その先の物語 : 001
prolouge
ある晴れた日のことだった。お昼ご飯は何を食べようかなんて考えながら町の中を歩いていたファイツは、前へと進めていた足をぴたりと止めた。何だか自分の名前を呼ばれたような気がしてならなかったのだ。その直感に従って、手の中にいるタマゲタケのダケちゃんと一緒に人々が忙しなく行き交う中をきょろきょろと見回してみる。そしてある一点に目を留めた瞬間に、ファイツは「あ」と声を漏らした。店の出入り口の周囲に設置されたテーブル席で飲み物を飲んでいる2人組には確かに見覚えがあったのだ。彼らの名前はヒュウとペタシ。ファイツの大事な友達だ。「ヒュウくん、ペタシく……きゃあっ!」
彼らの名を呼んで駆け出そうとしたファイツは、けれど目的地にたどり着く直前に盛大な悲鳴を上げることとなった。急に駆け出した所為なのか、無様にも足がもつれてしまった為だ。とっさに手を地面についたおかげでヒュウとペタシの前で派手に転ぶという最悪の事態こそ避けられたものの、恥ずかしいことをやらかしたという事実は霞むことはないのだ。すぐ近くで聞こえる笑い声を耳にしたファイツの顔中には、瞬く間に熱が集まった。恥ずかしくて堪らなかった。
「く、くく……っ。何やってんだよファイツ……っ。何もないところであんな盛大にこけるなんて、相変わらずドジなやつだな……っ」
「ヒュウ、何笑ってるっぺか!ギリギリだったし、ファイツちゃんに悪いだすよ……っ」
「同じようなもんだろ。それにそういうお前だって笑ってんじゃねえか、ペタシ。鏡で自分の顔見てみろよ、今にも吹き出しそうだぜ?」
「オ、オラは別に笑ってねえだすよ!」
「……本当?」
一縷の望みに懸けて、ファイツは気恥ずかしさと情けなさから地面に向ける他なかった顔を実にゆっくりと上げた。ヒュウに自分の失態を笑われるのは最早いつものことなのだが、ペタシがそうでないというならまだ耐えられるからだ。けれどそこにはお腹を抱えて笑っているヒュウと確かに今にも吹き出しそうなペタシがいて、ファイツは思わず頬をむうっと膨らませる。まったくもって自分が悪いとしか言いようがないのだけれど、それにしたって酷いと思ったのだ。
「そ、そんなに笑わなくたっていいじゃないっ!ダケちゃんだってそう思うでしょう!?」
助けを求めてダケちゃんを見たファイツは、けれど「え?」と声を漏らした。自分の所為で地面に投げ出されたダケちゃんはというと、こちらを見上げて怒るでもなく笑うでもなくありもしない肩をどうやってかひょいと竦めていたのだ。誰がどう見ても呆れ果てているとしか言えないポーズをする手持ちポケモンの姿に、とうとうファイツは涙目になった。
「ダケちゃんっ!何でダケちゃんはそんな態度なの!?」
「あっはっは、相変わらずだなファイツは。これじゃどっちが”おや”だか分かりゃあしねえぜ……っ」
痛いところを突かれてしまったファイツは、涙目のままヒュウを睨んだ。自分でもまさしくその通りだと思うのだけれど、それでも素直に認める気にはなれなかったのだ。だって手持ちポケモンに心配される”おや”なんて、あまりにも情けなさ過ぎるではないか。
「もうっ!ヒュウくんってばうるさい!ダケちゃんももういいでしょう!?と、とにかくあたしはもう行くから……っ!」
「何だよ、用事でもあるのか?久々に会ったんだし、一緒に何か食わねえかと思って声かけたんだけど」
「よ、良かったら一緒にどうだべな!?ここのカフェは割と新しいんだども、美味しいパフェで有名なところっぺよ!」
「ごめんね。気持ちは嬉しいけど、今日はちょっと……」
「え!?ファイツちゃんがパフェを食べねえだなんて、そんなのあり得ねえべ!どこか具合でも悪いっぺか!?」
ずいっと身を乗り出して来たペタシは、実に心配そうな表情をしていた。彼程ではないにしろ眉根を寄せているヒュウの物言いたげな視線も感じたから、ファイツは慌てて「違うの」と言った。
「別に具合が悪いんじゃないんだけど、今日は元々1人で食べるつもりだったの。ほら、あたしがこの町に戻って来てから結構経つでしょう?”やらなきゃいけないこと”も終わったし、そろそろ将来について真剣に考えなくちゃって思ってたから……」
「”やらなきゃいけないこと”?それってなんだべか?」
