黒の少年と白の少女 : 018

世界が壊れる音がした
国際警察官に支給される道具の1つであるバリアブルロープを手にしているラクツを見ながら、ファイツははあっと落胆の溜息をついた。こんなに近くにいたというのに、木陰からロープが飛んで来るその瞬間までファイツは大好きな人の気配にまったく気付けなかった。そのことが悔しくてならなかったし、ラクツの正体がヒュウに知られたという事実が何よりファイツは悔しかった。他でもない自分の所為で大好きな人に迷惑をかけてしまったことになるわけで、その罪悪感から地面に視線を移した。「いつからいたの」と尋ねたその声は、情けない程に震えていた。

「ヒュウが提示した条件にファイツが頷いた辺りからだ。急いで教室を飛び出したお前の様子が、ボクにはどうも引っかかってな。案の定すぐには戻らなかったお前を捜しに来たわけだが、ボクの直感はやはり間違っていなかったらしい」
「……ごめんね、ラクツくん。あたしのこと、ばれちゃったみたい……」
「どうやらそうらしいな。随分と面倒なことになったものだ」

ラクツが自分の後を追ってくれたというのは、平時なら嬉しいことなのだろう。だけど今はとてもそんな気分にはなれなくて、ファイツはそっと目を伏せた。失敗ばかりするこんな自分が、ほとほと嫌になる。

「おい、いったい何がどうなってんだよ!?」

ヒュウの顔には明らかな混乱の色が見られたが、そうなるのも当然だろうとファイツは思った。何しろ自分達が刑事であること自体が彼にとってはまさに衝撃の事実であったに違いなかっただろうし、この学校ではファイツだけが知るラクツの素を目の当たりにしたのだ。教室でのラクツが本当の彼なのだと思っている人間には、今のラクツの姿はにわかには信じがたいものだろう。それらだけでもヒュウには驚きの連続だろうに、挙げ句の果てに右腕にはロープが巻き付いているのだ。わけの分からないことが立て続けに起こったのだから、ヒュウでなくとも混乱するだろう。

「……おいラクツ、何とか言えって!何でオレにこんなことをしやがったんだ!?」
「キミに説明する義理はない。部外者が口を挟むな」
「…………」

幾分か冷静さを取り戻したらしいヒュウはラクツにそう食ってかかっていたが、事も無げに一蹴されただけでそれ以上会話が続くことはなかった。実に素っ気ないラクツの言葉を耳にしたファイツが思わず顔を上げると、無表情にヒュウを見つめているラクツと彼の言い方に絶句してしまったらしいヒュウの姿が視界に映る。言うまでもなくヒュウの右腕には、ラクツが放ったバリアブルロープが未だに巻き付いていた。

(彼、怪我してる……)

おそらくは、ロープのかぎ爪によるものなのだろう。真新しいひっかき傷がヒュウの右腕に付いていることに今更ながらに気が付いて、ファイツはくしゃりと表情を歪めた。”必要があれば民間人の人権を侵害してもいい”という長官の教えを忠実に実行しているに過ぎないのだろうが、それでもファイツは嫌だと思った。この状況を引き起こした原因である自分が言える立場でないことは分かっているのだけれど、民間人であるヒュウをこんな形で拘束しているラクツをこれ以上見たくなかった。意を決したファイツは、小さな声で「ラクツくん」と呼んだ。ヒュウから視線を外さないまま、ラクツは、「何だ」というただ一言だけをこちらに向かって投げかける。

「……そのロープを離してあげて。そんなことをしなくても、彼はきっと逃げたりしないよ。誰にも話さないって言ってくれたんだもん……」
「ヒュウがボク達の身分を他言しない保証がどこにある?所詮は口約束だろう」

静かにそう告げられて、ファイツはぐっと言葉に詰まる。ラクツの言葉はまったくもって正論だった。確かに所詮は口約束なのだ、口では何とでも言えるだろう。「そんなことねえ」と息巻くヒュウを綺麗に無視したラクツは、「お前は人が善過ぎる」と言って盛大に溜息をついた。

