黒の少年と白の少女 : 016
絶望へのカウントダウン
今日も今日とていつも通りに授業を終えたファイツは、HRの終わりを知らせるチャイムが鳴り終わると大急ぎで机の横にかけてある鞄を引っ掴んだ。机の上に乗っていたダケちゃんを肩の上に乗せて、そしてそのまま教室を出ようとしたところでくるりと振り返る。”ファイたん”という自分のあだ名が耳に届いたのだ。3人娘の1人であるユキが、不思議そうな顔をしてこちらに近付いて来る。「えっと、何?……ユキちゃん」
「ファイたんこそどうしたの?そんなに急いじゃって、何か用事でもあるの?」
ユキの言葉に曖昧に頷いたファイツは、彼女からさっと目線を逸らした。否が応にも昨晩のことが思い出されて、顔がかあっと熱を持つ。昨晩の出来事というのは、もちろん3人娘と一緒にお風呂に入ったことだ。常日頃から防御スーツを着ているおかげで自分の身体には傷らしい傷は見受けられないのだけれど、それでも誰かに裸を見られること自体がとてつもなく恥ずかしいと思ってしまうファイツは、一昨日までは個室にあるお風呂を使用していた。つまりは誰に気兼ねすることもなく、悠々と入浴の時間を過ごしていたわけだ。
だけど昨日は「今日こそ一緒にお風呂に入ろうよ」と自分を誘って来た3人娘の勢いに押されて、つい「いいよ」なんて言ってしまったのだ。そのすぐ後で了承したことを後悔したのだけれど、過ぎたことながらやっぱり勇気を出して断れば良かったとファイツは思った。だって、まさかあんなことになるだなんて思わなかったのだ。
(あんな恥ずかしい思いをしたのって、あれが初めてだよ……っ)
今でも分からない、何がどうなって”胸を触らせること”と”好きな人について詳しく話すこと”の2択を迫られる羽目になったのだろうか。ファイツは迷いに迷った末に前者を選んだのだが、「ちょっとだけだから」なんて言っていたはずの3人娘は何度も胸に触れて来たのだ。触れると言っても指で乳房を押されただけなのだけれど、それでもファイツは顔から火が出る程恥ずかしかった。くすぐったいようなはたまたむず痒いような、何とも言えない気持ちになったのもとてつもなく恥ずかしかった。
「……ファイたん、昨日はごめんね。まさか、あんなに柔らかいなんて思いもしなくてさー。昨日はつい調子に乗っちゃったけど、今度からはもう絶対しないから。だから、また一緒に入ろうね!」
自分が目を逸らした理由を正確に読み取ったらしいユキはそう耳打ちをして来たのだけれど、ファイツはまたもや曖昧に頷いた。こう言ってくれたユキには悪いような気もするが、もう二度と彼女達の誘いには乗らないようにしようと密かに固く誓う。同性とはいえ、あんな恥ずかしい思いをするのは絶対に嫌だった。
「また明日ね」と言った彼女に表面上はにこやかに笑って、ファイツは逃げるように教室を飛び出した。押しが強いユキのことをちょっと苦手なタイプの子かなあと認識していたのだが、昨日の一件でその苦手意識は更に増してしまったらしい。嫌いとまではいかないが、明日からもまたこんな風にぐいぐいと話しかけられるのかと思うと少しだけ憂鬱な気分になる。
(ラクツくんもあの3人のことは内心で嫌がってるみたいだし、それにプラズマ団にも関わってないみたいだし……。彼女達には悪いけど、あたしもなるべく関わらないようにしよう……)
ファイツはそう呟きながら、寮やら自分の家やらに帰る生徒達でごった返す中を縫うようにして早足で進んだ。もういっそのこと走りたいくらいだったのだけれど、こんなにも人が大勢がいてはそれをするのも躊躇われてしまう。走りたいのに走れないもどかしさで、ファイツははあっと溜息をついた。
(どこにあるんだろう、あたしのペンダント……)
首に下げているペンダントがないことに気付いたのは、昨日の夕方だった。彼女達の誘いに仕方ないと覚悟を決めたファイツの脳裏に思い浮かんだのは、”とにかく防御スーツを脱がないと”ということだった。どういうわけか自分を気に入っているらしい3人娘のことだ、それを見られたら「何それ?」と言われてしまうであろうことは簡単に想像出来る。
