黒の少年と白の少女 : 020

好きでいてもいいですか?
致命的としか言えないミスを犯していたという事実は、ファイツを酷く落ち込ませていた。今までに大なり小なりの失敗を数多くやらかして来たわけなのだけれど、流石に今回のミスは”些細なこと”で済まされるとはとても思えなかった。どう考えても何かしらの処分を受けることは明らかで、つまり自分は国際警察をクビになるのだろう。何かとミスをする自分のことだからいつかそうなるのではないかという予感はあったものの、いざそう言い渡されることを思うととてつもなく怖かった。

「あ……」

いつの間にか身体が小刻みに震えていることに気付いて、ファイツはかたかたと音が鳴っている身体を両腕でぎゅっと押さえつけた。だけどそれでも身体の震えは収まってくれない。肩から腕に飛び降りたダケちゃんが心配そうな顔でこちらを見上げて来たが、そんな優しいダケちゃんに笑顔を向ける余裕すら今のファイツにはなかった。

(怖い……)

ファイツはただ、怖いと思った。自分の身にまもなく訪れるであろう未来が、ただひたすら怖かった。何より怖いと思うのが、ラクツが自分の所為で何かしらの処分を受けたかもしれないということだった。多大なる迷惑をかけたラクツにこれから会おうとしているわけだけれど、それすらも怖かった。いったい彼は、どんな表情をして自分と向き合うのだろうか?

(あたし……。ラクツくんに何て言われるんだろう……)

そもそもラクツが快く部屋に入れてくれるかどうかが、今のファイツには分からなかった。部屋の近くまで来てしまった以上追い返されることはないだろうが、果たして今までのような態度を取ってくれるのだろうか。もしかしたら迷惑そうな素振りを見せられるかもしれないと思うと、それだけでファイツは泣きたくなった。

(こんなことを考えるなんて、本当自分勝手……)

自分の感情ばかりでラクツの感情を考えない自身がいることに気付いて、ファイツは我ながら呆れ果てる。こんな自分は、本当に身勝手な人間だ。

(きっと、ラクツくんにも呆れられちゃったよね……)

いくら”感情がない”と公言しているラクツだって、流石に今回の失態には不快感を覚えたに違いないはずなのだ。その必要もないのに国際警察の本部に報告をしに行ってくれた彼は、きっと自分を見限ったことだろう。だけどそうされても仕方ないと思う、何しろファイツは何も出来なかったのだ。部屋に引きこもってひたすら沈んでいただけで、彼を追いかけようともしなかった。ラクツの部屋に行くことを決めたのだって、消灯時間を過ぎてからなのだ。ラクツが優しいことはよく知っているが、流石に今回の件で自分に愛想を尽かしたに違いない。ファイツは今だって彼のことが好きで好きで堪らないわけだけれど、そもそも自分に好意を向けられていること自体がラクツにとっては迷惑なのかもしれない。今まであえて口にしなかっただけで、心の底では不快感を覚えていたのかもしれない……。こんな考えが、頭の中にぐるぐると渦巻いて消えなかった。

「…………」

唇から無意識に溜息が零れて、そっと目を伏せる。いつまでも男子寮の屋根の上にいるわけにはいかないと理解してはいるのだけれど、どうしても足が動いてくれなかった。早くラクツの部屋にお邪魔して、そして彼に謝罪をして、それから彼の報告を聞かなければいけないのに。だけどファイツは、ラクツの部屋に入る勇気がどうしても出なかった。怖くて怖くて、どうしようもなく身体が震えた。大好きな彼に会うのがこんなにも怖いと感じるなんて夢にも思わなかった。すぐ近くにあるはずの彼の部屋が、そして確かに感じられるはずの彼の気配が、何故だか今はものすごく遠かった。

