黒の少年と白の少女 : 023
ただそれだけのこと
話があると告げたのにも関わらずすぐに本題を切り出さなかったラクツは、閉じていた目をゆっくりと開いた。先程から目まぐるしく展開していた思考がようやくまとまったのだ。すぐ隣にいる娘の名を呼ぶと、一瞬の間が空いた後で彼女が短く返事をする。それは風が吹けばかき消されてしまいそうな程に小さく、彼女が多大なる困惑と緊張感に襲われていることがその声色から容易に読み取れた。改まって「話がある」と告げたこともこのように彼女を抱き寄せたこともこれが初めてなのだから、当然と言えば当然の反応だろう。「ラクツくん、そんなにあたしを見ないでよ……っ」
こちらを咎めるように紡がれたその声も他の音に紛れてしまいそうな程に弱々しいもので、こうして至近距離にいなければ上手く聞き取れなかったに違いないとラクツは思った。元々恥ずかしがりやである彼女はこちらに見つめられていることが余程恥ずかしいのか、顔を赤く染めて俯いてしまっている。
「今更何を言っているんだ、然したる問題があるわけでもあるまいし」
「あ、あるもん……っ!ラクツくんにじっと見られてるだけで、すっごく恥ずかしいんだよ……っ!?」
「単に恥ずかしいだけで、嫌悪感を抱いているわけではないんだろう?」
「そ、それはそうなんだけど……っ!でも、あのね……っ!」
「嫌でないなら別にいいだろう、ファイツ。恥ずかしいのは我慢してくれ」
「そ、そんなあ……。酷いよラクツくん……」
文句を封殺されたファイツは口でこそこちらを非難したものの、本当に嫌がっている感じは微塵も見受けられなかった。やはり彼女が言っている通り、単に恥ずかしいだけなのだろう。
「本題に入る前に、いくつかお前に尋ねたいことがある」
「……な、何?」
「仮にボク以外の男にこうされたとしたら、お前は何を思う?」
そう言いつつ彼女を抱き寄せている手に軽く力を込めると、ファイツは声にならない声を上げた。少しの間わたわたと慌てていた彼女ははっと我に返ったらしく、蚊の鳴くような声で「そんなことされたら困るよ」と告げた。その声には言うまでもなく困惑と緊張、そして何より濃い羞恥の色が混じっている。
「困る、か。……お前の感想はそれだけか?」
「ううん。困るのも確かだけど、それ以上に嫌だなあって思うな。やっぱりラクツくん以外の人に触られるのは嫌だよ」
ちらちらと目線をこちらに向けながら、だけどファイツははっきりとそう言い切った。今しがたの言葉には迷いなど欠片も含まれていない。そんな彼女を一瞥したラクツは「そうか」とだけ返した、まったくもって予想通りの答だ。
「では、次の問いだ。この先もお前は国際警察官であり続けたいと思うか?」
「え?うん……」
「あえて訊くが、そう思う理由は?」
「決まってるでしょう、ラクツくんと一緒にいたいからだよ。わざわざ訊かなくたって、ラクツくんなら分かるでしょう?」
「……ああ、そうだな」
「これからは、本当に死ぬ気で努力しなくちゃね。今度何か失敗したら、今度こそクビになっちゃうもん。ラクツくんの傍にいる為にも頑張らなくちゃ……」
「…………」
「ラクツくん……?」
ゆっくりと顔を上げたファイツは、実に怪訝そうな表情でこちらの名を呼んだ。彼女の言葉を聞くなり嘆息して抱き寄せていた手を離した自分の反応に、どうやら強い引っかかりを覚えたらしい。そんな彼女におずおずと名を呼ばれたものの、ラクツは黙ったままで自分の顔を見つめて来る娘の顔を真正面から見返した。
(……やはり、そうなのか)
ファイツに対して国際警察官であり続けたい理由を面と向かって訊いたのは、これが初めてだった。理由を問いかけた時こそ間を開けた後で頷いた彼女は、理由を尋ねると即座に「ラクツくんと一緒にいたいから」と答えた。その力強い言葉には、やはり迷いなど微塵も含まれてはいなかった。つまり自分と一緒にいられるというその一点さえ満たせば、彼女の心もまた満たされるのだろう。多分そうだろうとは思っていたものの、ファイツ自身の口からその言葉が聞きたかったラクツは再び息を吐いた。出した結論は、どうやら変わることはなさそうだ。
「……ファイツ。これからボクが話すことを、どうか落ち着いて聞いて欲しい。……約束出来るか?」
「え?……う、うん。えっと、何の話なの……?」
「お前に下された処分についての件だ」
彼女が頷いたのを確認した後でそう告げると、ファイツはびくりと身を震わせた。程なくして「うん」と言葉を発した彼女の全身からは、不安の感情が色濃く滲み出ている。
「そう、だよね……。何の処罰も受けないなんて、いくら何でも虫が良過ぎるもんね……。だけどクビでもないし、処分を受けるのはあたしだけなんでしょう?ラクツくんは大丈夫なんだよね?」
「……ああ」
「そう、それなら良かった……。それで、あの……。どんな処分なの……?」
「簡単に言えば、異動だな。今後は現場でなく、長官の補佐として動いてもらうそうだ」