例え見られたところで何とでもごまかせるような気もするが、やっぱり出来ることなら私服の下に着ている防御スーツの存在を他人には知られたくなかった。首から下げていたペンダントがないことに気付いたのは、大急ぎで防御スーツを脱ぎ終わったちょうどその瞬間だった。後でゆっくり探そうと思ったファイツはとりあえず入浴セットを持って部屋を出たのだけれど、結局ペンダントは部屋のどこにも見当たらなかったのだ。
(バッグの中にもなかったし、やっぱりヒュウくんに攻撃された時に切れちゃったのかなあ……)
帰りのバスの中では確かに身に着けていたはずだから、やっぱりその時に落としたと考えるのが妥当だろう。だからファイツは、昨日ヒュウに攻撃された場所まで足早に歩いているわけなのだ。運悪く寝坊をしてしまったおかげで、授業が始まる前にその場所へ行けなかったのは痛手だった。不幸中の幸いなのは、あのペンダントにはラクツの写真を入れていなかったことだろう。もし自分がいつも身に着けている方のペンダントを落としていたらと思うと、ファイツはそれだけで泣きたい気持ちになる。
(早く、見つけなきゃ……)
そう、自分の宝物の方であるペンダントを落とさなかったというのはまさに不幸中の幸いなのだろう。だけどどういうわけか嫌な胸騒ぎを感じてしまい、ファイツはその焦燥感に突き動かされるようにして歩を進める。何となくだけれど、少し古びたあのペンダントを見つけないといけないような気がしたのだ。やっとのことで目的の場所へとたどり着いた時には、既に息が切れていた。
「お願い、ここにありますように……!」
はあはあと荒く息を切らしながらもそう呟いたファイツは、地面に落ちているかもしれないペンダントを探す為に身を屈めた。その瞬間に身の危険を感じて、反射的にその場所から飛び退いた。すると、ポケモンから放たれたらしきわざが自分が今の今までいたその場所へ雨のように降り注ぐ。飛び退かなければ、間違いなく自分に命中していたことだろう。
「……っ!」
明らかに自分を狙ったその攻撃に、ファイツは一瞬で意識を切り替えて応戦する。自分の思考を正確に読み取ってくれたダケちゃんが、木陰に向かって”ギガドレイン”を繰り出した。攻撃が命中したのを察してもなお、ファイツは警戒を解かなかった。ダケちゃんと共に構えたまま、「そこにいるのは誰?」と言葉を投げかける。あの攻撃は、誰かに指示をされたものに違いなかった。つまりは、この近くにトレーナーがいるのだろう。
「あなたは……!」
少しの沈黙の後で木陰から姿を現した人物を見たファイツは、ほんのわずかに目を見開いた。実に鋭い目付きをしたヒュウが傷を負ったビブラーバを従えて、無言のままでこちらを睨みつけていたのだ。
「どうして、あたしを……?」
彼の表情がものすごく険しいことも気になったが、何よりも自分を狙ったという事実の方が気になった。どうして自分を狙ったのか、その理由をファイツは知りたかった。
「……”どうして”だって?それを聞きてえのはこっちの方だ!」
「え?」
「プラズマ団員の癖して、何でこの学校に来やがった!?」
「え……」
わなわなと身体を震わせながら言い放たれるヒュウの言葉に、一瞬思考が停止する。「答えろよ転校生」と怒鳴ったヒュウの言葉が、どこか遠くで聞こえたような気がするのは何故なのだろうか。どくどくどく、と心臓の鼓動が激しく高鳴る。どうして自分がプラズマ団に所属していたことが彼にばれたのだろう?ファイツは考えをまとめることに必死で、その場にただ立ち尽くしていた。
「だんまりかよ。……ちくしょうふざけやがって!ビブラーバ、”ソニックブーム”!」
「きゃあっ!」
普段ならば、余裕で避けられたはずの攻撃だった。しかし思考が停止していた為に、ファイツはその攻撃をまともに浴びてしまった。顔と服が切り裂かれるその感触に思わず悲鳴を上げたものの、それも長くは続かなかった。彼の攻撃が不意に止んだのだ。いったいどうしたのだろうと反射的に顔を庇ったファイツがおそるおそる手を退けると、先程の自分のように呆然と立ち尽くしているヒュウの姿が視界に映った。彼は、銀色に光るある物を見つめていた。
「お前、これ……」
「あ……っ」
自分にとっては馴染みがある物で彼にとっては馴染みがないであろう物を、ファイツもまた凝視する。先程の攻撃で切り裂かれた鞄から落ちたのだろう。警察官である証拠を示す手錠が、草むらの上で鈍く光っていた。