黒の少年と白の少女 : 019

運命の歯車
「……報告は以上です、長官」

国際警察本部の一室で上司への説明を終えたラクツは、椅子に座っている長官が言葉を発するのをただひたすら待った。その途端に、部屋の中には重苦しい沈黙が立ち込める。報告を終えたらすぐに退出していたラクツがこの部屋にこれ程長く留まっていたのも、そして、これ程までに重苦しい雰囲気を長官から感じるのも、まさに今回が初めてだった。手の中にあるメモリーカードを無言のままで眺めていた長官が、深く嘆息する。

「……これが、例の……。アクロママシーンを無効化するプログラムが入ったメモリーカードかね、黒の2号」
「はっ。件の男子生徒の言葉通り、確かにそのメモリーカードにはプラズマ団の情報が書き込まれていました。加えて何かしらのプログラムも入っているようです。パスワードを解除していない以上断言出来ませんが、そうである可能性は高いかと」
「……ふむ」

長官はそこで言葉を切って、再び手の中のそれに視線を戻した。ラクツもまたそれに視線を留める、あのメモリーカードはヒュウから正式に譲り受けたものだ。彼の手から強奪するという手もあったのだが、そうすることによって万が一にも破損する可能性を思うとそれも出来なかった。”拾ったメモリーカードを渡す代わりに自分を鍛えて欲しい”というヒュウの交換条件を呑んだラクツは、彼の手からメモリーカードを受け取るとすぐさま国際警察本部へと向かったのだ。どの道長官には定期的に報告を入れる義務があるのだし、あの彼女を無理に動かすのは得策とは思えなかったからだ。動くなら早い方がいいに決まっている。

(しかし、まさか極身近に目的の物があるとは思わなかった。……迂闊だったな)

これではあの娘のことを抜けていると笑えないな、と胸中で呟く。流石のラクツも、まさかファイツが目的の物を持っているとは思わなかった。完全に予想外だ、まさに灯台下暗しとはこのことを言うのだろう。幾度となく「ごめんなさい」と謝って来た彼女の悲痛とも言える泣き顔が脳裏に浮かんで、ラクツは眉間の皺を自然と深くさせた。ヒュウと共に学校に残して来たあの娘は、今頃どうしているのだろうか。

「……それで、黒の2号」
「はい」

コードネームを長官に呼ばれたことで、物思いに耽っていたラクツは背筋を正して意識を切り替えた。机の上にメモリーカードを置いた長官は、腕組みをしつつも視線をこちらに向けて来る。鋭いとしか言えない目付きをしている長官を、ラクツはまっすぐに見返した。

「あの少女は、何故この場所に来ないのかね?」

あの少女というのはもちろんファイツのことだ。国際警察官をコードネームで呼ぶ長官は、それを未だに持たないあの娘のことをいつもそう呼称するのだ。ファイツという名で呼んだことなどただの一度もないのではないかとラクツは思った。少なくとも、自分の前で長官がその呼び名を使ったことはないはずだ。あくまで憶えている限りでだが。

「キミが報告を終えてから幾分経つが、こちらに来る気配がまるで見られないではないか。いったいこれはどういうことなのかね?」
「彼女は酷い錯乱状態にありましたので、ボクが彼女の代わりに報告するべきだと判断しました。あの状態で報告させるのは難儀でしょう。……ボク1人でも問題はないはずですが」
「しかしだね、黒の2号。キミの話を聞く限りでは、このメモリーカードはあの少女の手元にあったそうではないか。キミが潜入している学校の生徒に拾われた故に発覚したらしいが、それはあくまで偶然が重なった結果だろう。……違うかね?」
「……いえ……」
「ならばあの少女自身がこの部屋に赴いた上で、私に報告をするというのが道理と言うものだろう?自分の取るべき行動をせずにただ錯乱しているだけとは、まったくあの少女にも困ったものだ。……それにしても、黒の2号」
「……はい」
「キミも、実にらしくない行動をしたものだ。常に冷静で合理的な判断をするキミが選択を間違えるとは珍しい。……どうも、キミはあの少女に少し肩入れし過ぎているようだな」
「…………」

正論でしかない長官のその言葉に、ラクツは黙らざるを得なかった。やはり最初に思った通り、ファイツを無理にでもここに連れて来るのが正解だったのだろう。けれどうわ言のように「ごめんなさい」を繰り返すあの娘を見ていたら、とてもそうする気にはなれなかったのだ。これでは「肩入れし過ぎだ」と咎められても仕方ないだろう。

