黒の少年と白の少女 : 022

壊れそうなくらいに
膝を一心に見つめながら、ファイツは心の中でどうしようと繰り返し呟いていた。どきどきと高鳴っている心臓の音が、うるさくて仕方がなかった。

(ほ……。本当に、いったいどうしちゃったの……!?)

大好きな人に抱き締められたという事実だけでも驚くべきことなのに、その衝撃が冷めないうちからぴったりと寄り添うように隣に座られて、おまけに手まで握られている。想ってやまない大好きなラクツに立て続けにそんなことをされてしまい、ファイツはパニックに陥った。確かに嬉しいとは思うのだけれど、それ以上に疑問がふつふつと湧き上がって来る。いったい全体、彼の身に何が起こったというのだろう?

(ラクツくん、だよね……。よく出来た偽者じゃないし、夢を見てるわけでもないんだよね……?)

あまりに驚いたファイツは、一瞬そんなバカげた考えを抱いてしまった。だけど自分が大好きなラクツは確かにここにいて、そして彼はこちらの手をしっかりと握っているのだ。夢でも幻でもなく、これは現実なのだと何度も言い聞かせる。ラクツに手を握られているという事実を再認識すると同時に、ファイツの顔にはまたもや熱が集まった。

「ラ、ラクツくん……っ」
「何だ、ファイツ」

堪らなくなったファイツが彼の名を呼ぶと、間を置かずにラクツの声が鼓膜を震わせる。その静かな声色はまったくもっていつも通りなのだが、彼が未だに自分の手を握っているというこの状況はどう考えても”いつも通り”とは言えないだろう。断じて嫌なわけではなくてむしろ嬉しいくらいなのだが、ファイツとしてはやっぱり戸惑ってしまうのだ。ラクツがこんなことをした理由が、そして手から伝わる彼の体温が気になって仕方がない。

「もしかして、具合でも悪いの……?」

もしそうだったら大変だと、心にふっと浮かんだ疑問をそのままラクツにぶつけてみる。するとその直後に盛大な溜息をつかれる羽目になり、ファイツは自分の考えが見当違いであることを一瞬で悟った。こちらを見つめる彼の視線には、明らかに呆れの色が入り混じっている。

「……体調不良?何故その結論に至ったんだ?」
「だ、だって……。具合が悪いと無性に甘えたくなったり、誰かと繋がりたくなるって言うでしょう?」
「ああ……。そういえば、お前は風邪を引くと必ずボクに看病をしてくれと強請ったものだったな。例えどれ程体調を崩しても、ボクが作った卵粥だけは残さず平らげていた」
「だって、ラクツくんの作る卵粥って美味しいんだもん……。もちろん卵粥だけじゃなくて、ラクツくんの料理は何でも美味しいけど」
「……そうか?」
「そうだよ!あたしにとっては、ラクツくんが作ってくれたご飯が一番のご馳走なんだもん!」

そう力説した数秒後に、自分の実に子供染みた発言に気付いてはっと我に返る。今更だけれど、これでは食い意地が張っているとしか思われないだろう。後の祭にも程があるわけだが、ファイツは俯いたままコホンと小さく咳払いをした。

「……そ、そんなことより今はラクツくんのことだよっ!具合が悪いわけじゃないんだよね?」
「ああ、ボクは健康体そのものだ」
「そっか、良かったあ……」

ホッと息を吐き出したファイツの目に留まったのは、自分の手を握っているラクツのそれだった。彼の言葉に安堵したのも束の間、ファイツはそっと息を吐いた。今度は安心感ではなく困惑からの溜息だ、だってやっぱり気になるのだ。嬉しくて堪らないけれど、それ以上に彼が自分にこんなことをする理由がどうしたって気になる……。

「じゃあ、どうしてこんなことするの……?」

未だにうるさく音を立てている自分の心臓の鼓動に負けないように張り上げたつもりだったのに、出て来た声は何ともか細いものだった。この状況に緊張しているからと言えばそれまでなのだけれど、こんな自分が情けなくて堪らない。今に始まったことではないが、やっぱり自分は冷静沈着である彼とは大違いだとファイツは思った。

