黒の少年と白の少女 : 010
決められた道筋の上で
手に持ったファイツ曰く誕生日のプレゼントと、左手に持った菓子。自分への贈り物のどちらを先に開封するかを少し迷って、結局ラクツは自分への誕生日プレゼントが入っているらしい包みをデスクの上に置いた。別に深い意味があるわけではなくて、ただ単に利き腕に持った方を先に開けようと思っただだけのことなのだが。きつね色に焼き上がっている菓子を軽く一瞥して、ラクツはそれを口の中に放り込んだ。「……ど、どうかな?」
咀嚼した菓子を飲み込んだタイミングを見計らって、ベッドに腰かけたファイツがそう尋ねて来る。「美味しかった?」との言葉が続かない辺り、彼女も菓子の出来栄えに少なからず不安を抱いているのだろう。感想を求められたラクツは軽く思案する。口内にはまだ甘さが残ってはいるものの、悪くない味だった。
「まあ、食べられなくは……」
「…………」
「……ああ、いや……」
食べられなくはないと言いかけた途端にファイツの眉根が思い切り寄せられたことに気付いて、発しかけた言葉を別のものに差し替える。ここで正直な感想を告げたら、まず間違いなく「素直に美味しかったって言いなよ」と言われることになるだろう。それ自体はいつものことだから別に構わないのだが、ファイツの膝の上に乗っているダケちゃんがそんな感想を告げた自分に向かって”たいあたり”を繰り出して来る可能性もないとは言えない。
例え実際にそうされたとしても容易に避けられるから大した問題ではないのだが、それはそれである意味厄介だとラクツは思った。攻撃を避けたら避けたで、お次は大量の胞子を撒き散らすということも充分に考えられるからだ。ファイツからの厳重注意を受けているとは言っても、頭に血が上ったらそんなことはお構いなしにわざを繰り出して来るだろう。完璧な床掃除を行う労力に比べれば、「美味しかった」と告げる方がずっといいに決まっている。
(それに、ボクの舌に合ったのは事実だしな)
よくよく菓子の味を思い返してみれば、確かにそう評してもいい味であることは事実だった。少なくとも、過去にもらった菓子と比較してみればその味の差は歴然だと言っていい。言葉を切って10秒程度でそんな結論に至ったラクツは、不安そうな眼差しを向けて来るファイツを見据えて口を開く。ちなみに彼女の膝の上にいるダケちゃんはファイツとは真逆にも程がある視線を向けていたのだが、例の如くラクツは無視した。
「……うん、美味しかったぞ」
「……えっ?」
「何だ、その顔は」
「も、もう1回言って!?お願いラクツくん!」
「だから、美味しかったと言っている」
「ほ、本当!?」
ベッドからわざわざ腰を浮かせて、ぐいっと詰め寄って来たこの娘の勢いに半ば押されるようにしながら軽く頷いてみせると、ファイツはダケちゃんを抱き締めながら控えめに歓声を上げた。どうやら相当嬉しかったらしい。
「ラクツくんに”美味しかった”って言われたの、これが初めてだよ……!……別に、あたしを気遣ったわけじゃないんだよね?」
「まあ、な。悪くないと思ったのは事実だ、少々甘味が強過ぎる気はするが」
「そっか、今度はもう少し甘さを控えめにしてみるね。……そうしたらまた食べてくれる?」
「別に構わないが、ファイツはやたらとボクに手作りの菓子やら手料理やらを食べさせようとするものだな。以前から気になっていたが、何故お前はそんなことをするんだ?味見役ならボクの他にもいるだろう」
「だって、あたしはラクツくんが好きなんだもん。他の誰かじゃなくて、ラクツくんの為に作ってるんだよ。好きな人に手料理を食べて欲しいって思うのは当たり前でしょう?」
自信満々にそう言い切られても、好きな人などいないラクツには同意出来るはずもなかった。彼女も答など求めていないのだろう、無言のままのこちらの反応に何も言うことなく「それにね」と言葉を続ける。
「ラクツくんって、あたしが作った食べ物はすぐに口に入れるでしょう?それが、あたしにとってはすっごく嬉しいから……」
ファイツの言葉に、ラクツは小さく頷いた。毒やら薬などの、摂取したらまず身体に害になるものを何か入れられていないかという確認を何もせずに食べられるものと言えば、彼女の手料理だけと言い切ってもいい。
(まあ、食べたら食べたで別の問題があるわけだが)
