黒の少年と白の少女 : 004
ボクと彼女の評価
トレーナーズスクールからそれ程離れていない場所にあるホテルの一室で、ラクツはパソコンのキーボードをひたすら叩いていた。ホテルの外観が少々古びているだけあって実に質素な作りの部屋だが、肝心のパソコンはちゃんと起動しているから問題はなかった。プラズマ団の長との戦闘で捕獲したポケモンも国際警察の本部に転送したし、市街戦の事後処理の手配もとうに済ませてある。後は、長官に提出する報告書をいくつか作成すればいいだけなのだ。自分が今作成しているものとは別の報告書を作成しているはずの部下に声をかけられて、パソコンの画面を見つめたまま「何だ」と返事をする。もちろんキーボードを叩く手は一瞬たりとも休めなかった。今はとにかく、一刻も早く事後処理を終えたかったのだ。
「報告書の作成が終わりました。何か手伝うことがあれば何でも……」
「ない」
「むぐ……。そ、そうですか……」
部下の言葉を最後まで聞かずにそう言い切って、再び思考を報告書の作成へと切り替える。背後から聞こえる音が何度か自分の鼓膜を震わせていることに気付いて、作業に集中していたラクツは顔をわずかに顰めた。つい先程までは確かに聞こえなかったはずのその音の正体は、部下の溜息だった。自分の言葉が一蹴されたことについて、何か思うところがあったのだろう。正直うるさくて仕方なかったが、わざわざ黙れと指摘するのも億劫だったラクツは何も言わずに一心不乱にキーボードを叩き続けた。口を動かすより手を動かした方が自分にとっては遥かにいいはずなのだ。
未だに溜息をついているこの男にとっては多分違うのだろうが、そんなことはこちらの知ったことではない。それでこの部下にどんな悪印象を抱かれることになったとしても、まったくもって構わなかった。それから数分が経った頃、ラクツはキーボードを叩き続けていた手をぴたりと止めた。報告書の作成がようやく終わったのだ。自分が今夜作成した報告書の枚数はこれで3枚になる、ちなみに後ろの男は1枚だけだ。どうやらこの男は、事務処理より実践の方が得意であるらしい。
(途中で邪魔が入ったが、ようやく終わったか……)
この報告書を長官宛に送信すれば、今夜の事後処理は全て終了することになる。誤字脱字がないかを確認するべく、今度は手ではなく目を忙しなく動かすことになったラクツの耳にまたもや声が飛び込んで来た。心なしか声の出だしに間があったように聞こえるのだけれど、それはつい先程彼の言葉を一蹴した所為だろう。
「何だ」
「ね、眠気覚ましにコーヒーでも飲まれますか?良かったら販売機で買って来ますが……」
「……ああ、それではそうしてくれるか」
徹夜明けの身体でそのまま学校に戻るつもりでいるラクツは、そういうことならとブラックコーヒーを所望した。所詮は気休め程度だしそもそも眠気など感じていないわけなのだが、疲労した頭をすっきりとさせるにはやはり何も入れないのがいいだろう。
「ブ、ブラック?……本当にそれでよろしいのですか?」
「そうだと言っている」
「はあ……。分かりました……」
わざわざ確認を取った後で、ハンサムはさっと身を翻して部屋を出て行った。その声色からは明らかに戸惑いの色が聞き取れて、部屋の中に1人残されたラクツは余計な世話だと声もなく呟く。おそらくはこちらが言い間違いをした可能性を危惧したのだろうが、それはまったくもって要らない心配だと思った。
(何故長官は、わざわざあのような辞令を出したのだろうか)
コードネーム・ハンサム、階級は警部。報告書を確認しつつも彼の情報を頭の中で反芻して、静かに嘆息する。年齢は知らないし興味もないが、それなりの年齢であることがその外見から窺えた。歳は子供である自分達より二回り近くは上だろう、彼について説明していた長官の口振りから察するにキャリアも自分達より遥かに長いことは見当がつく。しかしそんなことはどうでもいいとすぐに思い直す、国際警察官に必要なのはキャリアではなく実力なのだ。
