黒の少年と白の少女 : 011

むしのしらせ
「きゃあああっ!」

悲鳴としか言えないその声を発すると同時に目を覚ましたファイツは、反射的にばっと飛び起きた。夢で悲鳴を上げるのは別に初めてではないけれど、悲鳴と同時に起きるのは初めてかもしれない。ベッドの縁に腰かけたファイツが荒い息を吐きながらそっと胸に手を当てると、心臓がどきどきどきと激しく音を立てているのが感じ取れた。そのあまりの激しさに、まるで全力疾走をしたかのような錯覚すら起こしてしまう。

「び……っ、びっくりした……っ。本当に、びっくりした……っ!」

独り言で片付けるには大き過ぎる声で、途切れ途切れにそう呟いた。ダケちゃんが心配そうな表情をして膝の上に飛び乗って来たことに気付いて、ファイツは「びっくりさせてごめんね」と言いながらダケちゃんの頭を優しく撫でた。いつもなら自分が起きてもそのまま寝ているのだけれど、あんな大声を上げてしまった為に今日に限っては起きてしまったのだろう。
その時になって初めて自分の悲鳴を聞きつけた他の女子生徒がこの部屋にやって来るかもしれないという可能性に気付いて、ファイツはそうなったらどうしようと思いながらも耳を澄ませてみた。だけどいくら耳を澄ませても他の人間がこの部屋に近付いて来る足音も気配も何も感じられなくて、心配が杞憂で終わった事実にホッと安堵の溜息をつく。自分の顔の側で寝ていたダケちゃんにはそれは大音量に聞こえたに違いないはずだが、他の部屋まで届く程に大きな悲鳴ではなかったことが幸いしたのだろう。
時計を見てみるとまだ朝の4時半で、道理でまだ暗いはずだよねと1人納得する。大抵の生徒なら寝入ってしまっている時間帯だということも功を奏したのかもしれない。別にこの部屋に入られたところで問題があるわけでもないのだが、余計な迷惑をかけるのは嫌だった。

「今日は社会見学、だっけ。どこに行くんだろうね、ダケちゃん……」

ダケちゃんが首を傾げたその動作が愛らしくて、ファイツは口元を綻ばせた。今日は学校での授業は予定されておらず、朝食後少ししたら社会見学に行くことになっているのだ。その為にいつもより早い時間に集合するようにとチェレンには言われているのだけれど、時計の針は何度見ても今の時刻が4時半であることを示していた。例え二度寝をしたってまったく問題ない時間帯であるはずなのだが、ファイツは少しも眠くならなかった。早朝の訓練をする目的で身体が早起きに慣れているというのもあるが、単純に胸がどきどきし過ぎて眠りたくても眠れなかったのだ。

「うう……。まだ心臓がどきどきしてるよ……っ」

飛び起きてからそれなりに経ったというのに、そしてダケちゃんに話しかけて確かに癒されたはずなのに、ファイツの心臓は未だに激しく高鳴っていた。だけどそれも仕方ないと思う、何しろついさっきまで見ていた夢は自分にはあまりにも刺激が強過ぎるものだったのだ。

(キス、しちゃった……。ラクツくんと、キスしちゃった……っ!)

夢の内容を思い出して自然と顔を赤らめたファイツは、人差し指で唇をなぞった。何だか彼の唇の感触が残っているように感じられて、更に顔がかあっと熱を持つ。
今までだって夢にラクツが出て来たことはもう数え切れないくらいあるわけだけれど、こんな夢を見るのは多分これが初めてのはずだ。いつも想っている以上深層心理を映し出すと言われている夢に彼が出て来ても何ら不思議はないけれど、流石にあの夢は刺激が強過ぎた。想ってやまないラクツとの、それも彼からのキスというのはまさに自分の願望を忠実に表した夢だろう。
恥ずかしいけれどやっぱり嬉しい、ただの夢で終わらせるのは何とも惜しいとファイツは思った。あそこで夢が終わってしまったのが、つくづく残念でならなかった。