「いつまでそこにいるつもりだ、ファイツ」
「……っ!」

唐突に聞こえたその声に、ファイツは身体を大袈裟な程にびくんと震わせる。気を張っていなければ、もう少しで悲鳴を上げていたかもしれない。他の男子生徒に自分が来ていたことがばれるという最悪の未来が回避出来たという意味では良かったのだろうが、ファイツの心臓は今やどくんどくんと激しく高鳴っていた。自分が分かるくらいなのだから何倍も鋭い彼がこちらに気付かないわけがないのだけれど、それにしても驚いた。”心臓を掴まれたようだ”と言うのは、まさに今の自分を指すのだろう。

「他の生徒達に見られる前に、早くボクの部屋に入れ」
「……はい」

ラクツにそう言われてしまっては、ファイツも頷かざるを得なかった。元々自分は彼に会う為にここに来たのだ、断るという選択肢があるはずもなかった。ぶるぶると震える足を1歩ずつ動かして、なるべく音を立てないように窓から彼の部屋に踏み入った。その一連の動作は自分にとって既に慣れているはずなのに、だけどファイツはとてつもないぎこちなさを感じていた。そう感じる理由はよく分かっている、つまり今の自分はものすごく緊張しているのだ。緊張と気まずいのと申し訳なさと何より恐怖心から、ファイツは窓際から1歩も動くことなく俯いた。彼と目線すらも合わせられない自分は、何て臆病なのだろうか。けれどそう蔑んだファイツの足が動くことも顔が上がることもなかった。自業自得でしかないとはいえ、自分に失望の眼差しを向けるラクツを見るのがどうしようもなく怖かったのだ。

「ラクツくん、あの……」

まずは謝罪をするのだと何度も言い聞かせていたはずなのに、いざラクツを目の前にすると言葉が上手く出て来なかった。彼の名前を呼んだはいいが、そこから先がどうしても続かないのだ。早くごめんなさいと言わなきゃと思う傍らで、同時に実に情けないとファイツは思った。いつだって堂々としているラクツとは大違いだ。こんな有様だから、自分はあんな致命的なミスをやらかしたのだろう。例えあのミスがなくとも、どこかでとんでもない失敗をしたに違いないとファイツは思った。

「……っ」

聞こえて来たのは彼の溜息で、ファイツはまたも肩をびくんと跳ね上げさせた。その所為でダケちゃんが床に投げ出される羽目になったのだけれど、ファイツはかわいそうなダケちゃんに目を向けることなく俯きがちになったままでその場に立ち尽くしていた。こんな自分はダケちゃんの”おや”失格だと思ったのも束の間、今までにない程の恐怖心に襲われて身体が自然と音を立てる。今ラクツが溜息をついた理由は、偏にこちらを失望した故にだろう。つまり自分は、大好きなラクツに見限られたのだ。しかしそれは当然のことなのだ、何しろファイツはミスを犯した上に彼に多大な迷惑をかけたのだから。おまけに彼の貴重な時間を悪戯に奪っているとなれば、そうなるのも必然だった。

(現実を、受け入れなきゃ……)

第一に迷惑をかけたことの詫びを入れるでもなく、自らに下された処分の内容を訊くでもなく。そのどちらもせずにただただ立ち尽くしている自分は、まったくもってラクツの邪魔でしかない存在だろう。これでは彼でなくとも見限られて当たり前だ。そうなることはここに来る前から分かり切っていたはずなのに、だけど身体の震えは止まらなかった。落ち着かなきゃと言い聞かせれば言い聞かせる程、却って身体はかたかたと震えてしまうのだ。涙を零す資格なんてないと理解してはいるものの、ファイツは泣きたいと思った。こんなにも臆病で情けないにも程がある自分が、ほとほと嫌になる。

「ファイツ」
「…………はい」

静かな声でラクツに名を呼ばれて、ファイツは蚊の鳴くような声で返事をした。部屋にお邪魔しておいて話を中々切り出さない自分が、彼の目にはさぞや臆病者に映ったことだろう。とうとう解雇処分を言い渡されるのかと思うと、そしてまもなく大好きなラクツに拒絶されるのだと思うと、胸はずきんと大きく痛んだ。だけどこれは自業自得でしかない、つまりは受け入れなければいけない未来なのだ。耳を塞ぎたくなる衝動を必死に抑えつけたファイツは、彼が言葉の続きを発するのをひたすら待った。