当然の如く投げかけられた問いかけに、ファイツは答を返さなかった。結果的には何の処罰も受けなかったとはいえ、自分がプラズマ団にいたという事実は永遠に覆ることはないのだ。関係者として何かをせずにはいられなかったファイツは、トレーナーズスクールを卒業したその日に罪滅ぼしの旅に出た。自分達プラズマ団が奪ったポケモン全てを、”おや”元に返すこと。Nと一緒に行ったそれが”やらなきゃいけないこと”の内容なのだが、正直言って人には知られたくないというのが本音だった。まして、こんな自分と仲良くしてくれているペタシが相手なら尚更だ。
「えっと、内緒!」
「内緒だすか?」
「うん。……内緒」
ごまかすように笑った自分を深く追及して来ないペタシも、そして”やらなきゃいけないこと”の内容を知っているのに黙っていてくれるヒュウも。どちらの対応も自分にとってはありがたいとしか言いようがなくて、ファイツは心の中でありがとうと言った。そのお礼というわけではないけれど、ファイツは「あのね」と続けた。
「実はね、女優をやってみようかなあって思ってるの」
「女優?ああ、ポケウッドのか。確かホワイトさんにスカウトされてたよな」
「うん。あの時は断っちゃったけど、本当はずっと気になってたの。いつでも大歓迎だからねってホワイト社長さんも言ってくれたし、思い切ってやってみようかなあって……」
「……ふうん、まあいいんじゃねえの?少なくともオレみてえにポケモンバトルをしまくるよりは、お前の性にずっと合ってるってオレは思うぜ」
「そう、かなあ……?」
「ヒュウの言う通りだべ!ポケウッドの名女優・ファイツ……。うん、いい響きだべな!」
「ありがとう、ペタシくん!」
「女優をやるにしてもよ、本名で通すのか?芸名とかつけねえの?」
「えっとね……。色々考えたんだけど、悩み過ぎてわけが分からなくなっちゃったの。だから、もう本名でいいかなあって」
ファイツは苦笑しながら首を縦に振った。どんな芸名にしようかとあまりに悩み過ぎた結果徹夜してしまったのも、今ではいい思い出だった。
「まあ色々あるだろうけど、辛くなったらオレ達に言って来いよ。愚痴くらいなら聞いてやるから」
ヒュウからの思いがけない言葉に、ファイツはぱちぱちと目を瞬いた。いつか彼に言われた言葉が脳裏に鮮明に蘇って、目頭が熱くなる。今でもよく憶えている、あれはトレーナーズスクールの卒業式が始まる前のことだった。”やらなきゃいけないこと”を決めた自分に対して、ヒュウは「責められたらオレに言えよ」とぶっきらぼうに声をかけてくれたのだ。結果的には連絡することこそなかったものの、その温かい言葉にどれだけ救われたことか。
(相変わらず優しいよね、ヒュウくん)
そう、彼は口は悪いだけで心優しい人なのだ。そんな彼に対して微笑みかけると、ヒュウは鼻を鳴らして自分から目を逸らした。照れ隠しとしか言えないその反応を見たファイツはくすくすと笑う。彼が怖いと思った時期が存在したことが、今では本当に信じられないくらいだった。
「何だよ、人の顔見て笑いやがって」
「あ、ごめんねヒュウくん。あのね、何て言えばいいのかな……。……うん、さっきのお返しかな?」
「意味が分からねえよ!」
「だって。理由を言ったら、ヒュウくん絶対怒りそうなんだもん」
「相変わらず仲がいいっぺな、2人共。いつの間にそんなに仲良くなったのかがオラには分からねえだす。……お邪魔虫は退散した方がいいだすか?」
「ああ!?何言ってるんだよペタシ!?」
ぼそりと聞こえたその言葉に噛みついたのはヒュウだった。彼は今や、親友であるはずの人間を射殺さんばかりに鋭い視線を向けていた。あまりに勢いよく顔を動かした所為で、ヒュウの前に置いてあるグラスの氷がカランと音を立てる。
「へ、変なこと言うなよな!ファイツはオレにとって放っておけねえ妹みてえなもんで、断じてそういうんじゃねえから!」
「そうだよペタシくん、あたしとヒュウくんはそんな関係じゃないよ。ヒュウくんはね、あたしの大事な友達だもん。あ、もちろんペタシくんのことも大事な友達だって思ってるよ?」
「……そうっぺか?」
「そう!そうだぞペタシ!」
「うん。あたしとヒュウくんは、ただのお友達だよ」
「ね?」と顔をヒュウの方へと向けたファイツの目に、それはもう勢いよく首を縦に振っている彼の姿がしっかりと映り込む。先程の2人ではないけれど、ファイツは笑い出してしまいそうになる自分を何とか抑え込んだ。自分達が言っていることは事実でしかないわけなのだけれど、こうも必死に否定されるとあらぬ誤解をペタシに与えてしまいそうだ。