「……なるほど。どうやらお前の目には、ボクの行動が随分と奇異に映っているようだな。ボクがファイツに”こう”することが、それ程までに意外か?」

こちらが言いたいことを正確に読み取ったらしいラクツが、そう言いながら繋いだ手を軽く持ち上げて来る。そこから伝わる彼の体温にまたもや心臓をどきりと高鳴らせたファイツは、こくんと小さく頷いた。

「だって……。ラクツくんの方からこんなことして来るなんて、初めてなんだもん……。きっと、何か深い理由があるんだよね?」
「別に理由などないが。強いて述べるなら、衝動に身を任せたからというのが妥当なところだな」
「……え?」

どこまでも静かな声でそう告げられたファイツはぱちぱちと目を瞬く、ラクツの言葉が信じられなかったのだ。あの彼がこんなことを理由もなくするわけがないから、さぞかし何か大きな理由があるに決まっているはずだ。そうだとばかり思っていたのに、だけど彼は違うと言う。それは自分にとってあまりに意外なことで、だからファイツは俯いていた顔をそろりと上げた。恥ずかしさから彼の顔を見れずにいたことなんて、頭からすっかり吹き飛んでしまっていた。

「あっ……」
 
自分でそうしておきながら、だけどラクツと目が合った瞬間にファイツは勢いよく目線を逸らした。こちらを見る彼の眼差しは自分がよく知るものとはまるで違っていて、その目で見つめられることに早くも耐えられなくなったのだ。

(やっぱり今のラクツくん、いつもと全然違う……っ)

ラクツに手を握られるのも抱き締められるのも、まるでこちらを慈しむかのような優しい瞳で見つめられるのも。そのどれもが自分にとっては慣れないことで、ファイツは思わず口元に手をやった。単純に好きな人と目が合ったのと何より驚きから、今や心臓は痛いくらいに激しく高鳴っていた。

(これじゃあ、まるで……。まるで、ラクツくんがあたしのことを……)

そう心の中で言いかけて、すぐに”そんなはずがない”と叱咤する。こちらより遥かに実力が上のラクツが、こんな自分を好きになってくれるはずがないではないか。それに何より、致命的なミスを犯した自分がこんな浮ついた思考をしていること自体がまずおかしいのだ。次に何かしらのミスを犯したら、今度こそ自分は国際警察を解雇になるだろう。つまり長官の恩情で今回こそ解雇処分にならなかっただけで、次はないということだ。今まで以上に頑張らなくちゃいけないのよと、ファイツは何度も言い聞かせた。

(ラクツくんは、あたしの気持ちが迷惑じゃないって言ってくれた。……それだけで、もう充分過ぎるくらいだよ……っ)

この気持ちをまっすぐに向けていられるだけでも、自分は充分過ぎるくらいに恵まれていると言っていいはずだ。自分が偶然にも幼馴染という関係で、そして何より彼が優しい人間だからこその結果なのだろう。勘違いしそうになる自分を諫める為にもファイツは好きな人から離れようとしたのだけれど、それは結局叶わなかった。こちらの思惑を察したらしいラクツに軽く手を引かれた為だ。

「…………っ」

バランスを崩して彼の方へと倒れ込んだファイツは、しかしごめんねと謝ることすら出来なかった。好きな人から離れようとして更に近付く結果になった今の自分の状況を受け入れることで精一杯だったのだ。

「何故ボクから離れようとした?」

呆れたような、はたまたこちらを諌めるような。そんなどちらともつかない声が、自らのすぐ近くから降り注ぐ。それと同時に身体を抱き寄せられたファイツは、石のように身を固くする他なかった。

「ファイツ。ボクに触れられるのは、嫌か?」

独り言の如く静かな声で尋ねられて、ゆっくりと首を横に振る。好きな人に触れられて嫌だなんてあり得ない、とんでもない!

「嫌じゃないよ……。ただ、恥ずかしいだけ……」
「……そうか」

勝手に零れ落ちた言葉に短く返したラクツは、続けて「ファイツに話があるんだが」と言った。まったくもっていつも通りの、相も変わらず落ち着いた声だ。どこまでもまっすぐに見つめて来る彼に対してこくんと頷いたファイツは、口を閉ざした彼が再び話し始めるのをひたすら待った。どきどきとうるさい心臓は、やっぱり壊れそうなくらいに高鳴っていた。