黒の少年と白の少女 : 008

理解出来ないその感情
「ラクツくん、どうだった?」

昼食を食べた店から学校に帰る道すがら、にこにこと笑いながらそんなことを尋ねて来た幼馴染に、彼女の意図を完璧に理解したラクツは「何がだ」と半ば投げやりに問い返した。「分かってるでしょう」と言ったファイツは頬を軽く膨らませる。どうやら自分の素っ気ない反応が不満だったらしい。

「だから、あのパフェのことだよ!あたしが言った通り、すっごく美味しかったでしょう?」

問いかけの形こそ取っていたが、ファイツは自分の発言に自信を持っているのだろう。蒼い瞳を柔らかく細めてこちらを覗き込んで来た彼女は、何故か勝ち誇ったような表情をしている。

「何だかんだ言っても、結局はあたしより多く食べてたもんね?しかも、最後に残ったチョコレートの欠片まで綺麗に食べてたし!」
「……相変わらず、お前はボクをよく見ているな」
「そんなの当たり前だよ、だってラクツくんだもん!」

事あるごとに「だってラクツくんだもん」と言うファイツは、今や得意げに笑っていた。そんな彼女にパフェを食べた感想を求められたラクツは、少しだけ考えてから「そうだな」と言った。もう少し甘さが控えめでも良かったとは思うが、あれは中々に悪くない味だった。

「……まあ、味は悪くはなかったな」
「もうっ!そういう時は素直に美味しかったって言おうよ、ラクツくん!……ほら見て、ダケちゃんも素直じゃないラクツくんに怒ってるよ?」
「ダケちゃんがボクに対して何かと怒るのは、今に始まったことでもないだろう」
「あたし、ラクツくんとダケちゃんにはもっと仲良くなって欲しいんだけどな……。本当に何でなんだろうね?長いつき合いなんだから、ラクツくんにだってもう少しくらい懐いてもいいのに……」

ファイツに倣ってダケちゃんを一瞥すると、彼はまるで威嚇するように鋭い視線を向けて来た。直接害を被ったわけでもないのでラクツはそのまま眺めることにしたのだが、ファイツの方は焦ったように彼の名前を連呼していた。

「ダケちゃん、ダケちゃんってば!ラクツくんに攻撃しちゃ絶対ダメだからね、あたしの一番大切な人なんだから。本当に本当に、世界で一番大好きなんだから!」

今までに数え切れないくらい告げられて来た、ファイツからの大好きという言葉。告白としかいえないその台詞に、今回もラクツは何も返さなかった。別に彼女のことが嫌いというわけではなくて、単に自分には”好き”という感情が理解出来ない為だ。

(……だが、やけに気になるな)

国際警察官として任務に従事する自分が色恋に現を抜かすことなどあり得ないと思っているラクツだが、どういうわけか今回に限っては彼女の言葉に引っかかりを覚えることとなった。こうも熱を込めて”好き”と連呼されたからなのだろうか。間違いなくあらぬ誤解をされるだろうなと思いながら、それでもラクツは口を開いた。

「ファイツ。……その、好きという感情についてだが」
「えっ……」

予想通り、こちらの質問に酷く驚いたらしいファイツは、言葉にならない言葉を漏らすとそのまま固まってしまった。ただでさえ大きい瞳は更に大きく見開かれていて、おまけに蝋燭にともされた火の如くゆらゆらと揺らめいている。その反応を目の当たりにしたラクツは、呆れ混じりの息を吐き出した。毎度のことだが、何故この娘はこうも分かりやすい反応をしてくれるのだろうか?