「……えっと、それって秘書みたいなものなのかな?……でもあたしってば本当にうっかりしてるし、現場で働くよりずっと性に合ってるかも……。ラクツくんと一緒にいられる時間が少なくなるのは悲しいけど、思ったより軽い処分で良かった……」
「本当はこんなこと言える立場じゃないんだけどね」と付け足したファイツは、安堵したように深く息を吐き出した。そんな彼女をまっすぐに見つめたまま、ラクツは言葉を続けるべく一度は閉じた唇を開く。隠し通せるものならそうしたいところだが、後々彼女の元に辞令が届く手筈になっているのだ。どうせ知ることになるのだから、今のうちに告げてしまう方がいいだろう。
「……”良かった”、か。事務仕事ではなく長官の相手をさせられるのだと告げても、お前はそう言うのか?」
刹那、水を打ったような重い沈黙が部屋に満ちた。最初こそわけが分からないとでも言いたそうにぱちぱちと瞳を瞬かせていたファイツは、しかしこちらの意図を正確に読み取ったらしい。程なくしてその身を小刻みに震わせ始めたファイツの顔色は、言うまでもなく悪かった。
「……相手って……。ちょっとした話し相手になるとか、そういうこと……?」
十中八九自分の立場を理解したであろう彼女は、それでも現実を認めたくなかったのだろう。問いかけに頷いて欲しいとばかりに縋るような視線を向けて来るファイツに、しかしラクツは首を横に振ってみせた。
「…………やっぱり、違うんだ?」
「……ああ」
長い沈黙の後で、ファイツが小さく言葉を紡ぐ。そのか細い声は身体と同じように震えていて、彼女が動揺していることを物語っていた。その反応を目の当たりにしたラクツは無理もないと思った。親代わりの人間にそういう目で見られているのだと知った彼女の衝撃は、言葉では言い表せない程のものだろう。
「手が空いた時の話し相手をするってわけじゃなくて、女として長官の相手をするってことなんだよね……?」
「……そうだ」
「……そっか、そうなんだ……。あたし、長官に抱かれちゃうんだ……」
独り言の如くぽつりとそう呟いたファイツは、眉根を寄せつつ「しょうがないよね」と言って笑った。口角こそ上がっているが、その表情は自分がよく知る彼女の笑みとは程遠い。
「仕方ないよね。だって、あたしはそれだけのことをしたんだもんね……」
こちらを気遣った故なのかファイツが無理やりに笑っていることは明らかで、ラクツは眉をひそめた。致命的なミスを犯していたのだと知った時のこの娘は酷く泣き叫んでいたわけだが、今の彼女はその時より痛々しく見えてならなかった。
「ラクツくん、そんな顔しなくてもあたしは大丈夫だよ。事前に言われたからなのかな、思ったよりずっと落ち着いてるもん。……うん、これくらい平気平気!大したことないよ!」
「……ファイツ、無理はしなくていい。本当は嫌なんだろう、身体も声も震えているぞ」
「……だ、大丈夫だもん!」
大丈夫ではない表情と声でそう言い張るファイツは、「でもね」と言葉を続けた。ラクツは彼女の言葉の続きが分かるような気がしたが、黙ったままで目線だけを彼女に向ける。
「1つだけわがままを言わせてもらえるなら、初めては長官じゃなくて大好きなラクツくんがいいな。ラクツくんに抱いてもらった思い出があれば、この先もあたしは生きていけるもん。……だから、ね。ラクツくんさえ良ければだけど、あたしを抱いて欲しいの」
「…………それは、出来ない」
予想通りの頼み事をされた結果になったラクツは、しかし首を横に振った。するとファイツは大きな瞳を更に大きく見開いた後で、弱々しく「そっか」と言った。今にも泣きそうな表情で、だけど彼女は笑っている。
「……そう、だよね。ラクツくんは、あたしのことをそういう意味で想ってないんだもんね。好きでもない人を抱くなんて、やっぱり嫌だよね。……ごめんね、変なこと言っちゃって」
「……違う。そういう意味で言ったんじゃない」
「……え?」
ラクツは何も言わずに、理解出来ないとばかりに首を傾げた娘の手を軽く引く。すると、いとも簡単にファイツは自分の腕の中に納まった。案の定身を固くして慌てだした彼女には構わず、赤くなった耳元に唇を寄せる。
「この一件があるまで自覚はなかったが、ボクは自分が思っていた以上にお前を大切な存在として認識していたらしい。……確証はないが、どうやらボクはファイツに惚れているようだ」
あり得ないと自ら言っておいて、そして確証が掴めないままで告げるのも何だが、この娘に触れていると込み上げて来るものがあるのも確かなのだ。これは多分、そういうことなのだろう。他の誰よりも、そして自分の全てだとばかり思っていた任務を遂行することよりも。今自分の腕の中にいるこの娘の存在はそれらとは比べ物にならない程に大切で、自分の中では何物にも勝る程に特別だったというだけのことだ。大切で特別な娘が、自らの腕の中にいる。その存在を今一度確かめるかのように強く強く抱き締めると、ファイツは呆然としたように「嘘」と言った。