黒の少年と白の少女 : 025

誓い
国際警察官を辞すると決めたとはいえ、今の自分が奉職中の身であることに変わりはない。そんなわけで、ラクツは仕事を片付けるべくパソコンのキーボードを叩いていた。どうしてか口付けた直後に気を失ってしまったあの娘の様子が気にならないと言えばそれは嘘になるが、何しろ早急にやらなければならない業務が多いのだ。潜入任務の進捗状況をパソコンに入力することから例の件に関する報告書の作成など、挙げればそれこそ山のように出て来る始末だ。更には警察官を辞する選択をしたことで自分達の将来も考えなければならなくなったわけで、この現状を思うと尚更時間を無駄には出来なかった。

(とりあえずはこんなところか……。随分時間がかかったものだ)

報告書を長官宛に送信したラクツは、パソコンの画面を一瞥して軽く嘆息する。自分が仕事に取りかかってから一段落つくまでに、早くも3時間程が経過していた。休むことなく集中して取り組んだ甲斐あって、山積していた業務を減らすことが出来たのは大きい。全てをやり切ったわけではないものの、誰の手も借りずにあれだけの量をこなしたのだから上々の結果と言えるだろう。例外として”ファイツの身体に快楽を覚え込ませる任務”だけは何一つとして進んでいないわけだが、これは最初から着手する気がないのだから当然だった。
この任務に関する進捗状況を一向に報告しない自分に対して、長官はどのような処分を下すのだろうか。他でもない自分自身のことながら、ラクツはどこか他人事のように思考する。任務を放棄したわけだから解雇処分が妥当だろうが、もしかしたら減給か降格程度で済まされるかもしれない。報告をした際の長官の言動を思い返してみると、その可能性は充分に考えられた。しかし例えそうなろうとも、ラクツは国際警察官としてこの先の人生を歩むつもりは最早なかった。自分が国際警察官のままでいたら、あの娘は無理にでも名ばかりの秘書であろうとするに違いない。

(今にして思うと、ファイツがあの時気絶したのは幸運だったな)

もしも自分ではなくあの娘が報告に行っていたら、果たしてどうなっていたのだろうか。正直考えたくないが、任務失敗にかこつけてその場で長官に抱かれていたに違いないとラクツは思った。例えあの娘がどれ程涙を流そうが非情な現実に耐え切れずに途中で気絶しようが、構わずに事に及ぶことだろう。抱かれる方の意識があろうとなかろうと、抱く方は性欲を満たせればそれでいいのだから。

「…………」

経験自体は未だにないものの、性行為に対する知識を人並みに獲得していたラクツはその場面を脳裏に描いて眉間に皺を深く刻んだ。望んでもいない交わりを強いられるファイツの姿を想像すると、やはりどうしようもない程の嫌悪感と不快感が込み上げて来るわけで。それを思えば、警視という地位を失うことくらい何でもなかった。

(国際警察官でなくなる、か……。ボクの中では既に確定事項なわけだが、この学校に潜入した時には考えもしなかったな)

ファイツは何やら負い目を感じていたようだが、ラクツ自身に憂いや未練は欠片もなかった。解雇処分を受けようが、事実上の親である長官に勘当されようが、ファイツの心身を護れたのだからそれでいいとラクツは思っている。自己を取り巻く環境故にこれまでを警察官として生きて来ただけであって、別に国際警察官という職に執着していたわけでもないのだ。それよりも次の仕事を何にするかを考える方が余程建設的だろうと、ラクツは思考を早々に切り替える。出来ることなら今まで通りあの娘と組んで仕事をしたいものだが、何の職に就くのがいいだろうか……。

「……ラクツ、くん……」

ふと聞こえて来たその声に、思考の海に沈んでいたラクツははっと我に返った。言うまでもなくそれは、ベッドに寝かせていた娘のものだった。

「起きたか、ファイ……」

ラクツはそう言いながら顔を横へと向けて、しかし思っていたのとは違う光景に続けようとした言葉を飲み込んだ。自分にとって唯一無二の存在である娘が、相も変わらずベッドですうすうと寝息を立てているのが確認出来る。てっきり起きたものだとばかり思っていたのだが、どうやらそれは勘違いだったらしい。彼女の傍にいるフタチマルが首を横に振ったということはつまり、気恥ずかしさ故に狸寝入りをしているわけでもないのだろう。

(……なるほど。先程の声は寝言か、この様子なら大丈夫そうだな。……それにしては随分大きいような気もするが)

何せ、触れるだけのキスをしただけだというのにファイツは気絶してしまったのだ。病気やそれに準ずる何かが彼女の身を襲ったのではないかと考えていたラクツは、どう見ても気持ちよさそうに寝入っている彼女を目の前に内心で安堵した。これならマジシャンのところに連れて行かなくても済みそうだと呟きつつ、椅子をベッドの傍に移動させる。どうせならファイツを見ながら休憩を取ろうと思ったのだ。