「一応言っておくが、お前が危惧しているような事象は起こっていない。単に興味本位で尋ねただけだ」
「……す、好きな人が出来たってわけじゃないんだよね……?」

大抵の人間なら聞き取れない程に小さく呟かれたファイツの声を正確に聞き取って、ラクツは「ああ」と淡々と返した。すると、彼女は音もなく地面に座り込んでしまった。

「あたし……。ラクツくんにとうとう好きな人が出来たのかもって思って、不安で仕方なくて……!でも、違うんだよね?そうじゃないんだよね……っ!?」
「だから、そうだと言っているだろう」
「うわあああん!良かったよお……っ!」

瞳から大粒の涙を零してむせび泣くこの娘の反応に、ラクツは大いに困惑する羽目になった。何故こうも大袈裟に泣くのかが自分には分からない、まったく理解出来ない。意中の相手を作ればこの娘の感情も理解出来るのかもしれないと思考して、そんな考えを抱いた自分自身に内心で驚愕する。
しかし感じたそれを表情には出さずに、ラクツは未だに地面にへたり込んでいる彼女に向かって「とりあえず早く立ってくれ」と告げた。学校では軽薄な男を演じている都合上遅刻することもあるのだけれど、本来の自分は時間を厳守する人間なのだ。

「うん、ごめんね……。……あ、あれ……?」
「どうした?」
「安心したら、腰が抜けちゃったみたい……。すぐ立つから、ちょっと待って……きゃあ!」
「耳元でそんなに大声を出さないでくれ、ファイツ。ダケちゃんも、ボクにわざを繰り出すのは勘弁して欲しいものだな。勢いでファイツを落としかねない」
「ご、ごめんねラクツくん……。ダケちゃんもおとなしくしててね。……じゃなくて!何してるのラクツくんっ!」
「随分とおかしなことを訊くものだな、横抱きに決まっているだろう」
「そ、そうだけど!……そうじゃなくて……っ!」

「恥ずかしい」とか、「急にこんなことされたら困っちゃう」だとか。何ともわけの分からないことをぶつぶつと呟いているファイツに、ラクツは眉をひそめる。ここで彼女の状態の回復を待った結果万が一遅刻する羽目になったとしたら、自分達2人共が怒られることになるのだ。ラクツはそれでもまったく構わないわけだが、ファイツの方はそうではないであろうことは容易に想像がつく。
彼女はただでさえ気が強いとはいえない娘なのだ、先生の叱責を受けたらまず間違いなく落ち込んでしまうだろう。それを防ぐ為に横抱きをしたというのに、どうやらこの娘にはその行為が不満だったらしい。いったい何が良くなかったのだろうと、ラクツは悠然と歩きながらわずかに首を傾げた。

「お前が立てるようになるまで待つより、ボクがこうして運んだ方がいいと判断したからそうしたまでのことだ。いったい何が不満なんだ、ファイツ?」
「ふ、不満じゃないよ!ただ、恥ずかしくて……」
「ボクにこうされることのどこが恥ずかしいんだ?別に、これが初めてというわけでもないだろう。……まあ、随分と久し振りではあるが」

ふと脳裏に浮かんだのは、幼い頃の訓練漬けの日々だった。厳しい訓練だった故に自分もこの娘もよく怪我を負っていたのだが、成長するにつれて確かにその頻度は減って行った。しかし完全に怪我を負わなくなったといえばそうではなく、彼女が足に怪我を負う度にラクツはこうして横抱きにしていたのだ。

「うん。そうだね……」

多分、ファイツの方も自分と同じく幼い日々の出来事を思い返しているのだろう。先程までの慌てた様子から一転して黙ってしまった彼女には構わずに、ラクツはひたすら前へと歩を進めた。幸い学校までは後少しだ、この速度なら遅刻することはないだろう。

「……ねえ、ラクツくん」
「何だ」
「今は前じゃなくて、あたしを見て欲しいな」

せがむようなその声に折れたラクツは、仕方なく視線を下に落として足を止めた。すると、瞳を柔らかく細めているファイツとしっかりと視線がかち合う。

「あのね、ラクツくん。ラクツくんに初めてお姫様抱っこをされた時のこと、あたしは今でも憶えてるよ。ラクツくんには些細なことだなって呆れられるかもしれないけど、あたしにとってはすっごく大切な思い出なの」
「ボクに横抱きにされたことがか?」
「うん。怪我をして泣いてたあたしに”泣くな”って言ってくれて、そのままベッドまで運んでくれたよね。自分だって怪我をしてるのに、あたしが泣き止むまでずっと傍にいてくれて……。あたし、すっごく嬉しかったんだよ……?」
「些細なことを、よくそこまで詳細に憶えているものだな」
「あ、やっぱり言った!もうっ、あたしにとっては些細なことじゃないんだからいいの!だってあたしがラクツくんのことを怖いって思わなくなったのって、そのおかげなんだもん」
「それは初耳だな」
「あれ、そうだっけ……?」