「あーあ、何で悲鳴なんて上げちゃったんだろう……。本当、もったいないことしちゃったなあ……。ねえ、ダケちゃん……」

自分が見た夢の詳細を知るはずもないダケちゃんが、今度は不思議そうな表情をして見上げて来る。ラクツと自分がキスをした瞬間をもう一度思い浮かべて目をとろんと細めたファイツは、だけど次の瞬間にはたと固まった。もし悲鳴を上げずにいたら、夢の中での自分は果たしてどうなっていたのだろうか。

「…………」

数秒の沈黙の後で、ファイツはばっと両手で顔を覆った。顔中に熱が集まっているように思えるのは気の所為ではないだろう。大好きなラクツにキスをされた時に自分が悲鳴を上げなかったとしたら、きっとそれ以上のことをされていただろうという結論に至ったのだ。根拠と言えるものは自分達の雰囲気が恋人のそれにしか思えなかったというだけのことなのだが、ファイツは何故かその結論が間違っているとはどうしても思えなかった。

「うん……。やっぱり、あそこで終わってくれて良かったのかも……」

もし本当にそうなったとしたら悲鳴を上げるどころでは済まなそうだ、もしかしたら恥ずかしさのあまり気絶をしてしまうかもしれない。それに、しばらくはラクツの顔をまともに見れなくなってしまうだろう。大好きな彼の顔を見られないのは、とても辛いことだった。だからきっとあれで良かったのだろうと、ファイツはそう思い直すことにした。

(キス以上、かあ……)

もちろん実際に経験したことはないが、ファイツはキス以上の事柄の詳細についてそれなりに把握していた。あくまで伝聞による知識だけれど、少なくとも同年代の少女よりかはその手の知識はあると言えるだろう。それは教育の一環としてそういうことを長官直々に教えられた所為なのだが、何より国際警察内部を歩いていると時折聞こえる話を耳が勝手に聞き取ってしまうというのが大きかった。
自分より随分歳上の同僚達は皆笑いながら話をしていたのだが、ファイツはそういう話題を耳にする度にその場を足早に駆け抜けたものだった。自分でも実に子供っぽい対応だとは思うが、やっぱりああいう話題は何度聞いても慣れないものだ。

「ああいう話をしてたのは男の人ばっかりだったけど、ラクツくんはどうなんだろう……。ラクツくんも、そういうことに興味があるのかな……」

声に出してそう呟いてしまった後で、ファイツははっと我に返った。自分ですらそうなのだから、ラクツだってまず間違いなくそういうことへの知識は持っていることだろう。だけどだからと言ってこんなことを、つまりは自分とラクツがキス以上のことをしている場面を想像してしまうのは、果たしていかがなものだろうか。

「あ、あたしったら何考えてるのっ!?こんなこと考えちゃダメだってばあっ!」

何だか自分自身がとてつもなくいやらしい女であるように思えて来て、慌ててぶんぶんと首を横に振る。今しがた自分の頭の中で生まれた光景は何とか消え去ってくれたものの、ものすごく泣きたい気分になった。こんなことを考えるなんて彼に悪いと、ファイツは心の中でごめんねと謝った。
片想い歴こそ長いが、自分達はあくまで幼馴染の関係なのだ。恋人でもないのにそういうことをしている場面を想像するなんて、やっぱり彼に失礼だ。気持ちを切り替える意味で両頬をばしばしと叩いて、ファイツは自分自身に気合を入れた。