(どうやら相当に疲労しているようだな……)

静かに椅子に腰かけて、何をするでもなくファイツを見つめる。こんなにも近くに座っているというのに、彼女は寝息を立てるだけで起きる気配を一向に見せなかった。それは即ちこの娘が自分を信頼してくれている証でもあるのだろうが、この場合はそれだけではなく単に疲れているからなのだろうとラクツは推測した。重大なミスを犯したというだけでも多大なるショックを受けただろうに、ともすればそれ以上かもしれない衝撃的な事実を知らされたのだ。これでは彼女でなくても疲労して当たり前だ。

「……次の職は、身体への負担が楽なものにしてみるか」

国際警察官という職は実入りはいいがその分危険も多く、幼い頃は特に怪我をしていたものだった。例え収入が落ちようとも、肉体的疲労が少ない仕事に就くのもいいのかもしれない。ファイツの顔についた切り傷を見つめながらラクツはそう思った。決して浅い傷とは言えないそれらは、ヒュウによって付けられたものだ。

「…………」

彼女本人は避けられなかったから自業自得だなんて言っていたものの、ラクツはまたもや眉間に皺を深く刻みつつ軽く息を吐き出した。怖いとか、かわいそうだとか。そういう言葉は自分とは無縁だと思っていたが、どうやらそういうわけでもないらしい。浅くはないがかと言って急を要する程に深くもない傷が、今更ながらに痛々しいと思えて仕方がなかった。任務で怪我をする度に泣きそうな顔を見せるこの娘の気持ちがようやく理解出来たような気がして、まったく愚かしいものだと自身を胸中で嘲った。
自分のこともこの娘のことも、まるで見えていなかった。自分なりに大切にしていたのだと思っていた彼女を、しかし実際には大切にしていなかった。けれどそれでも、こんな男をこの娘は好きだと言う。大好きなのだと、一欠片の迷いもなく言い切ってくれる。頬を赤く染めながら好きだと言ってくれた彼女の姿を思い返して、ラクツは無意識に口角を上げた。

「これからは、お前を大切にするから」

自身をファイツの言うように”優しい人間”であるとはとても思えないのだけれど、それでもこの娘には優しくありたいと強く思った。その決意を声に出しつつ、ファイツの頭を撫でようと左手を伸ばす。泣いているこの娘を落ち着かせる為だけにしていた機械的な行為を違う意味でするのは、まさにこれが初めてだった。

「…………」

突如として視界に飛び込んで来た小さな白い物体に、彼女の頭を撫でるはずだった手がその直前でぴたりと止まる。はあっと溜息をついた後で、ラクツは自分をものすごい目で睨んでいるダケちゃんをまっすぐに見返した。

「キミがボクを不快に思うのも理解出来るが、今はとにかく気を鎮めてくれないか」

それなりにつき合いが長いというのにダケちゃんが自分にはまるで懐かなかった理由が、今ならはっきりと理解出来る。つまり、ダケちゃんはこちらに嫉妬のような感情を抱いていたのだろう。その上3時間程前に慕っている”おや”が快く思っていない男に口付けをされたと来れば、このような目付きをしても仕方ない。

「ダケちゃん。あまり殺気を出していると、ファイツが目を覚ますぞ」

そう静かに諭しても、ダケちゃんは依然として強い殺気を滲ませた目でこちらを見上げて来るだけだった。元来好かれていたわけではないが、それにしても随分と嫌われたものだ。しかしラクツは、ダケちゃんがどれ程自分を嫌ってもファイツを手放すつもりは更々なかった。もし彼女が自分の願いを聞き入れてくれなかったら、力ずくでもどこか遠くに連れ去ろうかと密かに画策していたくらいなのだ。

(ボクの思惑は結局実現しなかったことになるわけだが、多分それで良かったのだろうな)

もし仮にそうなっていたとしたら彼女の笑顔はどこか陰ったものになっていたかもしれないし、ダケちゃんだっておとなしくしていないだろう。だから、ファイツが国際警察官を辞めると言ってくれた時は本当に安堵したのだ。ラクツがそんな物思いに耽っている間も、ダケちゃんは相も変わらず殺さんばかりの目付きをし続けていた。こちらに実害こそないが、彼にとって大切な”おや”であるはずのファイツを起こすかもしれないと忠告した上でのこれだ。今にも何かしらのわざを繰り出して来るかもしれないと思った次の瞬間、彼から発せられていた殺気がふっとかき消えた。

