黒の少年と白の少女 : 027
がんばりや
放課後だからとやって来た鬱蒼と木々が生い茂る森で、ファイツははあっと深い溜息をついた。腕立て伏せと腹筋を1000回やり切った後、ふらふらになりながらも走り込みに行ってしまったヒュウが心配で仕方なかったのだ。開けているとはいえ暗い森の中にぽつんと立っているからだろうか、頭には次々と良くない考えが浮かんで来てしまう。「本当に大丈夫かなあ……。倒れてたりしたらどうしよう……」
ライブキャスターに表示されている時計を見て、そっと息を吐いた。数字上はヒュウが行ってしまってから15分が経っていることを表しているのだけれど、体感では1時間以上にも感じられる程だった。心配で堪らなくなったファイツは、ダケちゃんと彼の手持ちのポケモンであるビブラーバに心に浮かんだ不安を吐露してみた。しかし不安感は収まるどころか却って膨れ上がることになってしまい、思わず身体を大きく震わせる。倒れているだけならまだいいが、最悪野生ポケモンに襲われているかもしれない……。
「やっぱりあたしも一緒に行けば良かったかなあ……」
ファイツはまたしても溜息をついた。頭の中に、ヒュウとのやり取りがひとりでに浮かんで来る。ラクツが事前に話をつけていたおかげなのか、特訓メニューの内容を告げた時の彼は文句一つ零さなかった。まずは腕立て伏せと腹筋をそれぞれ1000回ずつ行って、ほんの少しだけ休憩を挟んだら走り込みをしてもらう。一般人にはかなりきついであろう国際警察官お馴染みの特訓メニューに果敢に挑んだ彼は、誰がどう見ても疲れ切っていた。まさに満身創痍、疲労困憊だ。言うまでもなくその足取りはふらふらで、だけどヒュウは何とそのまま走り込みをするのだと言い張ったのだ。初日からぶっ続けで特訓をするのはいくら何でも無茶が過ぎる。そう判断したファイツは彼を引き止めたのだけれど、「止めるな」と言われてしまった。しかも、物理的に止めようと伸ばした手まで振り払われてしまった。それでも引き下がれずに彼の背中に向けておずおずと「心配だから一緒に走ろうか」と言ってみたら、きっぱりと断られてしまった。それが、時計上では15分前の出来事だ。
(はあ……。付いてくるなって言われちゃったんだよね、あたし……)
ただでさえ気が強くない自覚があるファイツだ。振り絞ったなけなしの勇気は、ヒュウにきっぱりと断られたことで急速に萎んでいった。
(危なっかしいからそこにいろ、かあ……。うう、一応これでも国際警察官なんだけどなあ……)
もちろん、ヒュウに他意はなかったことだろう。だけどファイツは、その一言で思い切り怯んでしまったのだ。危なっかしくなんてないよと言い返せないのが情けなくてならなかった。ドジだと言われたわけだが、色々と身に覚えがあり過ぎたのだ。どうしてあたしっていつもこうなんだろうと溜息をついた瞬間にぎゃあぎゃあという鳥ポケモンらしき鳴き声が聞こえて、ファイツは我に返った。鳴き声の所為か時間帯の所為なのか、つきまとう不安感が更に高まっていく……。
「…………」
ヒュウが走り込みに行ってしまった方向を、ファイツはじっと睨んでみた。だけどどれ程目を凝らしても、人影はどこにも確認出来なかった。
「…………」
薄暗い森というのは、どうしてこんなにも不安になるんだろう。森の出入口を睨みつけながらそんなことを思った。断られた以上は無理に追い縋るわけにもいかないとファイツは1人森の中で待つことを決めたが、その結果がこれだった。彼の身に何かあったのではないかと、誇張抜きに10秒毎に気を揉む始末だ。
「……よし、決めた!」