(もしかしてヒュウくん、好きな人でもいるのかなあ……?でも、ここで訊いても絶対に教えてくれないよね……)
今度ライブキャスターで訊いてみようかなあなどと考えていたファイツの耳に、ある3文字の単語が飛び込んで来た。物思いに沈んでいた意識が、一瞬で浮上する。
「え……っ?」
「あ、またぼうっとしてたっぺな。ラクツは今何してるのかって、ヒュウと話してたんだべ!」
「ラクツ、くん……?」
「そう、ラクツだよラクツ。トレーナーズスクールで一緒だったじゃねえか。……何だよ変な顔して。まさかお前、あいつのこと忘れたのか?」
「ううん、憶えてるけど……」
ヒュウの問いかけに答えたファイツは、そこで言葉を切った。ラクツと名乗っていた少年のことは、ヒュウにわざわざ聞かれるまでもなくちゃんと憶えていた。例え忘れろと言われたところで無理な話だった、それこそ一生忘れることはないだろう。
「えっと……。急に彼の名前が出て来たから、ちょっとびっくりしただけなの」
「あー、そういうことか。仕方ねえよファイツ、ペタシが脈絡もなくラクツの話をするのは今に始まったことじゃねえんだから。オレと2人でいる時なんてしょっちゅうだぜ?」
「だってオラ、ラクツに憧れてただす!だども、今何してるか分からねえっぺ……。ああ、何で連絡先を訊いておかなかったんだべか、昔のオラ……!」
「まったく薄情なやつだよな。まあラクツのことだ、元気でやってんだろ」
「そうかなあ……」
風が吹けば消えてしまいそうな程に小さい自分の呟きは、結果としてヒュウやペタシの耳に入ることはなかったらしい。ファイツはホッと安堵の溜息をついて、そこでやっと自分を見上げているダケちゃんの視線に気が付いた。いつから自分を見つめていたのかは分からなかったが、そのつぶらな瞳は「お腹が空いた」と確かに言っている……。
「ご、ごめんねダケちゃんっ!」
「そいつがどうかしたのか?」
「す、すごくお腹が空いてるみたいなのっ!……ヒュウくんペタシくん、もう行くね!今度は一緒に食べようね!」
言うが早いが、ファイツはダケちゃんを拾い上げて脱兎の如く駆け出した。何だか逃げてしまったような気もするけれど、ダケちゃんが酷くお腹が空いているらしいことは事実なのだ。もしかしたらあらぬ誤解をさせてしまったかもしれないペタシには、今度会った時にでも説明すればいいだろう。
「…………」
人の海の中へと戻ったファイツは、歩きながらそっと溜息をついた。ダケちゃんに早くご飯を食べさせてあげなきゃと頭では思うのだけれど、別のことが気になって仕方がなかった。理由はとうに分かっている、あの3文字の名前を耳にした所為だ。
(……久し振りに聞いたな、ラクツくんの名前)
”ラクツくんはどうしてるんだろう”と、ファイツは声に出さずに呟いた。ヒュウの言う通り元気でやっているならいいが、果たしてそれはどうなのだろうか。”ラクツ”のことを理解しているなんて口が裂けても言えないけれど、それでもファイツは彼を知っているのだ。少なくとも、ヒュウやペタシや元E組のクラスメイト達よりは”ラクツ”を理解していると言っていいだろう。その差異によるものなのか、あるいはただの自分の勘か。根拠は何もないと分かってはいるものの、どういうわけか胸がざわついて仕方がなかった。
(まだあの仕事を続けてるのかな……。今、どこにいるんだろう……。怪我とかしてないといいんだけど、そうもいかないんだろうなあ……)
今や完全に”ラクツ”へと思いを馳せていたファイツは、突如として感じた衝撃にきゃあっと本日二度目の悲鳴を上げた。”無事でいてくれたらいいな”なんて考えていた直後のことだった。どうやら彼のことを考えていた所為で、誰かにぶつかってしまったらしい。自分の振る舞いに内心で文句を言いつつも「ごめんなさい」と謝ろうとしたファイツは、だけど口を開いたまま呆然として固まった。ものの見事にぶつかられたというのに無言でこちらを見下ろしている”彼”の姿に、どうしたってそうならざるを得なかったのだ。どうして彼がここにいるのだろう?
「……ラクツ、くん……?」
驚愕によって目を大きく見開いたファイツは、彼の名前を震え声で口にした。だけどそれでもなお、”ラクツ”は何の反応も返さなかった。実に2年振りに会った彼は、完璧としか言いようがない程の無表情でこちらをじっと見つめていた。