黒の少年と白の少女 : 026
その男、悪魔につき
「ここにいたのか、ヒュウ」突如として耳に飛び込んで来た声で、熱心に本を読み込んでいたヒュウは弾かれたように顔を上げた。こちらを見下ろしているその男の姿を認めたと同時に、唇からは勝手に呻き声が漏れる。いつの間に傍まで来たのだろう、まったく気付かなかった。国際警察官だなんだと言っていたが、本当は忍者なのではないだろうか。
「お前、ラクツ……っ」
彼の名を呼んだはいいものの、そこでヒュウは言葉に詰まった。何を言えばいいのかが分からなかったのだ。黙ったまま自分を見下ろしているこの男は”昨日のあいつ”と同じ表情をしていて、ヒュウは眉間にぐっと皺を寄せた。昨日の出来事が夢ではなかった事実をはっきりとその身に突き付けられて、否が応でも緊張感と警戒心が高まる。こうしてのんきに椅子に座っていていいのだろうか、今すぐにでも逃げ出した方がいいんじゃないかと思い始めたその時、ラクツがふっと息を吐いた。
「……っ!」
極度の緊張状態にあったヒュウはラクツの動作に反射的に立ち上がったが、逃げ出すことは叶わなかった。右手首が他でもない彼にしっかりと掴まれていたからだ。図書室からの逃亡はどうあっても出来ないのだと、この男からは決して逃げられないのだと。ほんのわずかな時間で、しかし現実を本能で理解する。悔しいが、今の自分ではどんなに頑張ったところで彼に勝てないだろう。手持ちであるビブラーバが足元で自分の指示を今か今かと待っているわけだが、彼に命じて攻撃を繰り出そうとも思えなかった。例えそれが出来たとしても、この男には一切通用しないだろうという確信すらある程だった。結局そこから一歩も動けないまま、ヒュウは「分かったよ」と掠れ声で呟いた。降参の意を示したのだ。
「賢明な判断だな。理解が早くて助かる、キミに対して余計な労力を遣わなくて済むからな」
右手の拘束を瞬時に解いた彼は、相も変わらず淡々とした口調でそう言った。その顔はやはり無表情で、何の感情も含まれてはいない。おそらくはこちらに対して一欠片の興味もないのだろう。どこまでも無表情な彼がまるで人形か何かに思えて、ヒュウは落ち着けと自分に言い聞かせた。その時になって頬を汗が伝っていることに気付いて、指でそれを拭ってから深く息を吐き出す。頬どころか全身汗をかいていることにすら、今この瞬間までまるで気付かなかった。それ程までにこの男から滲み出る雰囲気にのまれたということなのだろう。
(……こいつ、いったい何を考えてやがるんだ?)
降参はしたものの、ヒュウは油断なくラクツを見返していた。流石に昨日の今日だ、いくら知っている仲と言っても警戒を完全に解くことは出来なかった。
「別に、ボクはキミに危害を加えようなどとは考えていないぞ。身構えるだけ無意味だと思うのだが」
「……っ!……お前、そういうことは早く言えっての!ビビッて損したじゃねえか!」
「ボクに文句を言われても困る。キミが勝手に怖気付いただけのことだろう」
「お前のその表情が怖えんだよ!大体、いつもの軽いお前はどこに行ったんだよ!?」
「今更それを訊くのか、あれは演技に決まっているだろう。……ふむ、理解が早いと言ったのは撤回させてもらおうか」
「……ああもう、何なんだよお前!わけが分かんねえよ!!」
薄々分かってはいたが、教室での彼の姿は演技だったということらしい。詐欺師か何かかと心の中で突っ込みつつ、ヒュウは淡々と言葉を紡いだラクツに数秒遅れて噛みついた。危害を加える気がないなら尚更さっきのやり取りは何だったんだよと毒づく、例え酷い報復を受けたとしてもいい、これだけはどうしてもはっきりと言いたかった。
「ヒュウが逃げ出そうとするから阻止したまでだ。別段そうなったところで問題もないが、キミを追いかけること自体が面倒でな」
「……意外と物臭なやつだな、お前」
「物臭、か。必要なこと以外はしない主義だが、そうとも言えるか。……まあそんなことはどうでもいい、ボクはキミに用があってここに来た。図書室にいるとは正直予想外だった、他の生徒がいないことは好都合でしかないが」
「オレがここにいちゃ悪いかよ。オレだってなあ、本くらいは読むんだよ!いいじゃねえか、今は自習時間なんだからよ!」
本が似合わないという自覚はあったが、改めて他人からそう言われるのは嫌なものだ。しかもそれを言ったのはよりにもよってこの男で、ヒュウは思い切り眉間に皺を寄せてやる。いつもバトルばかりをしているからたまにはと思って図書室に来たのだけれど、ここで彼に会うなんて思わなかった。手持ちであるビブラーバのいい鍛え方についてああでもないこうでもないと知恵を絞っていたというのに、おかげで全て頭から吹っ飛んでしまっていた。その鬱憤を晴らしたいヒュウはまたもや大声で噛みついたが、ラクツはそんな自分にやっぱり興味なさげな視線を向けた。
「別に、悪いとは言っていないだろう。以前から思っていたが、キミはもう少し感情を抑えるべきだ。ポケモンバトルの腕がいくら強くとも、すぐに熱くなっていては為すべきことも為せなくなるぞ」
「為すべきこと……」
「強く、なりたいのだろう?」
静かに告げられたその言葉に、ヒュウは黙って頷いた。確かに彼の言う通りだった。妹の為に、自分自身の為に、そしてプラズマ団に奪われたチョロネコの為に。どうしても叶えたい願いを叶える為にも、ヒュウは今より強くならなくてはいけないのだ。煮えたぎっていた頭の熱がすっと引いていく。