「ここで彼に逃げられるのも抵抗されるのも面倒だから拘束したまでだ。むしろ、手錠で拘束しないだけ感謝して欲しいものだが」
「そ、そんなのダメだよ!だって、彼は少しも悪くないのに……!お願いラクツくん、彼を自由にしてあげて……っ」
「傷を負っているお前を見たボクが、その言葉に素直に頷くと思うのか?お前の顔に付いているその傷は、ビブラーバの攻撃によるものだろう。警察官に傷を負わせたという事実だけでも、彼を拘束する充分な理由になると思うが」
「そんなことない!これはあたしが避けられなかったからついたの、怪我をしたのはあたしの自業自得だよ!……ラクツくんだって、いつもそう言ってるでしょう?」
「…………」
「だから、彼のことは赦してあげて欲しいの。きっと大丈夫だよ、嘘をついてる目じゃないもん。……そうだよね?」

自分の問いかけにヒュウは無言で頷いたが、ラクツはそれでもなおロープを放す気配を見せなかった。そんな彼をまっすぐに見つめたまま、ファイツは口を開いた。

「ラクツくん。万が一あたし達の身分が他の人に知られちゃったら、その時はあたしに罰を与えてね」
「意味が分からないな。何故お前を罰する必要がある」
「だって、あたしの所為でラクツくんの正体がばれちゃったんだもん。……悪いのはあたしなんだから、当然だよ」

長い長い沈黙が、自分達の間に重くのしかかる。深い溜息によってその沈黙を破ったのはラクツで、数秒後にはヒュウの腕に巻き付いていたはずのロープは解かれていた。その早業はまるで手品のようだとファイツは思った、やはりラクツは自分などとは格が違うのだ。ヒュウもヒュウで、自由になった右腕を呆然と見つめていた。

「……ボクは彼を完全に信用したわけではないが、まあいいだろう。とはいえこれ見よがしに脅されれば、彼とて他言する気にはならないだろうが」
「え?……脅しって……?」
「無自覚か、ある意味お前らしいな。自分の発言をもう一度振り返ってみることだ、あれは一種の脅しだぞ」
「……あ」

ラクツに言われた通り、自身の言葉を脳内で書き連ねてみたファイツは口に手を当てた。確かに”あなたが他の人に話したらあたしが罰を受けます”という言葉は、ある意味で脅しだろう。今更ながらファイツは慌てた、ラクツに指摘されるまでまったく気付かなかった。

「ご、ごめんなさいっ!あたし、そんなつもりで言ったんじゃ……っ」
「……分かったよ、誰にも話さねえから心配すんな。お前って本当にとろいやつだよな、ちっとも刑事らしく見えねえぜ」
「うう……。もっと頑張ります……」

刑事らしくないとはっきり言われてしまい、ファイツは肩を落とした。「抜けているのはいつものことだ」とラクツに言われたのは、更にショックだった。もっともっと頑張らなくちゃねと、自分自身に強く言い聞かせる。人の何倍も努力しなければ、ラクツの隣に立つなど永遠に無理だろう。ぐっと拳を握った自分のすぐ近くでは、ラクツとヒュウのやり取りが続いていた。

「そういうわけで、このことは他言無用だ」
「ああ、分かってる」
「では、本題に入ろうか。ボクはキミ達のやり取りを一部始終目撃していたわけではないから、全容が掴めていないんだ。仔細を語ってくれたまえ」
「あたしからも説明をお願いします。どうしてあたしがプラズマ団にいたってあなたには分かったんですか?確かにプラズマ団に潜入してましたけど、そのことはラクツくん以外の誰も知らないはずなのに……」
「それはだな、こいつを調べたからだよ。……お前、これに見覚えはねえか?」
「あ!それ、あたしのペンダント!」
「やっぱりお前のだったか……。きっと探しに来るだろうと思って、ここで張ってたんだ」

ヒュウによってズボンのポケットから取り出された物を見た瞬間にファイツは叫んだ、確かにそれには見覚えがあった。昨日失くした、ファイツのペンダントだ。チェーンが切れているということは、これはやっぱり昨日の彼の攻撃で地面に落ちたのだろう。だけど探し物が見つかってホッとしたのも束の間、今度は別の疑問が頭を過ぎる。彼はどうして、そのペンダントと自分がプラズマ団にいたという事実を綺麗に結び付けられたのだろう?