小さく首を傾げて何やらぶつぶつと呟いていたファイツは、はっと我に返るとこちらを見上げてにっこりと微笑んだ。まったくもっていつも通りの、満面としか言いようのない笑みだ。

「いつも眉間に皺を寄せてる怖い男の子にも、ちゃんと優しいところがあるんだなあって思ったの。それから何となく気になっちゃって、気付いたら……」
「ボクに好意を抱いていた、と?」
「うん。最初はあれだけ怖がってたはずなのに、不思議だよね。今はもう、ラクツくんを見るだけで本当に幸せになれるんだよ。あたしがこんな気持ちになるのは、ラクツくんだけなの」
「そうか」

頬を赤く染めているファイツの顔を一瞥したラクツは、いつも通りにそう言った。好意に対して実に素っ気ない一言だけを返されたというのに、ファイツは気分を害した様子もなく「うん」と頷いた。

「いつか、ラクツくんにもそういう人が絶対出来るよ。打算とかじゃなくて、心の底から好きだって思える人が……」
「お前の言う対象が本当にボクの眼前に現れるとは思えないがな。不快な人間ならそれなりにいたが、そういう意味での”好き嫌い”とはまた違うものなんだろう?」
「全然違うよ!何ていうか、こう……心がふわふわするみたいな感じって言えばいいのかな。その人と接するだけでどきどきしちゃうっていうか、近くにいるだけで気を許せるっていうか、すっごく安心出来るんだよ。……とにかく、本当に幸せな気持ちになれるの!」

横抱きにされたままそう力説するファイツにまたもや「そうか」と言って、前方へと視線を戻したラクツは再び歩き始めた。手のひらに乗せたダケちゃんに同意を求めている彼女の声を聞き流しながら、1人思考する。

(気を許せる……か)

ファイツの恋愛談義を聞いてもなお自分には恋愛感情としての好意というものが理解出来なかったが、どうやら人を好きになると大層幸福な気持ちになれるらしい。その条件には”気を許せること”というのが含まれているのだろうかとラクツは思った。もしそうだとしたら、自分の中での最有力候補はどう考えてもファイツということになる。この娘がそうであるようにラクツもまた幼馴染であるファイツに気を許しているし、彼女に対しての不快感は欠片も見当たらないのだ。
国際警察には自分達のような捨て子がそれなりにいるが、立てるようになって間がない頃から国際警察官になるべく苛烈な訓練を積んだのはまさに自分とこの娘だけと言っても過言ではないだろう。共に過ごした時間の長さ故なのか、それとも彼女の人柄故か。理由ははっきりと分からないまでも、自分がファイツのことを大切に思っているということだけは理解出来る。しかし、それでもこの娘に向ける感情は恋愛感情ではないのだろうという結論にラクツは至っていた。何しろこうしてファイツをじっと見つめてみたところで、彼女が言うような幸福な感情とやらは何ら湧き上がって来ないからだ。

「ど、どうしたの?ラクツくん……」
「……別に、何でもない」
「そう……?……あ、そうだ。また今日も部屋にお邪魔していい?」

ファイツにおずおずと尋ねられて、そういえばハンサムに彼女のことについて色々と言われていたなと胸中で呟いた。同時に誕生日のプレゼントの希望もまだ訊いていないことに気付いたが、別にそれは後でも問題ないだろう。どこか不安そうにしている彼女に「大声を出さないなら構わない」と告げると、ファイツは「嬉しい」と言った言葉の通り、実に嬉しそうな笑みを見せた。