「キミがどうして実力を付けたいのかは訊かない。そもそも興味もないわけだが、それでも約束をしたからな。多忙である以上ボク自身が修行を課すことは少ないだろう。基本的にはファイツがキミを鍛えることになる」
「あー……。そういやあいつは大丈夫なのかよ?何か、すげえ取り乱してたみてえだけど……。今日だって、オレを見るなり逃げ出しちまうし」
頭に蘇ったのは、今朝の出来事だ。流石にファイツの様子が気になっていたヒュウは、教室で彼女を見た瞬間に密かに胸を痛めたのだ。彼女の顔についた傷が、自分が原因でついた傷が、どうしてかやけに目について仕方がなくて。自分を鍛えてくれると言った彼女に対して礼はしても謝っていなかったことに気付いて、女子共達に囲まれているファイツの元へと勇気を出して歩み寄ろうとした矢先のことだった。「昨日は悪かった」の”き”の字を言う前に、彼女はどうしてかさっと身を翻してその場から逃げてしまったのだ。
「ああ、それはあの娘がキミの背後にいたボクに気付いたからだろうな。別にキミが要因というわけではない」
「お前、あの転校生とどういう関係なんだよ?何か、前からの知り合いみてえだけど」
「あの娘は、ボクの幼馴染でな。国際警察官になるべく、幼い頃から共に育った」
「……ああ、そういや前に妹みたいな幼馴染がいるって言ってたっけ……。だけどよ、その幼馴染に嫌われていいのかよ?」
「ボクがファイツに嫌われる、か。それはあり得ないな。あれはただ恥ずかしがっているだけで、断じて嫌われているのではない」
余程自信があるのか、はたまた動揺を表に出さないだけなのか、そもそも何も感じていないのか。とにかく無表情のままはっきりとそう言い切った彼に、ヒュウは思わず憐れみの視線を向ける。もしかして、こいつってものすごくポジティブな性格なんじゃないだろうか。声に出さずに内心で呟いた途端に、何故か心の声を聞き取ったらしいラクツの片眉がほんの僅かに上がった。
「……別に教える義理もないが、誤解されるのは不快だから告げておこうか。ボクとファイツは確かに幼馴染だが、同時に将来を誓い合った仲でもある。歴とした恋仲だ」
「……は?」
淡々と言い放たれた言葉を理解したヒュウは、思わず間抜けな声を出した。爆弾発言をかましたラクツをポカンと口を開けて見つめる。将来を誓い合ったということはつまりあれなわけだが、だけど嘘だろと誰にともなく内心で呟いてみる。だって、自己申告が嘘でなければ彼等はまだ12歳のはずなのだ。
「まあ、そういうわけだ。ファイツの前で声を不用意に荒げるのは金輪際止めてもらおうか、あの娘が怖がる」
「えーっと……。おい、ラクツ?」
「……さて。余計な時間を取られたが、本題に入らせてもらうぞ。キミを鍛えるとは言ったが、やはり自らを鍛えねば強くなるものも強くなれない。見たところそこのビブラーバのレベルはそれなりに高いようだが、肝心のトレーナーの実力がその域まで達していないな。ビブラーバと比較してあまりにも低過ぎる」
問いかけを綺麗に無視したラクツはそこで言葉を切ってこちらを一瞥したが、ヒュウは彼の言葉に怒りを覚えるどころではなかった。その歳で結婚を前提につき合っているという衝撃の事実を聞かされたことにより、見事なまでに混乱状態に陥っていたのだ。
「ポケモンバトルの腕を磨く前に、まずはキミ自身の実力を引き上げるべきだろう。早速今日の放課後から訓練開始だ、ファイツにも話をつけておく。……ボクの話を聞いているのか、ヒュウ?」
「お、おう!今日からやるんだろ、望むところだぜ!ビブラーバと一緒に強くなってやる!」
ヒュウは拳を握り締めて力強く答えた、強くなれるなら何だってしてやると決意も新たに意気込む。「今日から一緒に頑張ろうな」と足元に佇んでいるビブラーバに話しかけたところで、ラクツの盛大な溜息が飛んだ。
「何を言っているんだ?断言してもいいが、そのビブラーバの出番は早々には来ないぞ。やはり、ボクの話を聞いていなかったな」
「……んだよ、オレを鍛えてくれるんじゃねえのか?」
「嘘は言っていない、”まずはキミ自身を鍛える”と言っただろう。ビブラーバを更に鍛えるのは、キミの修行が一段落した頃だな。その身1つで崖を登れるようになるのは当然として、そのビブラーバを使わずに野生ポケモンを制圧出来るようになれれば上々と言ったところか」
「……は?」
「とりあえず、今日は体力を付けるところから始めよう。腕立て伏せと腹筋をそれぞれ1000回に加えて走り込みをやってもらおうか。断っておくが、ファイツがいるから不正は出来ないぞ。強くなりたければ、地道に努力をすることだな」
そう言うなりラクツは踵を返して図書室を出て行った、どうやら言いたいことは全て言い終えたらしい。ビブラーバと共にその場に取り残されたヒュウは、彼が扉を閉めた音ではっと我に返った。当たり前のように告げられた言葉を思い出して、それはそれは深い溜息をつく。
「あいつ、実は悪魔なんじゃねーの……?」
国際警察官だと言っていたが、あいつは悪魔だとヒュウは思った。忍者でも人形でも詐欺師でもない、ただの悪魔だ。もしくは鬼か。
「……やってやろうじゃねえか……!」
強くなれるなら何だってしてやると誓ったのはまさに自分自身なのだ。静かな図書室で1人、ヒュウは自己を鼓舞するべく拳を思い切り強く握り締めた。