「……長官。彼女の今後についてですが……」

これ以上こちらが口を挟んだところで、長官の彼女への評価が覆ることはないだろう。むしろ却ってファイツの立場が悪くなるだけだと判断したラクツは、話を先に進めるべくそう尋ねた。詳細はラクツ自身もまだ掴めていないわけだが、プラズマ団に関係する重要な品が手元にあったことをファイツが長い間気付かなかったのは確かだ。どう考えても処罰は免れないだろう。良くて謹慎、悪くて解雇というところか。

「このようなミスをした以上は、彼女に何かしらの処罰を与えるおつもりでしょう。それならばボクも共に受けます」
「黒の2号。やはりキミは、随分とあの少女を買っているようだね。共に幼少期を過ごしたのだから、まあ無理もないことだが」
「いえ、そういうわけでは……。ただ、ボクがミスを犯したのもまた事実ですから。ファイツの手荷物を調べなかったというのは、紛れもなくボク自身の落ち度です。……やはり、ボクと彼女は解雇処分になりますか」

国際警察官である自分とファイツが犯したミスを客観的に考えると、それが妥当なところだろう。しかし、その結論を素直に受け入れられない自分がいることにラクツは気付いていた。あの娘は何度も「ごめんなさい」と謝罪したが、プラズマ団に潜入していた彼女の持ち物を調べなかったのは紛れもなく自分の落ち度だ。何もあの娘1人が責を負うことはないとラクツは思っている。

「……いや、解雇はしない。それに、キミは大きな誤解をしている。優秀な黒の2号をそんなことで解雇するとなれば、この私が職を辞さねばならなくなるだろう。もちろん、あの少女も解雇するつもりはない。今後も働いてもらわねばならないからね」
「では、謹慎ですか」

長官の出した答を正直意外だと思いながらも、ラクツはそれを表情には出さずに問いかけた。刑事という最下層の階級であるファイツに、降格という処分が下されることはまずないだろう。減給だけで済むとも思えなかったから、つまり残る処分は謹慎ということになる。しかし、ラクツの予想に反して長官は首を横に振った。

「謹慎もしない。今しがたキミに告げた身でこう言うのも示しがつかないが、かくいう私もあの少女の人柄を気に入っていてね。実を言うと、あの少女は私だけではなく上層部の皆に気に入られているのだ。仮に上層部で評決したところで、重い処分が下ることはまずないだろう」
「……つまり、彼女には減給処分を下すということですか」

自分の予想が悉く外れたことに驚きつつも、ラクツは内心で安堵していた。随分と軽い処罰だ、やはり彼女は国際警察長官を含む上層部の人間に気に入られていたらしい。ファイツの処分として最有力候補であった解雇でもその次の候補として考えた謹慎でもないとすれば、残るは減給辺りだろう。

(減給か……。意外だな)

他でもないファイツ自身がその結果に驚くに違いないと思いながら、ラクツは長官が発言を肯定するのを待った。しかし、それでもなお長官は首を横に振った。つまり、自分の言葉は否定されたのだ。

「減給処分もしないつもりだ。聡明なキミにしては珍しく、予想が悉く外れたものだ。これもまた珍しく、随分と腑に落ちない表情をしているな。あの少女に対して解雇も謹慎も減給も下さないことが、キミの目にはそれ程妙に映るのかね?」
「……正直、意外だと思っています」
「まあ、無理もないかもしれないな。しかし先程も告げたが、私はあの少女を気に入っているのだ。国際警察官としての能力は他の誰よりも劣ると言えるが、やはりあの少女は人に好かれる才能を持っているらしい。重大なミスをしたという事実があってなお、私はあの少女に厳罰を与える気になれないのだよ」

「実に素晴らしい才能だ」と締め括られた長官の言葉に、ラクツは何も言えないでいた。厳罰を与える気はないらしいという長官の方針を直接耳にしたというのに、先程のように安堵が出来ないのは何故なのだろう。そして、心の中に突如として湧いたこの何とも表現出来ないものの正体はいったい何なのだろうか。厳罰を与えるつもりはないというのはファイツにとって朗報でしかないはずなのに、どうしてか嫌な予感が拭えなかった。