「まずは落ち着いてくれ、ファイツ。お前は解雇処分を受けたわけではない」
「……え?」

思いがけないその言葉に、ファイツは彼の目を見るのを怖がっていたことも忘れてばっと顔を上げた。自然と目の前にいるラクツと目が合うことになり、ファイツは彼の紅い瞳をまじまじと見つめる。どう考えても嘘を言っているようには見えなかったが、だけど彼の言葉が自分には信じられなかった。唇からは、戸惑いの色を含んだ言葉が勝手に零れ落ちる。

「……嘘」
「この状況下で嘘を言うものか。これは事実だ、お前は解雇になったわけではないと言っただろう。……その呆けた顔は何だ、ボクの言葉がまだ信じられないのか?」
「だ、だって……っ。絶対クビになるって思ってたから……」
「……まあ、そうだろうな。正直な話、ボクもお前と同意見だった」
「じゃあ、ラクツくんは……?」

想像したくもないが、連帯責任ということで彼が罰を受けた可能性は確かにあるのだ。とてつもない絶望感に襲われたファイツは、震える唇を無理やりに動かした。彼の答を聞くのがとてつもなく怖かった。

「ラクツくんは、大丈夫なの?」
「……ああ」
「本当に?……実は責任を負わされたことをあたしに隠してるとか、ない?」
「いや。ボクも責任を負うと申し出たが、長官に却下された。……処分を受けるのはお前だけだ」
「あたし、だけ……」

間違いなく解雇処分になるはずだと思っていたのに、そして連帯責任でラクツも処罰を受けるのかもしれないと思っていたのに。だけど驚くことに、実際はそのどちらでもないらしいのだ。最後の確認とばかりに震え声で「本当にそうなの?」と尋ねると、彼は静かに頷いた。首を縦に振るということはつまり肯定の意味で、それを理解した途端にファイツはへなへなと床に座り込んだ。ダケちゃんが心配そうに自分を見上げていることにすら気付かずに、ひたすら呆然としていた。

「どうした?」
「何か、腰が抜けちゃったみたい……」

少し前にも同じようなやり取りをしたことをぼんやりと思い返す。ほんの少し前のことだというのに、ずっと昔の出来事のように思えるのはどうしてなのだろうか。何故だか懐かしく感じると同時に、何も知らなかった自分自身をのんきにも程があると内心で嘲笑う。もし願いが叶うのなら、あのペンダントを手に入れた瞬間まで時を戻したいとファイツは思った。

(何を考えてるんだろう、あたし……。こんなことをのんきに考えてる場合じゃないのに……。早く立って、ちゃんとラクツくんに謝らなくちゃいけないのに……!)

自分の所為で彼が罰を受けるという最悪の事態はどうやら回避出来たようだが、それでも迷惑をかけたという事実は変わらないのだ。身体に突き刺さるラクツの視線を思い切り感じながら、ファイツは下半身にぐっと力を込める。だけどかなりの力を入れたにも関わらず、その効果は少しも表れなかった。まるで自分のものではないかのように、どうしてかぴくりとも動いてくれないのだ。

「ちょっとだけ待っててね、すぐに立つから……っ!」

足音を立てずにこちらに向かって来るラクツに、半ば必死でそう告げる。これ以上彼に迷惑をかけるわけにはいかない、早くこの場を去らなければという思いが頭の中を埋め尽くしていく。焦燥感に突き動かされたファイツは再び力を込めたのだけれど、それでも足は動いてくれなかった。すぐには立てそうもないことを悟って、再び強い絶望感に襲われる。どれだけラクツに迷惑をかければ済むのだろう、やっぱり自分は彼の傍にいていい人間ではないのだ。

