黒の少年と白の少女 : 013

塵も積もれば山となる
バスに揺られること、1時間弱。社会見学兼課外授業の場にやって来たラクツは、その建物を注意深く見回していた。幼少の頃からの教えで、周囲を注意深く観察する癖がついている為だ。とりあえず見た限りでは、何かの罠等はしかけられていなさそうだ。その結果にある程度警戒は解いたものの、しかしラクツは気を引き締めた。万が一ということもある、やはり用心しておくことに越したことはない。

(ポケウッド、別名映画の都か)

この場所はそれなりの観光名所であるらしく、ここから見回せる場所だけでも興奮した面持ちをしている観光客が幾人も見受けられた。おそらくは、ポケウッドから滲み出る煌びやかな雰囲気に影響されたのだろう。自分の周囲にいる生徒達は皆一様に興奮した顔付きになっていたが、ラクツは微塵も惹かれなかった。強いて何か挙げるとするならば、派手な外観だと思った程度だ。

「随分立派な建物だよねー!何か、見てるだけで圧倒されちゃうって感じ!……ねえ、ラクツくんもそう思わない?」
「そうだね、ユキちゃん。……うん、ボクもそう思うよ」

実に嬉しそうな表情でそう話しかけて来たのは、3人娘の1人であるユキだ。普段にも増してテンションが高く見える彼女は、にこにこと笑顔を振りまいている。そんな彼女に条件反射で笑顔を返したものの、しかしラクツは内心で嘆息した。また彼女か、と声に出さずに呟いてみる。

「ラクツくん、バスの中では珍しく静かだったよね。ラクツくんといっぱい話したかったから、何度も声をかけたんだよ?それなのに気付いてくれないから、私……すっごく淋しかった……」
「あ、そうなんだ。ごめんね、全然気付かなくて……」

言うまでもなく今の言葉は嘘であるわけだが、ユキはその事実にまるで気付かない様子で「帰りのバスではいっぱい喋ろうね」などという言葉を口にしていた。そんな彼女の言動に正直鬱屈した気分になったラクツは、またもや内心で深く溜息をついた。

(仕方ない、これもまた任務だと思うことにするか。つまるところ、忍耐力を鍛える任務といったところだな)

帰りのバスでユキが話しかけて来ないことを密かに望んでいたのだが、どうやら事はそう上手く運んではくれないらしい。いくらマジシャンという名の男に頼んで常日頃から体調管理をマネジメントしてもらっているとはいえ、ラクツだって疲れるものは疲れるのだ。肉体的な疲労は睡眠等で解消出来ても、精神的なものはそうはいかない。ここ最近で疲労が溜まっているという事実をしっかりと自覚していたラクツは、バスの中では唯一自分の素を知っているファイツの隣の座席にこれ幸いと座らせてもらったのだ。
それまでは良かったのだが、結局何度もユキに話しかけられる羽目になってしまった。いいかげん諦めてくれればいいのにと、何度思ったことだろう。正直不快感を覚えていた自分の反応を敏感に察したらしい幼馴染が、やけに心配そうにしていたことが強く印象に残った。そして今も、ラクツの身にはファイツの視線が見事なまでに突き刺さっている。

「それにしても、ポケウッドってすっごい迫力だよね!もしかしたら、映画の撮影とかも出来るのかもしれないよね!」

こちらが訊いてもいないのに「本当はジョインアベニューに行きたかったんだけど、ここに来て良かったかも」などと話し出したユキに対して、ラクツはうんうんと笑みを湛えて頷いた。頷くと言ってもただ機械的に首を縦に振っているだけであって、つまりは彼女の話などまったく聞いていないわけなのだが、ユキはやはりその事実に微塵も気付かない様子で好き勝手に話し続けていた。

(つまり、形だけでもボクに話を聞いてもらえれば彼女はそれでいいということか。彼女のボクに対するこの態度は正直言って辟易するが、今のボクが真正面からそれを告げるわけにもいかないな)

女子に優しい自分を演じている今の自分には、「鬱陶しいから話すのを止めたまえ」という言葉はそぐわないにも程があるだろう。何故かやたらと色目を使って来るユキの態度もそうだが、面と向かって本音を告げられないのが何より嫌だった。
自分で蒔いた種とはいえ、そういう性格設定をしたことをこういう時ばかりは少々悔やんでしまう。表面上はにこやかな顔付きをしている自分が内心ではまったく別のことを考えているなんて、ユキも想像だにしないことだろうとラクツは思った。