例えば、砂糖と塩を間違えたとか。例えば、調味料を入れ過ぎたとか。毎度毎度張り切って作るのはいいが、彼女の料理の腕はお世辞にもいいとは言えなかった。他にも鍋を爆発させたり台所を滅茶苦茶にするなど、色々と仕出かしてくれるのだ。
料理の味付けの失敗ならまだしも、鍋が爆発したというのは正直理解に苦しむ。過去にこの娘が仕出かした数々の失敗を思い返すと、自然と溜息をつきたくなってしまうものだ。目に見えて落ち込むことが分かり切っているから、胸中でするだけに留めたけれど。
「お前がボクに毒や薬を盛るはずもないからな」
「そんなの当たり前だよ!だって、世界で一番大好きな人なんだよ!?」
「わざわざ言われずとも知っている」
「……と、とにかく!あたしがラクツくんに信頼されてるってことだもんね……。うん、やっぱり嬉しいな……」
うっとりと頬を紅潮させているこの娘には構わずに、ラクツは過去を思い返した。最初はひと口も食べずにファイツの手料理をそのまま突き返していたことを思うと、実に目覚ましい進歩だと自分でも思う。ちなみに例の3人娘からもらった菓子は、いつものように入念に観察してから口内に入れさせてもらった。やはり甘過ぎる以外の問題はなかったわけだが、こうしないとラクツの方が落ち着かないのだ。
むしろ普通に食べられるファイツの手料理の方が、自分にとっては異質と言えるのかもしれない。例えばこの先何かと大袈裟な反応をするあの部下が信用出来る人間だと判断出来たとして、果たして自分の中であの男はファイツと同じ位置に並べられるだろうかとラクツは思った。
(何を分かり切ったことを考えている)
わざわざ問いかけるまでもなく、その答は否だった。今まさに同じ空間にいるこの娘以上に信頼出来る人間などいるはずがないと、どういうわけか根拠もなく思えた。ラクツにとって、ファイツは確かに特別な存在だった。相も変わらず頬を染めているこの娘には、わざわざ言ってやらないけれど。
「えっとね、ラクツくん。単純に好きな人に食べて欲しいからっていうのも嘘じゃないんだけど、それだけじゃないんだよ」
「……ファイツ?」
先程まで確かに嬉しそうに微笑んでいたはずの彼女は、今や明らかにそうと言えない表情をしていた。伏し目がちにしていて、「あのね」と言う声もどこか震えていた。
「本当はね、ラクツくんにあんな確認なんてして欲しくないの。昼間のお店の料理だってちゃんと確認してたよね、最初のひと口はすっごく少ない量しか食べなかったし……。それって、もしもの時のことを考えてのことでしょう?何か悪いものが入ってないかを食べる前にいちいち確認しなくちゃいけないなんて、そんなのかわいそうだよ……」
「かわいそう、と言われてもな。ボクはそう育てられたからそうするのが当たり前なわけだが。ファイツ、お前だってそういう教育を受けただろう」
「それはそうなんだけど、あんまりいい気持ちにはなれないよ。確認するのを止めるわけにはいかないの?」
「無理なことを言うな」
ファイツの言葉から窺い知れる自分を案じる感情を受け止めた上でそう答えると、彼女も分かっていたらしく「やっぱり?」と返した。淡々と頷いたこちらの反応に「そっか」と答えたファイツの声には、どこか淋しさが含まれているように思えてならなかった。
「……こちらの包みも開けるぞ」
この話は終わったとばかりに、ラクツはもう1つの包みに手を伸ばす。その途端にどうしようだとか緊張しちゃうだとか、言葉にならない言葉を何やら呟き始めたファイツには構わずに、ラクツは残った包みを綺麗に開封した。
「ハンカチか」
真っ黒なハンカチを手に持つと、フタチマルが物珍しげに見上げて来る。どうやらまともに話せるようになったらしいファイツが、「そうなの」と頷きながら言った。
「モンスターボールとかきずぐすりとか、高価な道具とか……。ラクツくんって、ポケモントレーナーとしてとにかく実用的な物を欲しがるでしょう?毎年毎年そうだったから、今年は別の物にしたくて……」
「色々悩んだけど結局はそれにしたんだよ」と締め括ったファイツに、ラクツは「そうか」と短く返した。この娘は今しがた”欲しがった”と言ったがそれには語弊がある。それらはあくまで必要だから自分への贈り物として挙げただけで、ラクツ自身が何かを強く欲したことは一度たりともないのだ。
「遅くなっちゃったけど、誕生日おめでとう!」
「誕生日と言われても、正直その実感も何もないな。5月4日はボクが長官に拾われた日であって、別に産まれた日というわけでもないだろう」