「以前から考えていたことではあるのだが、この際ちょうどいいだろう。あの少女には、今後は私の補佐をしてもらう」
「……異動、ですか」
「私の補佐を務めるのだから、あるいは昇進と言えるかもしれないな。実際、給与も現在より大幅に上がるはずだ。一刑事として現場で経験を重ねるよりは、むしろあの少女にずっと適していると思うがね」
「……長官。あの娘に、いったい何をさせるおつもりですか?」

重大なミスを犯した結果が解雇ではなく昇進というのはどう考えてもおかしいし、そもそも刑事であるファイツが国際警察長官の補佐役を務めるというのも腑に落ちない。確かにファイツは事務仕事をする能力については長けているものの、その腕を買われて抜擢されたとはとても思えなかった。あの娘に下されたこの結果には、色々と腑に落ちないことが多過ぎる。大いに疑問を抱いている自分と同じく怪訝な顔をした長官は、「キミがすぐに察せないとは珍しいこともあるものだ」と言った。その問いかけにラクツが沈黙で返した数秒後に、長官は軽く頷いてから口を開いた。

「私の……。いや、上層部と言い換えた方が正確だろうな。あの少女には、主に我々の相手をしてもらうことになるだろう。何しろこの仕事は色々と神経を遣うからね。それ故に色々と堪るものもあると言っておこうか。流石にここまで言えば、あの少女の仕事内容が理解出来るだろう?」

ラクツは一瞬、自分の耳を疑った。もしかしたら聞き間違いをしたのではないかと思った。しかし、聴覚が正常であることは何よりも自分が一番よく分かっていた。そしてこの長官が冗談を言うような性格でないことも、ラクツはよく理解していた。つまり、これは確定事項なのだ。

「長官は、本気であの娘を……。…………ファイツを、上層部の慰み者にするおつもりですか」

自分で導き出した結論をこれ程までに間違っていて欲しいと強く望んだのは、ラクツにとってこれが初めてだった。しかし長官は事も無げに「そうだ」と言った、やはり自分の出した結論は間違っていなかったのだ。彼の淡々とした一言が、けれど頭の中で強く鳴り響く。

「キミの懸念も確かに理解出来る、何しろあの少女はまだ12歳なのだからね。しかしこれは以前から考えていたことなのだよ、今回の件でそれが早まったに過ぎないというだけだ。キミも知っての通りあの少女は抜けていることだし、刑事としての任に就かせても先は見えている」
「…………」
「刑事として役に立たないのだから、せめて女として役立ってもらわなければな。幸いなことに発育も随分と良さそうだし、何より我々はあの少女を気に入っている。まさに適任だろう」
「あの娘には、ボクの補佐をしてもらうつもりでいたのですが」

あまりの言い草に思わず口を挟むと、長官は考える素振りを見せた後で「いいだろう」と言った。口元に弧を描いている長官の目は、けれどまったく笑っていない。

「本来ならば有無を言わせずあの少女を連れて来なさいと言うところだが、キミの気持ちを汲もうか。プラズマ団の任務が解決するまでの期間、あの少女を黒の2号の元へ置くことを許可する。キミは引き続き、ハンサムくんと一緒にプラズマ団の動向を探ってくれたまえ」
「……はい」
「いいかね黒の2号、これは決定事項なのだよ。キミの任務が遂行された後で、あの少女に正式に辞令が下る」
「…………」
「待遇が現在より大幅に改善される上に、快楽まで与えてもらうのだ。あの少女にとっては破格の条件だと思うがね。この際だ、黒の2号もあの少女で欲を処理してはどうかね?女性を悦ばせる技術を実際に試す、いい機会になるだろう」

淡々と発せられる長官のその言葉に、ラクツは何も言えなかった。何かを言わなければいけないと理解していても、そうすることが出来なかったのだ。自分に告げられた言葉が途切れ途切れに聞こえるなんて、今までの人生でまったく身に覚えのないことだった。

「間違っても我々に抵抗する気を起こさないように、あの少女の身体には誰かが事前に快楽を覚え込ませる必要があるのだ。あの少女もキミが相手なら抵抗しないだろうし、むしろ喜んで受け入れるのではないかね?黒の2号、キミが適任だ。あの少女に男を教えてあげなさい」

長官はそう言った後で、「これはキミに課せられた新たな任務でもあるのだよ」という言葉を付け加えて来た。そう命ぜられてもラクツは依然として何も言えなかったし、然る後に退出許可を言い渡されてもすぐには足が動かなかった。ようやく部屋を退出したラクツの頭の中では、「あの少女に男を教えてあげなさい」と言った長官の言葉が鳴り響いていた。