「……ダケちゃん?」

予想外の展開に訝しんだラクツが彼の愛称を口にすると、ダケちゃんは呼応するように手の甲にぴょんと飛び移った。そのまま手の甲の上でぴょんぴょんと小さく飛び跳ね続ける彼をしばらく眺めていたラクツは、左手を目線の高さまでゆっくりと持ち上げてみた。油断させておいて至近距離でほうしを浴びせる戦法なのかもしれないが、それは違うだろうと思えたからだ。
何の根拠もないその直感は、けれどどうやら正しかったらしい。こちらをじっと見つめている彼の眉間にこそ小さな皺が刻まれてはいたものの、その瞳からは先程のような殺気は感じられなかった。こちらに攻撃をするつもりでないのならいったい何をするつもりなのだろうと内心で首を捻った直後に、ぷにぷにとした柔らかい何かが左頬に押し付けられる感触を覚えて引き結んでいた口を開く。

「……ボクにいったい何をしたいんだ、ダケちゃん」

流石にダケちゃんの行動に困惑したラクツは、その短い手を目一杯伸ばしてこちらの頬を何度も叩いている彼に問いかける。どう考えてもそれはパンチか、あるいはビンタの類いだ。渋い表情をしているダケちゃんはただひたすらパンチのようなものを繰り返していた、どうやら問いかけに答えるつもりはないらしい。やたらぷにぷにとしているだけで特に害はないので、ラクツは痛くも何ともない攻撃をおとなしく受けることにした。

(考えられるのは、やはり先程の一件か)

ラクツはしたいと思ったからファイツに口付けたわけなのだが、それが彼には気に食わなかったのだろう。そこで初めて”もしかしたらこの娘にも手が早いと思われたかもしれない”という考えに至ったラクツは、ダケちゃんそっちのけで眠っている彼女に素早く視線を向けた。本質的には内向的で恥ずかしがりやな彼女だ、キスをされたという事実に精神が耐えられなかった可能性は充分にあり得る。後悔こそしていないが自制するべきだったのかもしれないと思い始めたラクツは、いつのまにかぷにぷにとした感触がなくなっていることにようやく気が付いた。ひとしきり叩いて満足したのか、思ったような効果が得られないことにとうとう攻撃を続ける気が失せたのか。そのどちらなのかは分からないが、ダケちゃんが手の甲から飛び降りる様をラクツはぼんやりと眺めていた。

「……あ」

よりにもよってファイツの顔面に着地してしまった彼を見て、小さく声を漏らす。むじゃきな性格であるダケちゃんは、同時におっちょこちょいでもあるのだ。改めて”おや”であるこの娘そっくりな性格をしていると思った傍らで、ずっと閉じられていたファイツの瞳がゆっくりと開かれる。

「……おはよう、ファイツ」

もう少し寝かせてやりたかったが、起きてしまったものは仕方がない。自分は先程どんな表情をしていただろうかと思いながら、ラクツは上半身を起こしたファイツに声をかける。自分は今、ちゃんと笑えているのだろうか。

「ラクツくん……?」

見るからにぼんやりとしているこの娘は、まだ半分夢の中にいるらしい。とろんとした目でこちらを見たファイツは、次に気まずそうにしながらもぴょんぴょんとベッドで飛び跳ねているダケちゃんに視線をやった。それからゆっくりと辺りを見回している彼女の様子をラクツは黙って見つめていた。そろそろ状況を把握しても良さそうなものだが、果たしてこの娘は自分との口付けをどう想っているのだろうか……。

「……あ、あのね、ラクツくん……」
「どうした?」
「あたし……。あの後、ラクツくんのベッドで寝ちゃったの……?」
「ああ、実によく眠っていた。疲れは取れたか?」
「うん、ちょっとは良くなったかも……。そ、それよりごめんなさい!ラクツくんがお仕事してるのに、あたしったらのんきに寝てるなんて……!お、起こしてくれて良かったのに……っ」

申し訳なさそうにしているファイツの顔は、気付けば真っ赤に染まっていた。恥ずかしそうに口元に手をやっている彼女の脳内では、多分先程のことが蘇っているのだろう。

「あのように気持ちよさそうに寝入られては、流石に起こす気にもなれなくてな。別に邪魔をしたわけでもないんだ、もう気にするな。それよりフタチマルに随分と気に入られたようだな。彼がボールから出たがるなんて、滅多にないことなんだが」
「え?……あ、ラクツくんのフタチマルだ……。もしかして、あたしを心配してくれてたの……?」
「ああ。どうやら、ボールの中からお前が気絶した場面を見ていたらしい」
「じゃ、じゃあ……。えっと、あの……。ラクツくんとのキ、キ、キスも……?」
「しっかりと見られていた。そういうことになるな」
「……っ」