「それでも祝うの!だってラクツくんが長官に拾われてなかったら、あたし達が出会うことはなかったかもしれないし……!」
そう口にするファイツは、本名と誕生日と血液型を把握していた。それは単に彼女が自分のような嬰児の頃に拾われたからではなかったというだけのことなのだが、その話題になるとファイツは決まって少し悲しそうな顔をするのだ。親に捨てられたという点では自分も彼女も条件は同じなのに、その表情になる理由がラクツはまるで分からなかった。今回はその話題にならないこともあって、ファイツはどういうわけかその必要もないのに誕生日という日の重要性を力説していた。
「それに5月4日は、あたしとラクツくんが初めて出会った日でもあるんだよ?祝わなくちゃダメだよ!」
「……お前に出会った日か。どうやらそうらしいな。まったく、こういうことはよく憶えているものだな」
「そうらしいじゃなくて、そうなの!……もうっ、ラクツくんはもっと任務以外のことにも関心を持ってよ!誕生日は特に大事な日なんだから!」
はっきりとそう言い切ったところを見ると、ファイツにとってはどうやら余程重要なことであるらしい。便宜上の誕生日を当の本人である自分より彼女の方がずっと重要視しているわけだが、今に始まったことでもないのでラクツはそれ以上何も言わなかった。
「それで、どうかな……?ハンカチなら実用的だし、何枚あっても困らないと思うんだけど……」
「確かに実用的ではあるな。ありがとう、ファイツ」
「う、うん!結局いつもの色にしちゃったけど、それで大丈夫だった?」
「ああ、この色でいい」
「良かった!……ラクツくんっていえば、やっぱり黒だもんね!」
「防御スーツと同じく、黒なら血が付着しても目立たないからな」
「もうっ、また任務のことばっかり!こういう時くらいは忘れてよっ!」
「国際警察官である人間にまったく無茶を言うものだな、お前は」
何でもかんでも任務と結び付ける自分の反応が不満であるらしく、ファイツはむうっと頬を片方膨らませた。しかしそれも数秒の間だけで、すぐに表情を元に戻したファイツは「広げてみてくれる?」と頼んで来た。相変わらず表情を目まぐるしく変える娘だと思いながらも、ラクツは彼女の求めに応じて真っ黒なハンカチを広げてみる。すると、隅の方に白い糸で何やら刺繍がされているのが視界に入った。どう見てもアルファベットにしか見えないそれを口にする。それは、言うまでもなく自分の名前だった。
「ハンカチが黒地だから、目立つように白でラクツくんの名前を入れたんだよ。不器用な割には何とか上手く出来たかなあって自分では思ってるつもりなんだけど……。ど、どうかなあ?」
「お前が入れたのか。確かに綺麗だな」
「うん、頑張ったもん!プラズマ団に潜入してた頃に、あたしに色々と親切にしてくれた女の人がいてね。その人にやり方を教わったの。何度も練習したおかげで、ラクツくんの名前だけは上手になったんだよ。……えっと、他の文字はいまいちだけど」
「まあ、本名はボク自身も知らないわけだがな。コードネームで呼ばれていたボクをその名で呼び始めたのは、ファイツだろう」
コードネームそのままで呼ばれていた自分に”ラクツ”の名を付けたのは、何を隠そうファイツなのだ。黒の2号だと呼びにくいからということらしいが、今となってはその名がまるで自分の名であるように思えて来るから不思議だ。
「だって、”黒の2号くん”なんて呼べないでしょう?コードネームから捩ったその名前を付けた過去のあたしを褒めてあげたいくらいだよ。でも、ラクツくんがこの学校でその名前を名乗るっていうのは正直意外だったかな。……絶対、偽名だと思ったのに」
「単に最初に思い浮かんだ名を使っただけだ。今更大した問題でもないが、お前こそ”ファイツ”という名でプラズマ団に潜入したと聞いているぞ」
この学校にプラズマ団の関係者がいるかもしれないのだから結果的には正しかったのだろうが、正体が露見したら危険が及ぶ可能性のある組織に潜入する際に本名を名乗るというのは本来得策とは言えないだろう。呆れ混じりの視線を向けてやると、ファイツは気まずそうに目を逸らした。どうやら彼女にとって、あまり触れて欲しくない部分だったらしい。
「えっと……。それは潜入初日に、ついうっかり本名を名乗っちゃったからで……」
「潜入捜査用にどんな名を使おうと当人の自由だが、感心は出来ないな」
