黒の少年と白の少女 : 021
傾いた天秤
「ファイツ、食欲はどうだ?もし少しでもあるのなら、胃の中に何かしら入れておいた方がいい」抱擁を交わしていた娘から離れたラクツは、鞄から携帯食を取り出しつつそう告げた。クラスの中でただ1人だけ食堂に来ていなかった彼女のことが、ずっと気になっていたのだ。敵意が込められたダケちゃんの鋭い視線が今もなお突き刺さっているわけだが、例によってラクツは彼を綺麗に無視した。
「来るのがもう少し遅かったら、ライブキャスターでお前を呼び出すところだった。まだ夕食を摂っていないだろう?」
同じ国際警察官であるファイツが携帯食を所持していることは勿論知っているが、この部屋に来た当初の様子からしてもそれを食べたとは思えなかった。十中八九夕食を食べていないであろうファイツは、果たしてこの問いかけに頷いてくれるだろうか?
(出来ることならそうなって欲しいものだが……)
ある程度の落ち着きを見せている今なら、「うん」と素直に頷いてくれるかもしれない。こちらとしてはそれを期待していたわけだが、待てども待てどもファイツは返事をしなかった。
「……ファイツ?」
とりあえず彼女の名を呼んでみたものの、ファイツの態度は依然として変わらなかった。心ここにあらずと言う表現がまさにぴったり当てはまると言っていい程に、呆然とした表情で石の如く固まっている。いつまで経っても何の反応も見せないことに訝しんだラクツは再度身を屈めて、彼女を真正面から覗き込んでみた。
「……きゃあああっ!」
至近距離でこちらに覗き込まれていることにようやく気付いたらしいファイツが、突如として小さくも絹を割くような悲鳴を上げる。その直後に両手で口を覆った彼女は目線を素早くドアへと走らせて、そして蚊の鳴くような声で「ごめんなさい」と謝った。ラクツも耳を澄ませてみたが、幸い誰かがこの部屋に近づいて来る気配も足音も感じられなかった。息を詰めている彼女に向かって「大丈夫だ」と告げると、青褪めていたファイツはホッとしたように深く息を吐き出した。
「まったく……。”静かにしてくれ”と言ったばかりだろう、何故悲鳴を上げたんだ?」
「言い訳にしかならないんだけど、ラクツくんが急に覗き込んで来たからびっくりしちゃって……。えっと、どうしたの?」
「”どうした”はこちらの台詞だ。何度呼んでも返事がなかったが、お前はボクの話をちゃんと聞いていたのか?」
「え?話って、何……?」
「何かしら胃の中に入れた方がいいと言ったんだ、食欲があるならボクの携帯食を食べるといい。少ないが、夕食を抜くよりはマシだろう」
「えっと、あたしは別に……」
ファイツがそう言いかけた時、くうという小さな音が鳴った。言うまでもなくその出所は彼女の腹部からで、つまり今のは胃が鳴った音なのだろう。まるで計ったようなタイミングだった。
「あの、これはね……っ!」
「……ファイツ、今の音をボクが耳にした以上は食べてもらうぞ。あえて尋ねるが、空腹を感じているんだろう?」
「で、でも……。それは、ラクツくんの物だもん……。あたしが食べちゃったらラクツくんに悪いよ……っ」
「ボクは構わない、少々多めに持っているからな。それでも気になると言うのなら、後でお前の分を渡してくれたらいい。可能なら床ではなくベッドに腰かけて食べた方がいいとボクは思うが、立てそうか?」
「あ、うん……。もう大丈夫みたい……。あの、それじゃあそうさせてもらってもいい……?」
ゆっくりと立ち上がってベッドの縁にそっと腰かけたファイツに、携帯食を差し出す。胃の音を聞かれたことが恥ずかしいのか、顔を赤らめさせた彼女は小さな声で「ありがとう」と言った。静かに「ああ」と返したラクツは、真正面からファイツを見つめる。