手持ちのポケモンに見られただけだが、それでも彼女にとっては大事件ということなのだろうか。両手で顔を覆ってしまったファイツを見ながら、ラクツは小さく息を吐いた。

「ファイツ、お前……。ボクとのキスが、それ程までに嫌だったのか?」
「ち、違うの!嬉しくて、恥ずかしいだけ……。ラクツくんにキスされたんだって思ったら、何だか気が遠くなっちゃって……」

子供っぽくてごめんねと言って、恥ずかしそうにはにかんだファイツには確かに負の感情は見受けられない。とりあえず自分の心配が杞憂に終わったことに内心で良かったと思いつつ、ラクツは「そうか」と言った。

「……一応訊くが、ボクを手が早い男だと思ったわけではないんだな?」
「手が早いって、そんなことないと思うけど……。だって、あたしの申し出を断ってくれたじゃない……。ラクツくんは、いつだってあたしを大切にしてくれてるよ」
「……いや。よくよく思い返してみると、むしろお前を傷付けていたことの方が多いかもしれないぞ。お前を大切にして来なかったことを今になって猛省しているわけだが、こんなボクでも赦してくれるか?これからは、ファイツを本当に大切にすると約束する」
「赦すも赦さないもないよ、あたしはラクツくんに酷いことをされてないもん。何度だって言うけど、いつだってラクツくんはあたしに優しかったよ。でも、改めてそう言ってくれるのはやっぱり嬉しいな……」
「…………」

あたしを何回惚れさせれば気が済むのと、冗談めかして笑ったファイツの顔を見た瞬間にラクツの心臓は大きく音を立てた。何故だか、その笑顔がとてつもなく綺麗だと思ったのだ。これまで数え切れない程に見て来たこの娘の笑顔を、今初めて目の当たりにしたような錯覚さえしてしまう。やはり見ていたようでその実彼女のことをちゃんと見ていなかったなと、ラクツは自分の行いを改めて悔やんだ。

「あのね、ラクツくんが自分を責める必要はないと思うよ。……こんなこと、あたしが言うのもおかしいけど」
「……そうだな。過ぎたことに思いを馳せるよりも、今はこれからのことを考えよう」
「……あ、そうだ。これからと言えばあたしは明日から何をすればいいのかなあ……?国際警察官はどの道辞めるけど、正式に辞めるまではラクツくんとハンサムさんの手伝いをしてもいいんだよね?」
「ああ、構わない。女子生徒達から情報収集をする必要は今後なくなるだろうが、それでも演技は続けるつもりだ。これまで通りボクの補佐と、ついでにヒュウを見てもらえると助かる」
「うん、彼と約束したんだもんね」

頑張るねと言って拳を握ったファイツからは仕事に対する強い熱意が感じられたものの、「今日はもう自室に帰って休んでくれ」とラクツは言った。大切にすると言った側から無理をさせたくはなかった。

「あ……。ごめんね、ラクツくんのベッドを占領しちゃって……。それじゃあ頑張るのは明日からにして、今日は休ませてもらっちゃおうかな……」
「そうしてくれ。それから、万が一本部から呼び出されてもファイツ1人では行かないで欲しい。ないとは思うが、上層部の息がかかった人間に手を出される危険性もある」

国際警察官としての訓練を受けているとは言っても、彼女はまだ少女と呼べる年齢なのだ。同年代ならともかく、女であるファイツが大の男の腕力に勝てるはずもない。ラクツとしては、脳裏に描いた未来を実現させるわけにはいかないのだ。

「……うん。その時は、ラクツくんに知らせるよ。絶対に、あたし1人では行ったりしないから」
「ああ、頼む。それとファイツ、お前に言っておきたいことがある。……出来れば、この場で答えてくれるとありがたいんだが」
「えっと、何?」

そう返したファイツの頭上には、見事なまでに疑問符が浮かび上がっていた。核心的なことを言っていないとはいえ場の雰囲気的に察しても良さそうなものだが、彼女はこちらの言いたいことが分からないようで首を軽く傾げていた。この娘らしいなと思いつつ、ラクツは眉を寄せたファイツをまっすぐに見つめた。

「ファイツ。告げるのが遅れたが、ボクとつき合って欲しい。これからの人生は、お前の為に使いたいと考えている」
「え……」

目を大きく見開いてこちらを見つめる彼女の顔には、大いなる驚愕と微かな期待が入り混じっていた。この言い方はもしかしたら卑怯だったかもしれないなと思いつつ、ラクツは再度口を開く。

「結婚を前提に、つき合って欲しい。これからの人生をボクと共に過ごしてくれるか、ファイツ」
「はい、ラクツくん……っ!」

震え声でそう答えてくれたファイツが、大粒の涙を零しながら飛び込んで来る。唯一無二の大切な娘を強く抱き締めたラクツの口元には、確かな笑みが浮かんでいた。