”やっぱりあたしもヒュウくんと一緒に走ろう”。そう誰にともなく宣言したファイツは、気合を入れるかのように拳をぐっと握った。正直言って悩んだものの、やっぱり自分の心に嘘はつけなかった。それに、自分はラクツに「彼を頼む」と言われているわけで。つまりは彼を監督する責任があるのだ。突っぱねられるならそれでもいい、例え結果的に嫌われたって構わない。ただ、自分の所為でヒュウの心身が傷付くのだけは嫌だった。頑張っているヒュウを護れるのは自分しかいないとばかりに、両頬をバシバシと叩いて更に気合を入れる。
「……あれ?」
これから走り込みをするのだからと入念な準備運動を行っていたファイツは、だけどその途中で間の抜けた声を上げた。鳥ポケモンの不安感を煽る鳴き声に混じって、森の奥から微かな音が聞こえたような気がしたのだ。ラクツ程聴覚が優れているわけではないけれど、あれが人間の足音だということは自分にも分かる。わざわざ目を凝らすまでもなかった。やっぱりふらついて聞こえる足音を奏でる人間の心当たりなんて、ファイツには1人しか思い浮かばないのだから。
「ど、どうだ……。やり遂げてやったぜ、転校生……」
思った通り、こちらに近付いて来るのはヒュウだった。ぜえぜえはあはあと実に苦しそうな息遣いをしている彼の足取りは、ここまでたどり着けたことがむしろ不思議に思えるくらいに覚束ないものだった。流石に疲労が限界を超えたのか、途切れ途切れにそう言い終えたと同時にヒュウは固い地面にばたんと倒れ込んでしまった。そんな彼に、ファイツは慌てて駆け寄った。電池が切れたかのような倒れ込み方で、何だか嫌な想像を急速にかき立てられてしまったのだ。
「…………」
地面に横たわったままぴくりとも動かないヒュウをまじまじと見つめて、ファイツは思い切り胸を撫で下ろした。ああ良かった、息をしてる。気絶しているだけで彼が死んでいなかったことに心の底からホッとしてから、そっと吐息を漏らす。反射的に良かったねなんて思ったものの、生きていたから良かったねと片付ける気にはなれなかった。本人も納得済みのことだとは言え、初日から飛ばし過ぎているような気がしてならない。詳しいことはよく分からないのだけれど、ヒュウには何としても強くなりたい理由があるようだ。
「あたしと一緒だね、ヒュウくん」
ビブラーバやダケちゃんと一緒に泥まみれで擦り傷だらけのヒュウを見下ろして、ファイツはぽつりとそう呟いた。返事がないことは分かっているけれど、そして偉そうなことを言っているとも分かっているけれど、そう言わずにはいられなかった。
とにかく早く強くなりたいのだろうか、どうもヒュウからは常日頃から焦燥感が滲み出ているように思えるのだけれど、その感覚にはファイツにだって覚えがあった。思い出すのは幼き日の、今より更に体力がなかった頃のことだ。眉一つ動かさずに平然とこなしていたラクツの役に立つのだと、地獄の特訓メニューを死に物狂いで行ったものだ。自分の何歩も先を歩く大好きな人に早く追いつくのだと、毎日毎日必死になって自分なりに努力を重ねたものだ。そう、あの時努力したおかげで今の自分があるわけで。体力作りに近道なんてありはしないと知ってはいるけれど、早く強くなりたい彼の気持ちが分かるような気がした。
「……あたしも精一杯協力するからね。だから、一緒に頑張ろうね!」
努力の果てについた、同年代の女子よりは間違いなくあると言える筋力を活かして、柔らかい草の上に眠っているヒュウを運ぶ。それでも一向に起きない彼を、頑張ったもんねと労うことも忘れない。彼が起きたら今呟いたものとそっくり同じ言葉を告げるのだと決めたファイツは、訓練初日にしてメニューをきっちりやり遂げたヒュウの隣にそっと腰を下ろした。