことはないだろう。そもそも、何故キミがここにいるんだ?」
「あ!……あのね……。実はここ、あたしの家なの。ラクツくんのポケモンさんが運んでくれて……」
「……キミの?」
「う、うん……。だってラクツくん、急に倒れちゃったでしょう?」
そこで言葉を切ったファイツが眉根を寄せながらこちらをじっと見つめて来たが、黒の2号はすぐに答えるわけでもなく呆然としていた。倒れちゃったでしょうと言われても、まるで憶えがなかったのだ。
「ボクが、倒れた……?」
「……お、憶えてないの……?」
「ああ、まるで記憶がない。しかしキミのその様子からすると、どうやらボクが倒れたというのは歴とした事実であるようだな」
「そうだよ!あたしとぶつかったすぐ後で倒れちゃったんだから……っ!だからあたし、もう心配で……っ!」
「……ああ、なるほど。言われてみれば、確かに軽い衝撃を受けたような気もするな。そうか、ボクはキミと衝突したのか。……ところで、ファイツくん」
「は、はい……っ!」
改めて彼女の名を呼ぶと、ファイツは弾かれたようにびくりと身を震わせた。その蒼い瞳には、不安の色がはっきりと映し出されている。そんな彼女を見つめながら、黒の2号は先程からずっと気にかかっていたことを指摘するべく口を開いた。
「2年前にも告げたが、今のボクはもう”ラクツ”ではない。故に”ラクツくん”という呼称は、不適切だと思うんだが」
耳にするのも久し振りであるラクツという名前は、トレーナーズスクールを卒業した瞬間に捨てた名前だった。とうの昔に捨てた名を連呼されることがどうにも引っかかっていた黒の2号は、気は済んだとばかりに息をついた。しかし、ファイツはというとポカンと口を半開きにした状態で固まっていた。互いに無言で見つめ合ってから10秒程が経った頃だろうか。ようやく我に返ったらしいファイツがぎゅっと両の拳を握る様子を、黒の2号は何も言わずに眺めていた。
「い、今はそんなこと気にしてる場合じゃないでしょう!?ラクツくん、本当に大丈夫なの?」
「だから大丈夫だと言っているだろう。それに、言った傍からまた”ラクツくん”と呼んだな。何度同じことを言わせれば気が済むんだ?」
「わ、分かったからっ!……それじゃあ、本名を教えてくれる?」
当然と言えば当然の申し出に、黒の2号は「そんなものはないぞ」と返した。もちろん彼女をからかう意図があって言ったわけではなかった。嬰児の頃に捨てられた所為で、黒の2号には本名と呼べるものが存在しないのだ。
「本名がないって、そんな……」
「事実だ。嬰児の頃に捨てられていたから、ボクには本名と呼べるものがない。国際警察内部では基本的にコードネームで呼ばれているし、必要になったらその都度名をもらうだけだからな」
「そう、なの……?」
「ああ。既に捨て去ったが、直近の任務では人名図鑑から適当に拾った”キョウヘイ”と名乗っていた。”ラクツ”も、黒の2号というコードネームから適当に捩ったものだ。……それを思うと、黒の2号がボクの本名に当たると言ってもいいのかもしれないな」
「で、でも……。黒の2号くんだなんて呼べないよ……」
「嫌なのか?」
「嫌じゃないけど、何となく気が引けちゃうの。だって、何だか記号みたいなんだもん……。出来れば別の呼び方がいいんだけど……」
「別の呼び方、か。……そうだな、無難に”警視さん”でいいのではないか?」
そう告げると、ファイツはふるふると首を横に振った。先程のフタチマルにそうされた時も驚いたけれど、まさか彼女にまで申し出を却下されるとは思わなかった黒の2号は目を見開いた。嫌なのかと静かに問いかけると、今度はこくんと頷いた。どうやらファイツにとって警視さんという呼称をするのは相当な抵抗があるらしいが、そんな彼女の意図が黒の2号にはまるで理解出来なかった。そもそも警視さんと呼んで来たのは、他でもない彼女の方なのだ。
「何故だ?キミだって、以前はボクをそう呼んでいただろう」
「それはそうなんだけど、どうしても嫌なんだもん……。黒の2号くんでも警視さんでもなくて、ちゃんと名前で呼びたいよ……」
「そういうものなのか?ボクには理解出来ないが、嫌だと言うなら仕方ないな。……それではファイツくん、キミが名を付けてくれ」
「え?……いいの?」
「ボクはそれで構わない。人名であれば何でもいいぞ」
この言葉に目を瞬かせたファイツは、俯きがちになって口を閉ざしてしまった。どうやら本腰を入れて呼び名を考え始めたらしい。名前如きで何故そんなにも真剣に悩めるのだろうと不思議に思いつつも、うんうんと小さく唸っている彼女を黒の2号は黙って見つめていた。思考に没頭している以上は口を挟むべきではないし、そもそもその必要があるとも思えなかったからだ。いつの間にやら顔を上げていたファイツから発せられた「あのね」という言葉に、黒の2号は軽く頷いてみせた。どうやら呼び名が決まったらしい。
「……それじゃあ、”ラクツくん”がいいな。何だか他の呼び方だとしっくり来なくて……。今更だけど、ラクツくんって呼んでもいい?」
「ラクツ、か。……分かった、そう呼びたいなら好きに呼んでくれ」
一度捨てたはずの名を再び名乗るのは初めてのことだったが、何でもいいと言ったのはこちらの方なのだ。不思議な感覚に捉われながらもそう呼ばれることを了承してみせると、ファイツは嬉しそうに笑った。まさに満面の笑みと言える表情を浮かべた彼女を、”ラクツ”はまじまじと見つめた。ファイツという名の彼女は、果たしてこんな綺麗に笑う娘だっただろうか?
「あ、そうだ!ラクツくん、喉渇いてない?良かったら、何か持って来よっか?」
「…………」
「……ラクツくん?」
「ああ、いや……。そうだな、水を持って来てもらえるとありがたいんだが」
「うん!すぐ戻って来るから、ちょっとだけ待っててね!」
言うが早いが脱兎の如く駆け出して行ったファイツを見送ったラクツは、思わずフタチマルと顔を見合わせる。彼も彼で驚いていたようだけれど、ラクツだって驚いていた。今しがたファイツが見せた笑顔は、それは綺麗な笑みだった。まるで花が咲いたような笑顔だったと言っても過言ではないだろう。2年前によく見せていたものとは真逆の表情を浮かべた彼女のことが心底分からなくて、ラクツは眉間に深い皺を刻んだ。