「今更だけど、あたし……。ここで本名で通してて、大丈夫なのかなあ……」
「まあプラズマ団に潜入していた頃ならともかく、学校ならそこまで危険な目にも遭わないだろう。どの道、生徒達とは短いつき合いにしかならないわけだからな」
「そっか、良かった……」
ファイツはホッとしたように深く息を吐くと、「ラクツくんがこの学校でその名前を使ってくれてて嬉しい」と言ってはにかんだ。いつものことだが、本当に嬉しそうに笑うものだとラクツは思った。
「あたしの中ではもうすっかりラクツくんで定着してるっていうのもあるけど、この学校で堂々とラクツくんって呼べるのが一番嬉しいな」
「そういうものか?」
「そういうものなの!ラクツくんにもしこの先好きな人が出来たとしても、あたしのことはずっとファイツって呼んで欲しいな。ラクツくんにお前って呼ばれるのも、呼び捨てにされるのも、どっちもあたしにとっては嬉しいことだもん」
「またその話か。……まあ、別に構わないが」
そう言うと、ファイツは両手を合わせてまたもや嬉しそうに微笑んだ。自分に名を呼ばれることの何がそれ程嬉しいのかがやはり理解出来なくて、軽く首を傾げる。彼女の性格を熟知しているつもりでも、こうしてみると結構理解出来ないことがあるものだとラクツは今更ながらに思った。
「……あ、そうだ!」
「何だ?」
「名前と言えば、そのフタチマルには付けないの?ラクツくんはその子にニックネームを付けてないんでしょう?」
ファイツは自分の膝に頬杖を付いて、傍らに佇んでいるフタチマルに視線を移す。同じように自分の手持ちポケモンを一瞥したラクツは「つけていない」と答えた。出会った頃からフタチマルのことはそのまま種族名で呼んでいるのだ。
「そうなんだ。……ねえ、ラクツくんさえ良ければニックネームを付けてみたらどうかな。そうしたら、もっと絆が深まるかもよ?」
「名前ぐらいで何が変わるとも思えないが、一応考えておく。……ところでファイツ、お前は何が一番欲しいんだ?」
「え?……何って?」
「お前の誕生日に贈る物だ、今月の16日だろう。先を越されたが、ファイツは今一番何が欲しい?」
「……えっと、コードネームかな」
傍目から見れば普通の少女であるようにしか見えないファイツも、やはり一端の国際警察官であるらしい。誕生日のプレゼントにコードネームを欲しがるその様は、どう見ても普通の少女とは言えなかった。
「いくら欲しがったとしても、それはボクが贈れるものではないな。だが、この任務を完遂すればそれを授かる可能性もより高まるだろう。今度の定期報告で長官にお前と組めるように進言しておくつもりだから、努力を重ねることだ」
「え、あの警部さんの代わりにってこと?……そんな、あたしに気は遣わなくていいよ!?」
「だから、お前には気を遣わないと言っているだろう。長年組んだお前がいた方が、ボクとしてもいいと思ったから進言するまでだ」
「でも……。一緒に組んだのって訓練の時だけで、実践では……」
「まあ、何とでもなるだろう。少なくとも、あのハンサムよりはお前の方がずっといい。許可が下りなければ最悪トリオでも構わない。とにかくこれは決定事項だ、ファイツは余計なことは考えなくていい」
「う、うん…っ。……あたし、頑張るね!」
両の拳を握り締めて気合を入れた後で、「コードネームは白の2号がいいな」と言ったファイツにラクツは「そうか」と返す。コードネームは自分で希望してもいいし、思いつかなければ長官から直々に授かることとなっているのだ。まだ言葉も碌に話せなかった頃にコードネームを付けられた自分は必然的に後者となったが、この娘の場合はそうではないらしい。
(その由来は何だ、などど訊くまでもないな)
ファイツはどこまでも自分しか見ていない娘だとラクツは思った。これまでと同じように、きっとこの娘は自分の後をひたすら追いかけて来るのだろう。これまでだってずっとそうして来たのだから、これからもそうなるに違いないはずだとラクツは思った。そして性別や階級こそ違えど、同じ国際警察官としてこれから先も共に任務を遂行していくことになるに違いないとも思った。国際警察官になるように育てられた自分達には、それ以外の生き方しか用意されていないのだから。
そうに違いないと、ラクツは本気で思っていた。ファイツと共に国際警察官として生きる未来を、その時のラクツは心の底から信じて疑わなかった。