「……よし、今日も頑張らなくちゃ!」

せっかくこんな早い時間に目が覚めたのだ、どうせ眠れないのなら訓練をしようと思ったファイツは立ち上がった。ぐぐっと大きく伸びをしてから、デスクの上に置いてある宝物をそっと手に取った。お風呂と寝る時以外はいつも身に着けているこのペンダントは、ファイツの昔からの宝物なのだ。中に収められている写真に写った人物を見て、ファイツは柔らかく微笑む。
このペンダントの中にはラクツの写真を何枚か入れているのだ。これは誕生日プレゼントとして一度はコードネームを希望した自分が、それならとラクツにねだったことによって手に入れたものだ。彼の反応は「そんな物でいいのか」という何とも微妙なものだったけれど、ファイツは「それがいいの」と言って自分の希望を押し通した。この写真は、お金には代えられないプレゼントだ。この2年間ずっと入れていた10歳のラクツの写真とつい先日手渡されたそれを見比べてみると、その差は明らかだった。

(こうして見ると、ラクツくんって随分背が伸びたんだなあ……。いつのまにかあたしより高くなってるし、このまま引き離されちゃうんだろうなあ……)

最初は身長の差だったはずが、次第に自分と彼の国際警察官としての実力の差の方を思い浮かべてしまい、ファイツは憂鬱な気分になった。ついつい落ち込んでしまった自分にこんなこと考えちゃダメと慌てて言い聞かせる、落ち込んでいる暇があったらもっと訓練を重ねて自己を高める努力をするべきだろう。何と言っても自分は他の国際警察官より実力が劣っているのだ。
頑張らなくちゃと自分を鼓舞したファイツは宝物であるペンダントを首にかけたが、次の瞬間に声を上げた。ペンダントが中途半端にぶら下がっている感触を服の下で感じ取った、どうやらチェーンが片側だけ切れたらしい。自分の宝物であるそれが重力に従った結果、カツンと音を立てて床に落ちる。小さいはずのその音が、やけにはっきりと耳に届いた。

「…………」

床に落ちたペンダントを慌てて拾おうとしたファイツは、手を伸ばしたままの状態で固まった。もやもやとした何かが心の中で急激に膨らんで、どうにも落ち着かなかったのだ。言うまでもなく、それは嫌な予感だった。

「何でこんな気持ちになっちゃうんだろう……」

ラクツくんの写真が入ったペンダントから伸びているチェーンが切れたからそう思うのかな。そう小さく呟いて、ファイツは大切な宝物を拾い上げた。残念なことにチェーンは完全に切れていて、直せそうもないことはすぐに分かった。

「チェーンの替えって、まだあったかなあ……」

ファイツはぶつぶつと呟きながら鞄の中をがさごそと漁ったが、生憎お目当ての物は見つからなかった。何かの拍子で切れた時の為にと鞄の中に替えのチェーンを入れているのだけれど、どうやら切らしてしまっていたらしい。

「あれ?」

落胆から思わず溜息をついたファイツは小さな声を上げた、キラリと光る物が目に止まったのだ。いったい何だろうと、鞄の底からその光った物を出してみる。

「ペンダントだ……。これ、いつ買ったんだっけ……?」

銀色に光るそれは、確かにペンダントだった。既にペンダントを持っている自分がこんなものをいつ買ったのかと記憶を手繰り寄せるが、結局答は出なかった。

(ラクツくんの写真を入れるペンダントを買った時に、一緒に買ったのかなあ……?)

そう声に出さずに呟いて、チェーンがだらりとぶら下がっているペンダントを見つめる。そういえば、あれを買う時には随分と悩んだものだった。ペンダントを2個買ったはいいものの、そのまま鞄の中に入れっぱなしにしていたのかもしれない。

「……うん、今日1日は代わりにこれをかけようっと!」

宣言するようにそう言い切って、ファイツは鞄の中でずっと眠っていたペンダントを首からぶら下げる。銀色に光るそれは、普段のペンダントより少し重かった。せっかく買った物に悪い気がするし、何よりいつも感じる重みがないとどうにも落ち着かなかったのだ。

「これでいいよね。行こう、ダケちゃん!」

ダケちゃんを肩の上に乗せて、ファイツは意気揚々と部屋を出た。自分が重大なミスを犯していたことには、まるで気付かなかった。