「ごめんなさい……」

何も言わずにこちらを見下ろしているラクツに向けて、ファイツは無意識にその言葉を口にしていた。本来なら、ここに来てすぐに言わなければいけなかった言葉だ。

「……何故謝る?」
「だって……。あたしの所為で、ラクツくんにたくさん迷惑をかけたんだもん……。それに本来ならあたしがやらなくちゃいけなかった報告を、代わりにしてくれたんだよね。今更だけど、ありがとう……」
「……ああ」
「もうちょっとだけ待っててね、立てるようになったらすぐ出て行くから。ラクツくんの部屋には金輪際お邪魔しないし、教室でもなるべく関わらないから……。だから、安心してね……っ」

最後まで言い切らないうちに涙が頬を伝っていることに気付いて、ファイツはごしごしと目を擦りながらそう告げる。だけど、いくらそうしても涙は止まってくれなかった。まるで湧き出る泉のように、瞳からは涙がぽろぽろと零れ落ちていく。

「今に始まったことではないが、本当によく泣くものだな。しかし、ボクにはお前の発言の意味が理解出来ない。何故、急にそんなことを言い出したんだ?」

自分と同じ高さまで身を屈めたラクツが、静かにそう言いながら指で涙を拭って来る。その手付きに確かな優しさを感じて、ファイツの胸は強く痛んだ。彼の変わらない優しさが、今の自分には却って辛かった。

「だ、だって……っ。こんな役立たずのあたしに付きまとわれるのって、ラクツくんにとっては迷惑でしかないでしょう?今までだって、実は密かにうんざりしてたんじゃないの……?」
「随分と的外れな見解だな。お前の存在をそう感じたことなど、ボクは一度たりともないぞ。むしろお前が離れて行く方が、ボクにとっては迷惑なわけだが」
「ラクツくんは、あたしを見限ったんじゃないの……?」
「何故そうなる。迷惑とは思っていないと言っているだろう」

迷いなど欠片もない言い方だった。はっきりとそう告げられて、ファイツはとうとう顔をくしゃくしゃに歪めた。こんな場所でなければ、絶対に大声を上げていただろう。

「やっぱりずるいよ、ラクツくん……っ」
「何がだ?」
「真顔でそんなことを言われちゃったら、もう止められないよ……。ラクツくんのこと、もっともっと好きになっちゃう……っ!」
「ボクはそれで構わないぞ。お前のしたいようにすればいい」
「じゃあ、教室でもラクツくんと話したいな……。それと、またここにお邪魔してもいい……?さっきはあんなこと言っちゃったけど、ラクツくんが許してくれるならここに来たいの……」
「ああ」
「ありがとう。……あのね、ラクツくん」
「どうした、ファイツ」
「ラクツくんのこと、これからも好きでいていい……?」

震え声で尋ねた問いかけに即座に頷かれて、ファイツは思いのままにラクツに抱き付いた。ごまかすのはもう無理だった、やっぱり自分はラクツのことが好きなのだ。彼が好きだというこの気持ちだけは、未来永劫変わることはないだろう。

「……え?」

不意に感じた違和感に、ファイツは小さく声を上げた。その違和感の正体が分かったと同時に、顔にはみるみるうちに熱が集まった。背中には確かにラクツの腕が回されている感触がある、つまり自分は今大好きな人と抱き合っているのだ。その事実にファイツはパニックになった。彼に抱き締められたのは、言うまでもなくこれが初めてだ。

「ラ、ラ、ラクツくん……っ!?」
「静かにしてくれ。それと、もう少しこのままでいさせて欲しい」
「は、はい……」

息も絶え絶えに返事をすると、自分を抱き締めている彼の腕の力が一層強まった。それと同時に顔の熱も更に高まったような気がするのは錯覚ではないだろう。痛いくらいに高鳴る自分自身の心臓の鼓動を耳にしながら必死に頭を働かせてみたが、結局答は出てくれなかった。

(どうしちゃったんだろう、ラクツくん……。あたしを抱き締めるなんて、今までなかったことなのに……っ!)

自らの運命も知らずに、そしてラクツに起こった心境の変化にも気付かずに。大好きな人に抱き締められたという事実にものの見事に固まってしまったファイツは、彼が自分から離れた後もしばらく身動きが取れなかった。