「あ……。あのね、ラクツくん……」
「何だ?」
「真正面からそんなに見られると、食べにくいよ……っ」
「……そうか。じゃあ、お前の隣に座らせてもらう」
「えっ……」
ファイツは戸惑ったように声を上げたものの、発せられたその声には嫌悪感は微塵も含まれていなかった。それをいいことに、ラクツはファイツのすぐ隣に腰かける。何か言いたそうにちらちらと目線を向けていたファイツは、やがて諦めたように息を吐き出すと素直に携帯食を口内に入れた。彼女の手の中にあったそれが瞬く間になくなったところを見るに、相当に空腹だったのだろう。いい食べっぷりを披露したこの娘に「もう1つ食べるか」と尋ねると、我に返ったらしいファイツが実に気まずそうにこくんと頷く。礼を述べた後で携帯食を咀嚼している彼女の横顔を、ラクツはただ見つめていた。
(本当に愚か者だな、ボクは……。何故今まで気付かなかったのだろうか……)
国際警察本部の一室で長官に告げられた言葉が不意に蘇って、ラクツは眉間の皺を普段以上に深く刻んだ。自分のすぐ近くにいるこの娘が欲望をたぎらせた国際警察上層部達の性欲処理に利用されるのだと知った時、ラクツはこれまでに体験したことがない程の衝撃を受けた。そして同時に込み上げて来たのは、得も言われぬ嫌悪感だった。長官の話によると今回の件でそれが早まっただけであるらしいから、どちらにせよファイツの運命は決まっていたということなのだろう。男としてそのような欲望を抱くのは理解出来るが、その対象がこの娘であるというのはどうにも納得がいかなかった。国際警察官として重大なミスを犯したのだから本来はその責をちゃんと負うべきなのだろうが、それでもラクツは嫌だと思った。自分に課せられたもう1つの任務の内容を脳内で思い返して、拳を強く握り締める。
(……冗談じゃない)
自分が相手ならファイツは抵抗しないと言った長官の読みは、まさに的を射ていると思う。仮に今すぐこの娘を組み敷いたとして、ファイツは驚きこそすれ抵抗などしないだろう。正直に説明すれば尚更だ。最初はショックを受けるだろうが、自分の運命を静かに受け入れるに違いない。無理やりに笑顔を作って、”初めてはラクツくんがいいな”と震え声で口にして。そして自分との行為に及ぼうとするファイツの姿が容易に想像出来る。”ファイツに快楽を教え込むこと”は長官によると立派な任務であるらしいが、ラクツはその任務を遂行する気は更々なかった。任務を遂行出来ればそれで良かったはずの自分が出した答とは思えないが、しかし結局その結論に帰結するのだ。他の誰かなら間違いなくしていたであろうことを、この娘にはしたくなかった。
(この娘を上層部に引き渡すわけにはいかないな……。いや、ボクがそうしたくないだけなのか……)
任務を遂行することが全てだと教えられた。任務こそが、自分にとって最も大事なものなのだと思っていた。しかし、それはどうやらまったくの思い違いであったらしい。自分にとって任務などよりずっと大切なものは確かに存在していて、それはこともあろうにラクツのすぐ近くにあったのだ。ファイツがミスを犯したことでその事実を今更ながら思い知るだなんて、何という皮肉だろうか。それでも完全に手遅れになったわけではないということが唯一の救いだろう。幸いにも、ファイツはまだ自分の隣にいるのだから。先程この娘を抱き締めた時とまったく同じ感覚に襲われたラクツは、自分のすぐ近くにある彼女のそれに向かってまっすぐに手を伸ばした。
「あ……っ」
自分に手を重ねられたファイツが、小さな声を上げる。おずおずとこちらを見た直後に赤い顔をして俯いた彼女の存在を今一度確かめるかの如く、ラクツは自分のそれより少し小さいファイツの手をそっと握り締めた。