戦闘方面の腕があることはこちらとて認めるが、その他については正直今一つという印象だ。何故長官があのような辞令を出したのかが、ラクツにはまるで理解出来なかった。正直言ってあの男とコンビを組む必要などまったくないように思えるのだけれど、辞令が出た以上は従わざるを得ない。何となく鬱屈した気分になるのは、彼が自分とは正反対の性格をしているからなのだろうか。
(ファイツとコンビを組む方が、ボクにとってはずっといいんだがな……)
幼馴染である娘を脳裏に思い浮かべて、無意識に溜息をつく。ファイツは階級こそ下位の刑事でコードネームも持たない身なのだが、それでもコンビを組むなら彼女の方がずっといいと素直に思った。もし相方を選択出来たなら、間違いなくファイツを選んでいただろう。トレーナーズスクールで潜入捜査をする前は別件でイッシュ地方の各地を飛び回っていたラクツだが、”ファイツがいてくれたら助かるんだが”と何度か思ったものだった。別に淋しかったわけではなくて、単純に戦力的な意味で彼女がいると何かと助かるというだけのことなのだが。
(事務処理はむしろボクより早いくらいだし、戦闘面でも最低限の動きは出来る上にダケちゃんがいる分対象を制圧することも捕縛することも容易だ。何よりボクとの連携を図るという点では間違いなく他の誰よりも優れているはずだが、何故長官はファイツを重用しないんだ?)
もちろんファイツとて全てが優れているというわけではない。本人も自覚がある通り抜けている部分も多々あるし、体力も女である分ハンサムより数段劣ることは否めないだろう。それに、警察官としてのキャリアは比べ物にならない程の差が開いてしまっているはずだ。ハンサムとファイツの国際警察官としての実力を総合的な面で比較するなら、十中八九前者に軍配が上がるだろう。
しかしそれを理解してもなお、ラクツの結論は変わることはなかった。自分の中では、彼より彼女の方がずっと評価が高いのだ。自分とコンビを組むという前提があればの話だが、その点だけならファイツの右に出る人間は存在しないと言い切っても良かった。しかし事前に受け取った辞令にはファイツの名は書かれていなかったから、長官の中ではそうではないのだろう。いくら自分に会いたかったと言えど、あの娘が長官の許可もなく自分と同じ潜入場所に来るはずもないとラクツには分かっていた。つまり長官は、何か意図があってファイツを自分のコンビを組む相手として選ばなかったということになる。
「……次に長官に会った際にでも、直接進言してみるか」
どの道長官には定期的に報告を入れることになっているのだし、その時にファイツと組ませてもらえるように進言しようとラクツは思った。最悪ハンサムも入れてトリオでもいい、とにかくファイツとダケちゃんがいてくれた方が様々な点で助かるのだ。少なくとも、何かとやかましいあの男より数段自分の力になることは確実だ。書き終えた報告書を送信する為のエンターキーを押したところで、何者かがこの部屋に近付いて来る気配を感じて振り返る。間違いなくハンサムの気配なのだろうが、やはりつきまとう違和感は拭えなかった。あの娘の気配はこの段々大きくなる気配よりずっと柔らかいというか、とにかく静かなのだ。
「……ど、どうしたのですか?警視どの……。そのように鋭い目をされて……」
がちゃりと音を立てて部屋に入って来た部下は、両手に缶コーヒーを持ったままポカンと口を開けていた。どうやら相当驚いているらしいが、何をそんなに驚いているのかがラクツには理解出来なかった。もちろん、彼にさして興味があるわけでもないのでわざわざ問わなかったが。
「別に。キミの気配を感じたから振り返ったまでだ」
「そ、そうですか……?」
呆然と呟いたハンサムは、自分の足元を凝視していた。音を立てて歩いたかどうかを気にしているのだろうが、やはり彼には興味もないのでラクツは黙っていた。ちなみにその答は否だ、今しがたの彼の足音はまったくもって普通の大きさだった。しかしそれでもこのハンサムという男に未だ慣れないこちらとしては、やはりどうにも気になるのだ。
「警視どの、どうぞ」
「ありがとう」
「な、何をしているのですか?」
「…………」