「えっと……。そんなに見つめられちゃうと、ボクも困るんだけど……」

わざとらしく眉根を寄せてそう口にしたものの、実際のところは目の前にいる彼女に向けて告げたわけではなかった。離れた場所で先程からこちらに視線を向け続けている幼馴染に対して、ラクツはその言葉を告げたのだ。その幼馴染であるファイツが目線を逸らしたことを気配だけで察して、それでいいと胸中で呟く。
自分とファイツの関係を他の人間に勘づかれるのは避けたかった為にそう口にしたのだが、案の定ユキには自分に向けて告げたものだと勘違いされてしまったらしい。何故か顔を赤くしつつも気まずそうな表情で「ごめんね」と謝った彼女に「大丈夫だよ」と言って、ラクツはユキに向けていた視線を建物に戻した。ポケウッドのオーナーが姿を現したことで、ユキの注意が自分から逸らされたという事実に内心で息をつく。

(ほんのわずかなやり取りでこれ程までに疲労するとは……。やはり、彼女にはなるべく関わらない方が良さそうだ。積極的に関わる意味も最早ないわけだが)

自分に好意を抱いているユキにとってみれば実に非情な現実と言えるが、やはりどうにも彼女と接した後は疲れるとラクツは思った。ポケウッドのオーナーの説明を話半分に聞きながら、ラクツは何がそれ程面白いのだろうと声に出さずに口にする。
小道具室やメイク室を始めとした映画を撮影する為に必須と言える施設が完備されていて、今日1日は自由に見学していいこととなっているらしい。ポケウッドのオーナーがそう言った瞬間に、自分の周囲からは実に盛大な歓声が上がった。「やった」とか「嬉しい」だとか、そんな言葉を声高に叫ぶ者も中にはいて、彼らに交じって嬉しそうな表情を作ったラクツは内心で首を傾げた。この場所を好きに見学出来ることの、どこがそれ程嬉しいのかがまるで理解出来なかったからだ。
やはり国際警察内部で育った自分は周囲の子供達とは感性がまるで違うのだとラクツは思った、こう思うのは別にこれが初めてではないのだけれど。自分と同じ環境で育ったあの娘は果たしてどんな反応をしているだろうかと、ラクツは少し離れた位置にいる彼女に視線をやった。

(ボクとは違って微塵も嬉しくないわけでもないのだろうが、嬉しさより遥かに緊張の度合いが大きいといった感じか。……まったく、あの娘らしいな)

映画の都であるらしいこの場所に来たという事実はファイツの好奇心をそれなりに刺激したらしいが、しかし彼女は明らかに硬い表情をしていた。人が多く、何より初めて来る場所だからなのだろう。あの娘の本来の性質を思えばそれも当然だとラクツは思った。抜けている部分も多いが、ファイツはあれで中々警戒心が強いのだ。もっとも今となっては、自分が彼女の”唯一とも言える例外”になっているわけだが。

(あの娘も、ボクのどこがいいのだろうか……。まったくもって理解に苦しむな)

オーナーの話が終わるや否や、生徒達は脱兎の如く各々の目指す場所へと一斉に駆け出して行った。散り散りになった生徒達に置いて行かれたファイツにヒュウが突っかかっている光景を見ながら、ラクツは1人思考する。
今この場に残っているのは彼女達2人の他にはポケウッド自体に何の関心もない自分とヒュウと仲のいいペタシに、そして3人娘だけだった。どうやら彼女達は、ファイツと行動するつもりであるらしい。

「ねえ、見てあれ!ヒュウったら、またファイたんにちょっかい出してるわよ!」
「本当!バスで構ってもらえなかったからって言っても、あれはないわよねー!」
「そうそう、マユとユウコの言う通りだよね。ヒュウがファイたんに適うわけないのにさー!」
「ヒュウのやつ、きっとまたコテンパンにされちゃうんじゃなーい?だってファイたんったら、女子で一番強いんだもんね!」

ユキ・マユ・ユウコの3人からなる女子のグループはひそひそと好き勝手なことを口にしていたが、3人共が揃ってファイツよりむしろヒュウの心配をしている様子だった。ペタシも眉根を下げてこそいたが、その視線は明らかに彼女ではなく彼に向けられていた。
ファイツの本来の立場と実力を他の誰よりも知っている自分は当然として、気の弱いペタシとヒュウを快く思っていない3人娘までもが揃って彼女の心配をしないのは、あの光景が4人にとっては既に見慣れたものになっている故なのだろう。クラスメイト中にと表現した方が、より正確だと言えるだろうが。