「腑に落ちない。ファイツがプラズマ団にいたという事実とそのペンダントが、何故繋がることになる?」

当然ながら同様の疑問を抱いたらしいラクツが、静かにそう尋ねる。ヒュウはああと頷いて、「ペンダントの中からこれが落ちて来たんだ」と言いながらズボンのポケットに手を入れた。そして彼は、自分達の前で手をゆっくりと開いてみせた。

「……え?」

ヒュウの手の平に乗っている物を見た瞬間に、ファイツは呆然と呟いた。どう見ても、それはメモリーカードとしか言いようのない物だった。その物体を表す単語が、ファイツの脳内を瞬く間に埋め尽くす。

(……嘘)

あのメモリーカードが、自分達が探し求めていたそれだという根拠があるわけではなかった。だけどファイツは、きっとそうに違いないと思った。目の前が真っ暗になったような気がするのと同時に、身体がひとりでにかたかたと震え出す。

「これにプラズマ団の情報が入ってたんだ。それと、どうも何かのプログラムも入ってるみたいだぜ。ついでにその中身も見てやろうとしたんだけど、結局オレには無理だった。パスワードがしっかりかかってやがったからな」
「…………」

自分達に事の次第を説明するヒュウの声は、最早ファイツには途切れ途切れにしか聞こえなかった。ラクツの鋭い視線が自分に向けられたことにも、そしてダケちゃんが足元に来たことにも、ファイツはまるで気付かなかった。やっぱりあれは、プラズマ団の過激派が開発した機械を無力化するデータが入ったメモリーカードなのだろう。ずっとずっと探し求めていたメモリーカードは、こともあろうに自分の手元にあったのだ。ファイツには身に覚えがなかったが、”知らなかった”というのは言い訳にしかならないことは理解していた。

「おい、どうしたんだ?」

自分の様子がおかしいことに気付いたのだろう。訝しげな顔でヒュウがそう尋ねて来たものの、ファイツは何も言わなかった。自分の名を呼んだラクツの大好きな声すら耳に入って来なかった、自分が仕出かしたミスのことでファイツの頭はいっぱいになっていたのだ。探していた物はすぐ近くにあったというのに、見つける機会は何度もあったはずなのに、ファイツはずっとそれに気付かなかった。愚かにも自分は致命的なミスを犯していたのだ。刑事であるという事実をヒュウに知られたことなど、実に些細だと思える程のミスだった。

「あ、あ……」

絶望のあまり、声にならない声が唇から勝手に漏れ出した。こうなった以上は、処罰を受けることは避けられないだろう。そしてその処罰が謹慎程度では済まされないことを、ファイツは直感的に理解していた。頭の中を、解雇という2文字が急速に埋め尽くす。つまり自分は、国際警察をクビになるのだ。何よりファイツにとってショックだったのが、ラクツに多大なる迷惑をかけていたことだった。大好きなラクツを助ける為にここに来たのに、自分の存在は結局彼の害にしかならなかったのだ。

「あたし、の……所為で……」

処罰を受けるのが自分だけならまだいいのだ。自業自得でしかないのだから、仕方ないと割り切ることも出来るだろう。だけどファイツはそうは思わなかった、とてもそんな楽観的には考えられなかった。自分程ではないにせよ、連帯責任ということでラクツも何かしらの処分を受けるかもしれないのだ。それが、ファイツはとてつもなく怖かった。

「いやあああああっ!!」

この現実を受け止め切れなくて、とうとうファイツは悲鳴を上げた。自分の何かががらがらと崩れていく音がはっきりと聞こえた。国際警察官として、これからも頑張っていくつもりだった。人の何倍も努力を重ねて、大好きなラクツに追いつくことを夢見ていた。その夢を壊したのは、他でもない自分自身だった。涙が頬を伝っていることにも気付かずに、ファイツはただ「ごめんなさい」と呟いた。そうしたところで何の意味もないことは分かっているけれど、だけどそうすることしか出来なかったのだ。自分の所為で迷惑を被った大好きな人に向かって、ファイツは泣きながら謝った。瞳からぽろぽろと大粒の涙を零しながら、何度も何度も「ごめんなさい」と謝った。