差し出された無糖の缶コーヒーを受け取ったラクツは、ハンサムの問いに何も答えずに缶を様々な角度から注意深く観察していた。今はこの缶コーヒーに何の細工も施されていないことを確かめる方が、自分にとってはずっと重要なことなのだ。
「警視どの。その、どうされたので……?」
「…………」
「……はっ!もしかして、買って来るものを間違えたとか……?」
「何を勘違いしている。この缶に細工がされてはいないかどうかを確かめているだけだ。……どうやら大丈夫そうだな」
缶コーヒーをひと口飲んで息をつく、数時間後には授業が始まる時間になるのだ。今日の予定は何だっただろうかと思考するラクツのすぐ近くでは、ハンサムが身体を大袈裟に震わせていた。
「さ、細工って……?」
「簡単に言えば毒や薬を入れていないか、だな」
「そ、そんな非常識な……!そんなもの、入れるはずが……!」
「そうだろうな、それが確認出来たから飲んでいるんだ。幼い頃からの習慣なんだ、口を挟まないでくれ」
まず間違いなく何の細工も施されてはいないだろうとは思うのだけれど、一応念の為だ。長官に育てられた自分もあの娘も、毒や薬に対してはある程度の耐性を持っていた。大抵の毒や薬なら例え体内に入ったとしても問題はないのだけれど、それでも用心しておくに越したことはない。
「警視どのは、どのような育ち方をされたのですか……?」
「嬰児の頃に長官に拾われてな。後から長官に拾われたファイツ共々、国際警察官になるべく育てられた。別に珍しい話でもないだろう」
「な、なんと……!むむ、なるほど……。ファイツというのは、警視どのの部屋にいたあの少女ですか。辞令には書かれていない少女がいたから、いったい何事かと思いましたぞ」
「辞令には記載がないから驚くのも分かるが、あれは驚き過ぎだ。ボクの部屋では特に大声を上げる行為は慎んでくれ。いいな、ハンサム」
「う……。りょ……了解した、警視どの。ですが、ファイツという少女はいいのですか?……お言葉ですが、あの少女も私に負けず劣らずの大声を出していましたが」
「……ファイツには、ボクからよく言って聞かせる」
彼の言葉にほんのわずかに言葉を濁す。ハンサムがやって来た気配で眠っていたファイツは目を覚ましたのだが、余程驚いたのか悲鳴を上げてしまったのだ。
「そ、そうですか……」
「もう話は終わりだ。ボクはこのまま学校に戻るから、キミはボクの任務の補助を頼む」
「はっ!例の元プラズマ団の、12歳の少女を特定するのですな!」
「そうだ。だがそちらはファイツに手伝ってもらうから、キミは連絡をするまで好きにしていていい」
「は、はあ……」
どうやら納得がいっていないらしいハンサムは綺麗に無視して荷物をまとめていたラクツは、額から何かが垂れていることに気付いて指で拭った。思った通り、その何かとは自分の血だった。
(傷口が開いたか。完治までそれなりにかかりそうだな)
そう胸中で呟いたラクツは、数時間前のファイツの言動をふと思い出していた。どうやらハンサムの跡をつけていたらしいペンドラーを苦もなく倒した後、いざ任務に向かおうとした自分はファイツに抱き付かれたのだ。震える声で「怪我をしないで」と言ったあの娘の泣きそうな表情が浮かんで少しだけ顔を顰める。「健闘する」と答えた自分はその少し後に見事に怪我を負ったわけだ。一応簡単に処置をしたが、これは間違いなくいい顔をされないなと呟いてラクツは嘆息した。
彼女はいつも、自分が怪我をするのを酷く嫌がるのだ。そしてその約束になっていない約束をこちらが破ると、罰として彼女の大好物であるパフェを奢るシステムとなっているわけだ。今までに何度パフェを奢る羽目になったかが、ラクツにはまるで分からなかった。
(仕方がないな。明日、ファイツと一緒に食べに行くか)
ちょうどいいことに、学校の近くにはパフェを出す店が何件かあるのだ。ファイツと出かけるついでに、今月である誕生日のプレゼントの希望も聞いておこう。そう決めたラクツは、ハンサムを1人残してホテルをさっさと後にした。徹夜明けの身体である所為なのか、建物の間から射し込む朝日がやけに眩しかった。