「おい転校生!お前、バスの中ではよくもオレを無視してくれたじゃねえか!いい度胸だな、おい!」
「だ、だって……っ。それは、チェレン先生に注意されたからで……っ!」
「ぐ……っ。んなことは今は関係ねえだろ!とにかく勝負だ勝負!お前のタマゲダケに今こそ勝ってやる!」
「い、今からするんですか……っ!?今日は社会見学じゃないですかあ……っ」
「確かにそうだけど、これは課外授業でもあるからいいんだよ!ポケモントレーナーがポケモンバトルをやって何が悪いんだっつーんだよ!?」
「あ、あの……。あの……っ」

3人娘による「またやってるわよ」やら「ヒュウもよく飽きないわね」やら、「いいかげん諦めればいいのに」やらの最早陰口とも言えるそれを、ラクツは正確に聞き取った。3人娘のことは正直辟易しているわけだが、彼女達の発言は否定出来なかった。潔く実力差を認めて、いいかげん諦めればいいのにと思う。例え彼の手持ちポケモンに生身で応戦したとしても、ファイツは苦もなく勝つだろう。それ程の実力差があるにも拘らず、ヒュウにはそれがまるで見えていないのだ。

(特定の人間にあれだけ勝負を挑んで、彼もよく飽きないものだ)

この1週間程ヒュウはファイツに幾度となくポケモンバトルを挑んでは、断り切れずに応戦した彼女に幾度となく打ち負かされて来たのだ。「ものすごく困ってるの」と密かに打ち明けて来たファイツに、「いっそのこと完膚なきまでに叩きのめせばいいのではないか」というアドバイスを送ったのは何を隠そうラクツだった。事ある毎にヒュウがファイツにポケモンバトルを挑むのは、自分のアドバイスを忠実に実行した結果なのかもしれない。

(本質的にガードが固いというのに他人に好かれる性質も持ち合わせているとは、あの娘も中々に難儀だな。……まあヒュウの場合は好いているのとはまた違うのだろうが、彼女達とペタシは十中八九ファイツの人柄に惚れ込んでいるのだろう)

国際警察内部の上層部にやたらと気に入られているという現実も加味すると、ファイツが人に好かれる性質を有していることは最早疑いようのない事実だった。人の心が理解出来ない自分より、あの娘の方がこのような任務には遥かに向いているに違いない。上層部もそれを重々承知しているからこそ、彼女が自分の補佐をすることについての異を唱えなかったのだろう。コードネームがない故にファイツは自分に自信を持てないらしいが、自己を過少評価する癖を改めるべきだとラクツは思った。

(国際警察官としての実力がまるでないのなら、とうの昔に解雇されているはずだ。人心を容易に掌握する能力も加味してあの娘を評価するべきだとボクは思うのだが、上層部の考えは違うのだろうか……)

転校して来て1週間程度が経ったことになるが、ファイツはまるで最初からクラスにいたかのようにE組に溶け込んでいた。自分のように打算的な振る舞いなどは一切なくて、ほぼ素のままの態度であれだけの数の人間に好かれているのというのだから驚愕だ。もちろん呼ばない者もいるけれど、”ファイたん”というあだ名はいつの間にかクラス中に広まっていた。
ちなみに、ラクツは数少ないファイたんと呼ばない者に当てはまっている。ものの試しに”ファイたん”と呼んでみたらものすごく嫌な顔をされたので、演技をしている時は今まで通り”ファイツちゃん”と呼んでいるのだ。それですらどこか不満そうな表情をする辺り、彼女の希望はそうではないのだろう。ファイツはどうやら呼び捨てにされることを強く望んでいるらしいが、こればかりは叶えてやれない願いだった。

(……日頃の礼というわけではないが、そろそろ助けてやるべきか)

「いつも助けられてばかり」とファイツは口にするが、こちらとてそれは同じなのだ。視線と気配で幾度となく助けを求めて来た幼馴染をそろそろ助けてやるべきかと、ラクツは1歩前へ踏み出した。まあまあとヒュウを宥めたラクツの身体に、ファイツからの感謝の視線が突き刺さった。